闇……
今この空間には、それだけが存在していた。
一寸先も見通せぬ闇の空間。そしてまた、些細な音すらも感じられぬ空間。
だが……かすかな電子音と共にほんの一点に明りが灯る。僅かばかりのその光はやがて、隣へと伝播
してゆく。それに伴い、電子音も複数聞こえてくる。いままで空間を支配していた闇の一部を剥ぎ取
ったものは、モニターの光だった。相変わらず闇の支配は強大であったがそれでも光は、薄ぼんやり
と周りの様子を照らし出す。
そこは何かの研究室のようだった。先程から光を放つ、複数並べられたコンピュータのモニターからはどれも
「チェック完了。問題なし」
といった意味合いの文字が表示されている。そのコンピュータからはケーブルが延びていて、その先は
未だ闇の中にある大きなケースの下部に接続されていた。ケースの上半分は半透明のガラス状で、円柱
を半分に割った形をしていた。中には何かが入っているようだった。
そして部屋自体の照明も点き始める。徐々に明るくなってゆき、ついには闇を完全に打ち消す。
複数並べられたコンピュータ、そこから伸びるケーブルに接続されたケース。いまや遮る闇は無く、
完全にケースの中の様子を窺い知る事が出来た。
ケースの中には一人の男性が横たわっていた。まだ若い、少年とも呼べる位の見た目だった。
病院で検査時などに着せられるような服を身に着けている。なかなかに整った顔立ちの両目は閉じら
れていてピクリとも動かない。ほんの少し胸部が上下していることから生きているらしいことは分かった。
やがて部屋の壁の一角を占めていたドアが開き、一人の研究者らしき服を着た男が入ってきた。
４０前後と思しき男の顔には、疲労と苦悩、後悔とも決意ともとれる表情を浮かべている。
「……成功だ」
男は幾つかのモニターをチェックした後、ケース内部で眠る青年を見ながらそう呟いた。
更に男はコンピュータの一つを操作し始める。やがてモニターに
「意識レベル、覚醒段階へ移行」
と表示される。それから時を置かずして空気の漏れるような音がして、半透明のケースの上半分が
真ん中から左右に開いた。
男は近づくと、未だ中で眠っている青年へと声をかける。
「……起きるんだ」
青年は未だ目覚める様子は無い。
「起きるんだ……目を覚ましてくれ……祐一君」
男が青年の名前を呼んだ。すると、祐一と呼ばれた青年のまぶたがかすかに動き、指先もまた動いた。
「祐一君……」
再び青年の名前を呼ぶ。
「う……」
僅かなうめき声と共に青年の目が覚める。閉じられたまぶたを少し開くが、室内の明るさに目が慣れて
おらずに再び、今度はきつく閉じられる。徐々に目が室内の明るさに慣れてきた青年は、ようやく目を
開いて室内の様子を見回す。
「ここは……俺は……？」
意識がハッキリと戻っていないのか、自分の事も周りの状況も理解出来ないでいると傍らから声が
かけられた。
「気がついたようだね、祐一君……私が分かるかい？」
「あなたは……！」
青年の意識が完全に戻った。自分の名前は祐一……『相沢祐一』
祐一を見ている男は知っている人物。
そして、自分が意識を失うまでの記憶もよみがえってきた…………
＊＊＊＊ Ｋａｎｏｎ 〜ＭａｓｋｅｄＲｉｄｅｒ Ｓｔｏｒｙ〜 ＊＊＊＊
＊＊＊＊ 第一話 ＊＊＊＊
３日前……
ヴォォォォン……
○県山中の峠道を１台のバイクが走っていく。プロのレーサーもかくやというその走りは、まるで
人とマシンが一体化しているかのようだ。山肌にそって造られた道はいくつものコーナーが出来ており、
その都度見事なラインで走っていった。道路の端や山肌などには雪が残っていたがそんな事もお構いなし
であった。
「いい感じだ」
バイクのライダー……相沢祐一はそう呟くと、さらに加速すべくアクセルを吹かした。マシンは乗り手の
意思に答え、己の存在を強烈に主張するかのように山間にエンジン音を轟かせた。
祐一は、この峠道を走りこんでいた。
購入した新マシンの慣らしや調整も終わり、放浪癖ともいうべき趣味の遠乗りを兼ねて
気の向くままバイクを走らせてこの地にやって来ていたのだ。
学校も冬休みに入っていたので、もう暫くはこの放浪生活を楽しむつもりでいた。
「（さてどうする。そろそろ違う場所へ移ろうか？ いっそあの街まで……）」
そんな事を考えながら次のカーブ−−ブラインドコーナー−−を曲がった時だった。
１台のトラックがセンターラインを大きくはみ出して祐一の目の前に現れた。車が撥ねた石でも当たった
のか、本来ならあった筈のカーブミラーも割れており、バイクのエンジン音や、考え事をしていて対向車の
走行音にも気づかなかった祐一にはこのトラックが突如現れたかのように見えた。
「チイッ！」
それでも祐一は、危機を察すると持ち前の反射神経をもって回避行動に移る。バイクはまたしても乗り手の
意思を十分に反映して祐一の操作通りに自分の機体を動かしていく。
キイキキキキキイイイイーーーーーッ！
回避は成功し転倒を免れたものの、かなり車体を傾けた状態で祐一のバイクは停まった。足をついて
自分とマシンを支える。体勢をたてなおすとようやく回りを見回す余裕が出来た。ヘルメットを脱いで
一息ついて先程のトラックを捜す。どうやらハンドルを切り損ねたらしく、山側の壁面にぶつかって停まって
いた。路面には急ブレーキのタイヤの跡が残されていた。
「オイオイ……運転手は……死んじまったか？」
祐一が運転手の安否を確かめようとトラックに近づいてドアを開けようとしたが、その前にドアが開いて
中から一人の男が転がるように降りてきた。そしてそのまま道路に横たわった。
祐一は男を抱え起こすと声をかけた。
「大丈夫ですか？ しっかりして下さい！」
「うう……」
見た目、初老とも言うべき年齢の男だった。車が衝突したときにでも負傷したのか、額から血を流していた。
どこかの研究所の人間なのか、雪を模したマークのはいった白衣を着用している。
「おい！」
祐一が男を揺すり、再び声をかけると男は気がついた。
「……ハッ」
「気がつきましたか？ あんな運転して、何かあった……」
「う、ウワァーーーッ！ た、助けてくれ、た、頼む。見逃してくれ！」
気がついた男に「何かあったんですか？」と聞こうとしたが、男は祐一を一目見るなりわめき散らしながら暴れだす。
「落ち着いてください！ 俺はあなたに危害を加える気はありません！」
暴れている男を押さえつけるようにして、祐一は相手を安心させようと言葉をかける。ようやく男も
落ち着きを取り戻した。
「き、君は……ヤツらの仲間じゃないのか？」
「ヤツら？ 誰かに追われているんですか？」
祐一は辺りを見回すが人の気配は無い。男は、祐一が自分を追っている連中とは違うらしいと悟ると今度は祐一に縋りついてきた。
「た、頼む。助けてくれ！ 私を、ど、何処か安全な所まで連れて行ってくれ！」
「な、ちょっ、ちょっと。落ち着いてください！ 分かった、分かりましたから。とにかくここから
離れましょう。歩けますか？」
「ああ、ありがとう」
祐一は男をどうにか宥めると、肩を貸して立たせて自分のバイクへ歩いていこうとした。だが……
「いたぞ！」
声と共に複数の黒づくめの男達が山側の斜面の木立の中から現れた。
異様な姿だった。全身を黒いタイツのようなもので覆い、目、鼻、口の部分のみ露出している。
腹部には人間の肋骨を模した模様が施されており、腰には雪の結晶の彫刻の入ったベルトを着けていた。
その雪のマークは連中の額にも描かれていて、祐一の傍らに立つ男の白衣についているそれと同じだった。
黒づくめの男達は、祐一達を取り囲むと、腰に差している短剣を抜いて威嚇するかのように構える。
「な、何だお前達！？」
「……その男をこちらに渡せ」
黒づくめの一人が、祐一の問いには答えずに自分達の用件のみを伝える。他の黒づくめ達も徐々に包囲の輪を狭めてくる。
「ハイ分かりました……って渡せるかよっ！」
祐一は、そう言いながら手にしていたヘルメットを近くの黒づくめに投げつけた。その怯んだ隙をついて男の手を
とって走り出し、包囲の輪を抜け出す。
「逃がさん！」
黒づくめの一人が投げた短剣が、祐一が手を引いていた男の足を掠めた。
「グアッ！」
男はその場に蹲ってしまう。祐一の足も止まらざるを得なかった。そして再び包囲されてしまう。
ジリジリと追い詰められてしまい、やがて斜面の補強ブロックに背を押し付ける格好になった。
「逃げられると思うな」
「クッ！」
男を背後に庇う祐一の顔に焦りが浮かぶ。これまでか？ と思った瞬間、突然黒づくめ達が何かに気づいて
動きを止めた。一斉に短剣を左手に持ち替え直立の姿勢をとる。そして指先を揃えた右手を曲げ、胸の前で
水平にするポーズを取って
「イーッ！」
というカン高い声と共に右腕を右斜め上に伸ばした。
「？？？」
祐一が訝しがる間もなく次の瞬間
「ギギィッ！」
という声とも物音とも判別しがたい音が祐一達の頭上−−斜面の上の木立の中−−から聞こえてきた
「何だ！？」
祐一が見上げるとソレは木立から飛び出して、自分達の眼前−−黒づくめの前−−に着地した。
「な？……バ、化け物！？」
そうとしか呼べないような代物だった。頭部、胴体、手足など、たしかに人と同じものを持っていたが
その姿は異形だった。頭部は黒く毛むくじゃらで顔の中心部に赤く六角形の昆虫の眼らしきものが３つ
並んでいた。その下には鋭い牙を持った口、頭頂部には２本の触覚らしきものが動いていた。手足は緑色で
その指先には爪が凶悪な光を放っている。まるでその姿は……
「蜘蛛の……化け物？」
小さい頃に読んだ漫画の中から飛び出してきたようなその姿に驚く祐一。しかしそれは夢でも幻でもなく
圧倒的な存在感を持って、祐一達の前に存在していた。
「ギギィッ！」
化け物の口から声らしき物が発せられる。どうやら先程の声とも物音ともつかないものは目の前の化け物
が出したようだった。蜘蛛の化け物は威嚇するかのように両手を動かしている。
「フフフ、我ら『カノン』の手から逃げられると思っているのか？ 馬鹿なヤツめ」
その台詞は驚くべき事に、目の前の蜘蛛の化け物が喋っていた。
「うぅ……た、助けてくれ」
祐一の背後の男はただひたすらに怯えていた。
「お前ら、『カノン』とか言ったな。一体何者だ！？ 何故この人を狙う！？」
祐一は本能で感じる恐怖感に負けじと叫ぶ。
「背く者、刃向かう者には死あるのみ。それが我らカノンの掟だ。そして小僧！ キサマも我らの姿を見た
以上生かしておく訳にはいかん。死んでもらうぞ……戦闘員ども、かかれ！」
それだけ言うと、蜘蛛の化け物は控えていた黒づくめ−−戦闘員−−に指示をだす。
「イーッ！」
戦闘員達も再び武器を構えると、祐一達に向かって来た。
「勝手な事を言うなぁ！」
あまりの理不尽さに、祐一の怒りが爆発した。飛び掛ってきた戦闘員の短剣をかわすと、その顔面にパンチを
叩き込む。続いて短剣を振りかぶってきた戦闘員の腕を自分の腕で止めてがら空きの腹部にパンチを打ち込み
相手がよろめいた所に蹴りを加えて相手をふっ飛ばした。
その後も何度か戦闘員がかかっていくが、祐一は明らかに戦い慣れしている動きで戦闘員達の攻撃をしのいでは
反撃していた。
「（まさか、父さんに教えられた格闘技が役立つ日が来るなんてな）」
膠着状態に陥っていた。戦闘員達は祐一の予想外の反撃に驚いた様子で、攻撃しようとせずに先程のように
祐一達を包囲している。祐一は構えを解かずに、自分達を取り囲む戦闘員達の動きに注意していた。
そして、その状態を破ったのは戦闘員達の背後に立っていたあの蜘蛛の化け物だった。
「ほぅ、只の人間にしては中々やるようだな……面白い、キサマはこの『蜘蛛男』が直々に相手をしてやろう。来い！」
目の前のコイツさえなんとか出来れば逃げられるかもしれない。恐怖心をどうにか押さえ込んだ
祐一はそう考えて目の前の化け物−−蜘蛛男−−に注意を向けた。両腕を開いたポーズをとっている蜘蛛男
との間合いを一気に詰めると隙だらけの腹部に全体重を乗せたパンチを打ち込む！
ドゴッ！
「ぐわぁ！」
だが、悲鳴をあげたのは攻撃を当てたはずの祐一だった。蜘蛛男の身体の頑丈さに、手の方がダメージを受けてしまう。
「フハハ。キサマごときの攻撃が改造人間の俺様に通用するものか」
「改造人間だと？……くそ！」
聞きなれない単語に戸惑いつつも、今度はとび蹴りを放った。だがしかしこの攻撃も、命中はしたものの
蜘蛛男にはじき返されてしまった。
ズザザッ！
はじき返されて、道路の上を２，３回ほど転がる祐一。腕と足にダメージがあるのかうつ伏せのまま起き上がれ
ないでいた。そこへ蜘蛛男がゆっくりと近づいてくる。
「フハハ……所詮只の人間が我らに敵う筈は無いのだ。だが小僧、キサマはなかなか優秀な人間のようだ。
キサマを我ら、カノンの一員にしてやろう」
「お前達の仲間だと？ ふざけるな！ 誰が……」
最後まで言う事は出来なかった。蜘蛛男が手から糸のようなものを出したのだ。その糸は祐一の身体
に纏わりついて身体の動きを封じてしまった。
「ク……何だこいつは！？ う、動けない……」
糸を千切ろうとするが、祐一の力では身動き一つ出来なかった。
「フハハ、暫くそうしていろ」
「俺をどうするつもりだ！？」
「これからキサマを我らのアジトに連れて行く。だがその前に……」
それだけ言うと蜘蛛男は祐一に背を向ける。その視線の先には先程の研究員の男が戦闘員達に取り押さえられていた。
「その前に脱走者の処刑を行う。ソコで見ているがいい。カノンに背いた者の末路を！」
蜘蛛男はゆっくりと研究員の下へと歩いてゆく。二人の戦闘員に両側から肩と腕を掴まれている男は逃げだそうと
もがくが、戦闘員の力が強くて拘束を解けないでいた。
「やめろぉ！」
身動きのとれない祐一は、ただ見ているしか出来なかった。
「覚悟はいいな？ 死ねぇ！」
「た、助けてくれぇ！」
男の顔が恐怖に歪む。蜘蛛男は再び手から糸を出した。それは男の首に巻きついて締め上げる。
「グ……ガァ……」
「ギギイッ！ 一思いには殺さん。カノンに背いた事を後悔しながら死んでゆけ！」
男の顔色が見る見るうちに変わっていき、ついに男は絶命した。男が絶命すると、今度は口から白い
液体を吐き出す。それが男の死体にかかると、みるみるうちに男の身体が溶けていき、ついには消えて
しまった。
「クッ……」
初めて目の当たりにする人が死んでいき、そして溶けて消えていく様に眼をそむけた。
「脱走者の処刑は完了した。戦闘員ども、引き上げるぞ」
蜘蛛男はそう言って、糸で拘束されている祐一を戦闘員に運ばせた。
「イーッ！」
祐一は数人の戦闘員達に運ばれていった。
「くそ、離せ！ 離せーーーッ！！」
祐一の叫びが山中に木霊する……が、それを聞くものは誰もいなかった。
★ ★ ★
あれから祐一は、やってきたカノンの車に載せられると山中の奥深くにある秘密のアジトに
連れてこられていた。そして拘束を解かれると、牢のような場所に監禁された。
「ここから出せー！（ドンドンドン）」
閉じ込められてからというもの、祐一は出せと叫んだりドアを叩いたりしてみたが、外からは
何の反応もなく、ただ天井付近の監視カメラの無機質なレンズが祐一の行動を監視していた。
「ハァ……」
やがて、叫ぶのにも動き回るのにも疲れたのか、祐一は壁に背中を預けて座り込む。
「（これは夢……じゃないよな。一体何だっていうんだよ。連中、カノンとかいったな。ふざけた
格好だったが、嘘や冗談でもなさそうだし第一あの蜘蛛男とか言ったか、あれは作り物や着ぐるみ
なんかじゃない。それに……人間が溶けて消えちまうなんて……」
先程の光景が祐一の脳裏に浮かぶ。
どれ程そうしていただろうか。座り込んでいた祐一の耳にドアの開く音が聞こえた。
そちらに目をむけると、戦闘員が入ってくるところだった。
「出ろ」
戦闘員はそれだけ告げると手に持ったマシンガンを祐一に向けて、祐一に牢から出るように促す。
「俺を何処へ連れて行く気だ？」
「うるさい、黙って歩け」
背中に銃口を押し当てられながらアジトの通路を歩いていった。通路内に窓はなく、外の様子を窺う事は
不可能だった。しばらく歩かされた後、研究室らしき部屋の前で止められる。
戦闘員はドアの横の機械を操作すると中と連絡をとる。
「相沢祐一を連れてきました」
「（何故俺の名前を……荷物からでも調べたのか）」
すると機械から「入りたまえ」という声が聞こえると共にドアが開かれる。
戦闘員に促されて部屋に入った。やはり何かの研究室らしく、様々な機械が並べられている。更に奥にも
幾つかの部屋が存在しているようだった。
「こちらに来たまえ」
左側にある半開きのドアの向こうから声がかけられる。祐一は後ろの戦闘員を見るが、戦闘員は無言の
まま銃口の先で「行け」というゼスチャーで祐一を促す。どうやら一人で入って来いという事らしかった。
「君は持ち場に戻るんだ」
「イーッ！」
戦闘員は一声だけ答えると部屋から出て行った。戦闘員がドアの向こうに消えて、ドアが閉まって
からも祐一はその場を動こうとしなかった。
「大丈夫だ。安心して入ってきてくれ……祐一君」
「（この声は……！？）」
その声に祐一は聞き覚えがあった。声の主を確かめるべく、祐一は意を決して呼ばれた部屋へ足を踏み入れる。
中はテーブルとソファーが置かれているだけの殺風景な部屋で、ソファーには声の主と思しき人物が座っていた。
４０前後と思えるその男は、殺された研究員と同じ服装をしていたが、祐一は何よりその顔と声に覚えがあった。
「久しぶりだね。まさか、こんな場所で君に会うとは思わなかったよ……祐一君」
「け……健吾…さん、健吾叔父さん？」
「そうだ」
その人物は、祐一の母親の妹−−叔母−−の夫、『水瀬健吾』だった。
続く