私が知っている世界はごくわずか。
 この決して広くはない、白い部屋の中とその中にある比較的大きめの窓から見える範囲の世界だけ。
 私の知っている世界に変化などほとんどない。季節の移り変わりなどは知識として知っているだけでそれを肌で実感することなど今まで一度もなかったし、これからもおそらくないだろう。
 いつも変わらない、何の変化もない退屈でつまらない世界。気温はエアコンで常に一定に保たれ、空気も必ず空気清浄機のフィルター越し。風もなく、でも澱んだ空気など少しもない人為的に管理された世界の中で私は生かされている。
 生きているのではない。生かされているのだ。私がそれを望もうと望まなかろうとそんなことはお構いなし。私はただ、生かされているだけ。そこに私の意思などは存在しない。私は私ではない別の意思の元、こうして生かされている。
 だからと言って死にたいと言うわけでもない。私だって死ぬのは怖い。自殺する勇気なんか私にはない。誰かに殺してくれなんて頼めるはずもないし、そんな知り合いなど一人もいない。それにそんなことを言おうものなら私をこうして必死になって生かそうとしてくれている私じゃない別の意思――具体的に言えば私の家族のことだ――に申し訳が立たないじゃないか。私の家は決して裕福なわけではないのだ。それでも必死に家計をやりくりして、私を生かし続けようと努力し続けてくれている。私がそんな家族の努力に対して出来ることと言えば、こうして生きていることぐらい。生き続けることぐらいだ。
 だけど時折思うことがある。
 どうして私だけこんな身体だったのだろうか。
 私以外の家族は皆健康体だ。にもかかわらず私だけがこう言う身体に生まれ、そして家族に迷惑をかけ続けている。そんなことを口にしたら家族、特に私とは一つしか変わらない姉は顔を真っ赤にして怒ることだろう。「誰も迷惑だなんて思ってない。家族なんだから当たり前」とか言って。でも私の存在が我が家の財政を苦しめているのは間違いのないことだ。私の感覚からすればそれは充分迷惑をかけていると言うことになるのだが、姉はそうは思っていないらしい。
 少し姉の話をしよう。
 私とは一つしか違わない。性格はどちらかと言うとお人好し。頼まれると嫌とは言えないタイプ。今までに何度もわがままを言って散々困らせてきたが、それでも私のわがままに自分の出来る範囲で何とかしようと努力してくれた。何だかんだでいい人。
 私のお陰で姉は幼い頃から随分寂しい思いをしてきたことだと思う。だけど、そんなことを姉は私には一言も言わない。絶対に顔に出さない。私の側にいる時は常に笑顔で、私を気にかけてくれている。世間的に見て優しい姉の理想像だろう。
 でもそんな姉のことを私は少し疎ましく思っている。何故そこまで自分にするのかがたまに理解出来なくなる。何故自分よりも私を優先させることが出来るのか。自分だってやりたいこととかあるんだろうに、何故それよりも私の側に居たがるのか。血のつながりがあっても所詮は他人。私にはそんな姉の心情が理解出来ない。こんな私など放っておけばいいのに。自分の好きなことをやればいいのに。何で私なんかに構うのか。
 そんなことを言ったらまた怒られるのだろう。それでも姉は私に愛想を尽かそうとはしない。私にはそれがわかっている。だが、その理由まではわからないし、理解も出来ない。

 開きっぱなしのカーテン。
 窓の向こうの空には星が瞬いている。
 それを見ながら私は小さくため息をついた。
 今日もまた一日生き延びた。明日もこうして星を見ることが出来るのだろうか。
 別段私の身体を蝕んでいる病は今日明日をも知れないものではない。だけど、それは確実に私の身体を蝕み続けているし、着実に私の寿命を削り取っている。私の寿命が尽きるのが先か、私を蝕んでいる病魔が私という存在を全て喰らい尽くすのが先か。どっちにしろ待っているのは”死”だ。
 ”死”とは人間に与えられた唯一平等なものである、と誰かが言っているのを聞いたことがある。確かに”死”は誰にでも、金持ちであろうと貧乏人であろうと、権力者であろうと支配される人であろうと、男であろうと女であろうと絶対不可避なものだ。だけど私はその”死”が人間に与えられた唯一平等なものとは思っていない。
 今の世の中医学が進んで八十九十ぐらいまで生きていても不思議でも何でもない。そこまで生きて死ぬのと生まれてきてすぐ死ぬのとではとてもじゃないが平等とは言えないだろう。長生きして様々な経験をしてそれから死ぬのと生まれてたった数時間で、下手をすれば生まれることなく死んでしまう、何の経験もせず何も知ることなく死んでしまう。それの何処が平等だ。
 本当に平等と言うのならば人間の寿命に徹底した制限をかけるべきだ。何があろうと、どんな病気や事故に遭おうと絶対にこの歳までは生きられる。どれだけ医学が進歩してもそこから先の延命は絶対に出来ない。そう言う風にするのなら本当に平等と言えるだろう。
 これは単に、緩やかに死に向かっている私のひがみだ。
 私は父や母、姉とは違って今までの人生のほとんどを病院のベッドの上で過ごしてきた。普通の健康な人が経験してきたことのほとんどを私はこの身で経験していない。ただ知識として知っているだけ。それがたまにとてつもなく悔しいと思える時がある。
 例えば今日みたいな夜。
 今日は父も母も仕事が忙しくここに来ることはなかった。いつもなら姉が代わりにここにいるのだが、今日は何か大切な用事があったらしくほんのちょっと顔を見せただけ。だから実質今日と言う日の大半を私は一人で過ごしていたことになる。そう言う時は退屈しのぎに色々なことを考えてしまうものだ。そう、つまらないことを。そして最終的には自己嫌悪に陥ってしまう。結局は頭でっかちな、知識だけで経験の伴わない自分に対する自己嫌悪。何を考えたところで、それが本当にどうであるか確かめる術もないのに。何と馬鹿馬鹿しいことか。
 枕元においてあるリモコンに手を伸ばし、あるボタンを押した。するとするすると開きっぱなしだったカーテンが閉じ始めた。別に立って歩けないわけでもないが、人生のほとんどをベッドの上で過ごしていた私だ、身体を支えるだけの筋力が付いていない。窓の側まで行くのだけでも一苦労なのだ。そこからカーテンを閉めてまたベッドに戻るという芸当は出来るはずもなかった。だからこそのリモコンなのだ。この部屋にいる限り大抵のことはこのリモコン一つで何とか出来る。何とも便利な世の中になったものだ。まぁ、その分この部屋の代金は高いわけだが。
 カーテンが完全に閉じ、部屋の中が暗くなると同時に私はベッドの上に転がった。そして目を閉じる。
 このまま死んでしまえたら楽でいいのに。だがきっとそれは出来ないだろう。後どれだけこんな退屈な日々が続くのか。私はいつまで生きているのか。いつまで生かされ続けるのか。
 目を閉じてもそんなくだらないことを考えてしまう自分を嘲笑するように口元を歪める。
 早く眠ってしまおう。眠ってしまえばこんな馬鹿げたことを考えなくて済む。夢の中でなら私は何処にだって行けるのだから。

* * *

 さっと軽やかな身のこなしでその男はそこに降り立った。闇に溶け込むかのような黒いコートに身を包み、手には同じく黒い鞘に収められた日本刀。ただその頭髪だけが赤い。
「やれやれ、逃げ足だけは早いんだな」
 赤毛の男――神坂刀弥はそう呟くとゆっくりと立ち上がった。それからぐるりと周囲を見回してみる。それと同時に複数の気配が彼を取り囲むように現れた。
 刀弥を取り囲むように現れたのはどれも同じような姿をした異形。二本の足で立ち、二本の腕を持つのは人間と同じだが、そのどれもが不気味な仮面のようなものをつけている。その仮面の目の部分から頭頂部に向けて伸びているパイプのようなもの、それがこの異形達を一際異形たらしめている。
「チッ、くだらねぇ真似を……」
 異形達を見回し、刀弥が嫌悪感たっぷりに舌打ちする。
 果たしてそれが合図になったのか、異形達が一斉に動き出した。その内の一体が人間とは思えない動きで刀弥に向かって飛びかかってくる。
 刀弥は手に持った刀をそのまま振り上げ、飛びかかってきた異形を弾き飛ばし、それからすかさずその刀を後ろへと突きだした。彼の背後に回り込んでいた異形がその一撃を丁度人間で言う鳩尾の辺りに食らい吹っ飛ばされる。更に横から迫ってきた一体に回し蹴りを喰らわせ、そのまま更に身体を回転させて自らが蹴り飛ばした一体を飛び越えてから着地した。
 そこに一体の異形が鋭い手刀を突き出してきた。
 その一撃を刀弥は持っていた刀の柄で受け止める。
「そう簡単にやられてやるわけにはいかないんでね」
 ニヤリと笑いながらそう言うと、正面にいる異形をサマーソルトキックの要領で蹴り飛ばし、そのまま後方へと飛び下がった。それである程度の距離を取るつもりだったのだが、着地するなり次々と異形が彼に向かって飛びかかってくる。
「いい反応してるじゃねぇか!!」
 異形達が次々と繰り出す手刀の一撃を刀弥は鞘に収めたままの刀で捌き続ける。その顔には少し焦りの表情が浮かんでいた。少し相手を侮りすぎていたらしい。
 異形達は予想以上の連携でもってこちらに反撃する隙を与えない。一体が体勢を崩されても別の一体がそれをカバーするように動く。更に別の一体が刀弥に向かって攻撃。更に別の一体が刀弥の隙をうかがっている。これでは下手に攻撃出来ず防戦一方になってしまっても仕方ない。
(こんなところ、姉貴には見せられねぇな。もし見つかったりしたら何言われるかわかったもんじゃねぇ)
 そんなことを考えながらも刀弥は異形達の連続攻撃をしっかりと捌いていた。反撃するチャンスを見つけられないだけでこの程度の攻撃、捌くのに専念するなら何の問題もない。今、一番問題なのはこの場を実の姉に見つかると言うこと。出来れば姉がここに来る前に何とか反撃の糸口を掴み、この異形達を倒してしまいたいところなのだが。しかし、そんな彼の希望は脆くも打ち砕かれることになる。
「何ちんたらやってるのよ、刀弥」
 今この場で一番聞きたくない声が聞こえてきた。振り返るまでもなくその声の主が誰であるか刀弥にはわかっている。彼の実の姉、神坂珠里。
「そんな”使徒”ぐらいさっさと倒しなさい」
「簡単に言ってくれるよ、この人は」
 そう言いながら刀弥は一体の異形の突きをかわし、同時に手に持っていた刀でその異形の首筋を叩き伏せた。更に身体を九の字に折り曲げたその異形の背中に自分の背を乗せるようにして乗り越え、反対側に降り立つと同時に正面に回り込んできた異形の一体に蹴りを喰らわせて吹っ飛ばす。
「それよりも本命はどうしたの? まさか逃がした訳じゃないでしょうね?」
 聞こえてきた声が少し剣呑なものになる。
「その辺で高みの見物してるんじゃねぇか? 見ているだけなんだったら探してくれよ」
 その姉の方を見ずにそれだけ言い返す刀弥。何となくだが姉の顔を見るのが怖い。どんな表情を浮かべているのか見当がつくからだ。おそらくは苦虫を一気に十匹ぐらい噛み潰した顔をしているに違いない。それに加えてかなりイライラしているみたいだ。下手なことをしようものなら敵である異形ではなく自分に向かって攻撃してくるかも知れない。
「全く……さっさとしなさい! 本命が逃げる前にね!」
「だから簡単に言ってくれるなっての」
 姉に聞こえないような声で呟くと刀弥は手にしていた刀を抜き払った。そして一瞬の後、再び鞘に戻す。
「……つまらぬものを斬ってしまった……なんてな」
 ニヤリと笑ってそう呟くと、彼に襲いかかろうとしていた異形が二体、その胴を真っ二つにされて崩れ落ちた。先ほど刀を抜き放った時に居合い切りの要領で異形の胴を切り裂いていたらしい。まさしく電光石火、目にも止まらぬ早業である。
 刀弥の人間離れした早業を見た異形達が怯んだ。明らかに怯みを見せた。それがどう言う結果になるかわかっていながらも、どうしてもそれを避けることが出来ない。
「恨むなよ……お前らが自分で選んだんだぜ、その結果をよ」
 少し哀れむようにそう言い、刀弥は怯んでいる異形達の間を駆け抜けていった。そして、何時の間に抜いたのか、剥き出しだった刀をゆっくりと鞘に納めていく。カチンと言う音と共に刃が鞘に完全に納められると同時に異形達の身体が次々と真っ二つになり、崩れ落ちた。
 これでその場に立っているのは刀弥一人。彼の背後で倒れている異形達の身体が次々と灰になり、吹き渡る風に乗って消えていく。
「ったく、いい気分じゃねぇな」
 風に乗って消えていく灰を見ながら吐き捨てるように言う刀弥。その口調には少なからず苛立ちが込められている。
 と、そこに巫女服を着た珠里が近付いてきた。
「姉貴、本命は?」
「逃げたわよ。あんたが”使徒”相手にちんたらやっている間に」
 珠里の方を振り返って尋ねた刀弥だが、彼以上に不機嫌そうな姉の顔を見て声をかけるのではなかったと思わず後悔してしまう。
「全く……こんな”使徒”相手に何手間取ってるのよ。お陰で本命取り逃がしちゃったじゃない」
「何言ってんだよ。俺はそもそも戦闘要員であって探査追跡とかは姉貴の仕事だろ? それにたかが”使徒”っつっても結構厄介な相手なんだぜ」
 明らかに不満そうな珠里に刀弥は肩を竦めながら言い返す。
「それはわかってるわよ。でも本命を追いかけていったのはあんたで、こんなところで足止めを食って奴を逃がしたのもあんた。どっちにしろ奴を逃がした責任はあんたにあるのよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ! 追いかけろって言ったのは姉貴の方だろ!!」
 何となく嫌な流れになってきた、と思いながらとりあえず抗弁してみる。もっともこの姉にはそんなものは一切通じないとわかっているのだが。
「でも奴の思うツボにはまれとは言わなかったわよ。全く、修行が足りないわね。いいわ、明日は朝からみっちりしごいてあげるから」
「冗談じゃねぇ……」
 案の定、こっちの言い分は見事に叩き潰され、ガックリと肩を落とす刀弥。
「折角の休みを修行で潰すことになるなんて……」
 本当ならば明日の休みには親友である御剣空也と出掛けるつもりでいたのだが、この調子だとその予定はキャンセルするしか無さそうだ。その予定がなかったにしろ折角の休日をまるまる修行で潰されるのはたまったものではない。だが、姉にそんなことを言っても通用しないだろう。刀弥に出来ることと言えばただ嘆くことのみ。
「全く、冗談じゃねぇ……」

* * *

 目を閉じてどれだけ過ぎたのか。
 今日に限ってなかなか寝付けなかった。いつもならばそう言うことはないのだが、何故か今日は上手く寝付けない。別に昼寝をしていたわけでもないのだが。
 とりあえず目を開けて、枕元においてあるリモコンを手にした。一度閉めたカーテンを開け、窓の向こう、星空を眺めてみる。
 死んだらお星様になる、などという馬鹿げたことを信じているわけではないが、もしそうなれば一体どう言う気分だろうか、と思う事がたまにある。空からずっと地上を見守っているのだ。何か今の自分とあまり変わらないような気がして面白くなかった。
 ぼんやりと星空を見ているとたまに流れ星を見つける。姉が「流れ星を見たらお願い事をするの。消えてしまう前に三回言えたら叶うんだよ」と嬉しそうに言っていたが、あっと言う間に消えてしまう流れ星にお願い事を三回も繰り返して言えるはずがない。仮に言えたとしてたらそれはどれだけ短いお願い事だ。それはもはや単なる単語でしかないじゃないか。だいたい誰がそんなお願い事を叶えてくれると言うのだ。世の中、そんなに都合のいいことがあるはずがない。全く馬鹿馬鹿しいことこの上ないと姉に言ったら、姉は悲しそうな顔をしていた。ひねくれている私と違って姉はそう言うことを信じているのだろう。少し申し訳ないと思ったけど、でもやっぱり私の考えは変わらない。
「あ……」
 流れ星だ。
 もし本当に流れ星が消える前に三回願い事を言えたなら、本当に誰かが願い事を叶えてくれるとしたら、私は何を願うだろう。
 お金。
 この病室の料金も馬鹿にならないし、私の治療費だってかなりものものだ。それにあって困るものじゃない。
 でも、それよりも。
 私が本当に願うのならば。
 みんなと同じ、普通の身体。
 こんな病気じゃない、ごく普通の、当たり前の生活の送れる身体が欲しい。
 ごく当たり前の、家族と一緒に過ごせる、姉と一緒に学校に行ける、そんな身体が欲しい。
 勿論、それは無理だって事はわかっている。
 でもわかっているからこそ、余計にそれを渇望する私がいる。心の奥底で、それをずっと求め続けている私がいる。
「……その願い、叶えてやろう」
 突然聞こえてきた声。
 私が顔を上げると、何時の間にそこに現れたのか、一人の男の人がじっと私の顔を見下ろしていた。見たことのない端整な顔立ち。私の痩せ細った身体とは違う中肉中背というのか見事なバランスの取れた体つき。そしてその背中には白く輝く翼。
「あなたは……?」
「私は神の僕。君の心の願いを叶える為に神が使わした。君たち人間の言葉で言うならば”天使”」
 その男の人はそう言うとにこりと笑みを浮かべてみせた。
 それはまさしく天使の笑み。
 私の願いが、私が心の奥底でずっと願っていたことが、神様に届いたのだ。
 その証拠に今、私の前には天使がいる。
 そう、本物の天使が。

KISIN-Hunter of Angels-
誘惑の天使の章

 神坂家はこの街でもかなりの旧家の部類に入る。江戸時代の頃はこの地域の領主の武術指南役として名を馳せ、その名残か今もその武家屋敷とも言える家には広い道場が隣接していた。ちなみにその道場では週に二三度、近隣の子供達を対象にした剣道教室が開かれてもいる。勿論珠里や刀弥、刀弥の幼馴染み兼親友である空也、その妹分である日向真帆もその剣道教室の生徒の一人である。
 この日曜日、近隣の子供相手の剣道教室は午前中で終わり、今は静かな道場の中、刀弥が一人木刀を下段に構えて佇んでいた。じっと目を閉じ、ぴくりとも動かず何かを待っている。一体どれくらいの時間そうしているのか、その額には大粒の汗が浮かんでいた。
 その道場の外では珠里が厳しい表情をして道場の中にいる刀弥を見つめている。彼女の側には体格のいい初老の男が弓を手にして佇んでいた。
「しかしお嬢様、本当によろしいので?」
 初老の男が珠里に向かって小さい声で尋ねる。
「いくら刀弥お坊ちゃんでも下手をすれば大怪我では済みませんぞ」
「いいのよ。これ位出来なかったらこの先戦ってはいけないもの」
 少したしなめるような感じの初老の男に珠里はあっさりとそう答えた。厳しい表情は崩さず、その口調はいたって本気そのものである。
「ですが……」
 珠里に言われてもまだ初老の男は躊躇いがちだ。何せ彼が持っている弓、それに番えている矢の先端は本物の鏃だからだ。もしもこの矢が命中すれば怪我をするだけでは済まないだろう。下手をすれば命にだって関わる事態になる。初老の男にとってそれだけは避けなければならない事態だ。
「爺、私の言う通りにして。もし刀弥が怪我をしても爺の責任は問わないわ。全部私の所為にしてくれて構わないから」
 刀弥の方から目を離すことなく珠里が言う。何をどう言われても今やっていることをやめるつもりはないらしい。
 爺と呼ばれた初老の男は小さく、珠里には聞こえないようにため息をつくと彼女と同じように刀弥の方を見やった。
 相変わらず彼はじっとしたまま、微動だにせずにそこにいる。初老の男がいつ弓を構え、矢を放ってもいいように構えて待っている。
 これが珠里が刀弥に課した修行だった。いつどこから放たれるかもわからない矢をただひたすら待ち続け、その矢を手にした木刀で叩き落とす。単純なように見えて、物凄い忍耐力と精神力を必要とする。更に加えて放たれた矢に反応する為の集中力も必要だ。とてもではないが並の人間では不可能な修行だ。
 だが、それを珠里は刀弥に課した。刀弥ならばこれが出来ると考えているのか。いや、実際に刀弥は過去に何度かこの修行をやらされ、やり遂げている。”天使”を名乗る人類の敵と戦う彼だ、この程度は出来て当然だと思っているのかも知れない。
 今回この修行をやらせているのは実は昨夜の失態に対する戒めも兼ねている。何せこの修行はいつ終わるかわからない。矢が放たれるのは弓を持っている人間の好きなタイミング。修行を開始して五分で終わることもあれば五時間以上かかる場合もある。過去の記録によれば半日以上かけてこの修行をやった人物もいるらしい。あくまで記録上のことで、実際にそうだったかは不明だが。
 刀弥がこの修行を開始したのが剣道教室が終わってすぐ。それから既に二時間が経過しようとしているが、珠里は未だ矢を放つ合図を出そうとはしない。側にいる初老の男もずっと珠里に付き従ってこの場にいる。先ほどの会話を除けば二人ともほとんど無言のままだった。
 それから更に十分程が過ぎただろうか。母屋の方から誰かやってくる足音が聞こえてきた。珠里はあえてその足音を無視したが初老の男は振り返り、誰が来たのかを確認する。
「おお、これはこれは空也様に真帆様。お久し振りでございますな」
 そう言って初老の男は笑みを浮かべて二人に向かって頭を下げる。この笑みの前では誰もが警戒心を解いてしまいそうなくらいとても温和な笑みだ。
「様付けはやめてくれって前にも言ったと思うけど」
 苦笑しながらそう答えたのは空也だ。
「お久し振りです、爺やさん」
 一方の真帆はいつものように満面の笑みを浮かべて頭を下げている初老の男に挨拶を返していた。どうやら二人もこの初老の男とは顔なじみらしい。
「そうは申されましても、空也様。空也様は刀弥お坊ちゃんのご学友。それに生まれた時からのお付き合い。私にとっては刀弥お坊ちゃんと同じく……」
「はいはい、そこまで。くーや、諦めなさい。爺はこう見えても頑固なのよ。あなたも知ってるでしょ。一度決めたらてこでも動かないんだから」
 手をパンパンと叩いて話を無理矢理終了させる珠里。それから二人の方を振り返る。
「で、どうしたの、二人揃って。相変わらず仲がいいのはわかるけど、何か用事でもあった?」
 出来れば刀弥の修行の邪魔をして欲しくない、と思いつつも幼馴染みであるこの二人には実弟よりも遙かに甘い珠里だ。決して追い返すような真似はしない。
「あ〜、真帆はともかく俺は刀弥と一緒に出掛ける予定だったんだけど……」
 空也がそう言って道場の方を覗き込んだ。そこでは相変わらず刀弥がじっと佇んでいる。二人が来たであろう事は声でわかっていると思うが、それでも動かないのはやはり修行中だからだろう。下手なことをすればやり直し、悪くすれば珠里による折檻が待ち受けているだろう事は空也にだって容易に想像出来るからだ。
「うわ、久し振りにあれやってるんだ」
 露骨なまでに嫌な顔をする空也。その表情から刀弥が今やっている修行のことを彼も知っているらしい。
「くー兄、とー兄が何やってるか知ってるの?」
 同じように道場の中を覗き込んだ真帆が尋ねてくる。彼女は空也と違って刀弥が何故あそこでじっとしているのか知らないらしい。ちなみに彼女、空也のことは「くー兄」、刀弥のことは「とー兄」と昔から呼んでいる。彼女にとって二人はいい兄貴分なのだ。
「真帆は女の子だからやったことないんだったな。あれ、ここの修行の中でも一二を争うくらいきつい修行なんだ」
 そう言って空也が今刀弥が行っている修行がどう言うものであるかを説明する。
 その説明を聞いているうちに真帆の顔が段々青ざめてきた。どうやらこの修行の恐ろしさがわかったらしい。思わず涙目になって珠里の方を振り返る。
「珠里お姉ちゃん、とー兄、大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。あいつは神経図太いから少しぐらいきつくっても大丈夫よ」
 あっさりとそう言い、珠里は真帆の頭を撫でてやった。
「くーやもやったことあるんでしょ、あれ?」
「あるけど……二、三日はだるさが抜けなかった記憶があるよ」
 何故かげっそりとした表情で答える空也。あの修行をやらされた時のことを思いだしたからだろうか。どうやら彼にとってあの修行は相当きつかったらしい。
「でも、あれじゃ今日の予定は無しだな。いつ終わるかわからないんじゃどうしようもないし」
「ん〜、ちょっと残念だね」
 もう一度道場の中の刀弥を見てから言う空也に真帆ががっかりしたという風に肩を落として言う。
「何処か行く予定だったの?」
 刀弥の予定を無視して半ばお仕置き気味にこの修行をやらせた張本人である珠里がそう尋ねた。刀弥に対しては悪いとは思わないが、空也や真帆に対しては予定をダメにして悪いと思ったようだ。
「ん、ちょっと買い物に行こうかなって。夏物のシャツとか見に行く約束してたんだけど」
「私はくー兄の付き添い〜」
「何が付き添いだよ。俺が家出たのを見つけて勝手についてきた癖に」
 そう言って空也は真帆の方をチラリと見た。
 満面の笑みを浮かべていた真帆だが、空也の少し微妙な視線を受けて、ちょっとムッとしたような顔になる。
「だって暇だったんだもん。それにくー兄ととー兄だけだと何買うかわからないし」
「そうねぇ、男二人じゃ下手な買い物しそうだもんねぇ。そうだ! 刀弥の代わりに私が付き合ってあげるわ!」
 ポンと手を叩いて提案する珠里。自分でも良いアイデアだと思ったのか、非常に嬉しそうな笑顔を浮かべている。
「げげっ!? 珠里姉、マジで言ってる?」
「わーい、珠里お姉ちゃんと一緒にお買い物〜」
 何故か思い切り焦る空也と珠里が一緒だと知って大喜びの真帆。
 そんな真帆の頭を撫でてやりながら、珠里は空也の方を見る。顔にはそれはもう素敵な笑みを浮かべて。
「くーや、何か言った?」
「イエ、ナンデモアリマセン。コウエイデス」
 幼い頃から珠里があの笑みを浮かべた時に逆らうとろくなことがなかった。それは空也や刀弥の中では既に身体に染みついている。だから、空也は引きつった笑みを浮かべながら首を縦に振るしかなかった。
「それじゃ爺。後は任せたわよ」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様、空也様、真帆様」
 初老の男が珠里達の方を向いてぺこりと頭を下げる。
 珠里は笑顔のまま頷き、それから道場の中にいる刀弥をチラリと見やった。何やら物凄く文句を言いたげなオーラが彼の全身から出ているが、それでも目を閉じたまま微動だにしない。
「爺、刀弥の方、あなたに任せたわよ。びっちし鍛えてやってね」
「仰せのままに」
 刀弥のはなっているオーラに気付いたのか、珠里は相変わらずの笑顔のままで、わざと刀弥に聞こえるようにそう言い残して今だに喜んでいる真帆、何故かガックリと肩を落としている空也を連れて道場の前から去っていくのだった。

 三人がやってきたのは駅前にある大型のショッピングモールであった。いい天気の日曜日ということでかなりの人で賑わっている。
「さてと、それじゃまず何から見ていきましょうか?」
「くー兄のシャツからじゃない?」
「そうねぇ。それもいいけど、くーやはあまり服とかに気を遣うタイプじゃないでしょ。ここはこの珠里お姉ちゃんがくーやの為に色々とコーディネイトしてあげる」
「私もやるー!」
「勿論、真帆にも手伝って貰うわよ。二人でくーやをもっといい男にしてあげるんだから!」
「おー!」
 何故かやたら張り切っている珠里と真帆を苦笑しながら見つめている空也。もうこうなったらとことん付き合うしかないと諦めてしまったかのようだ。
「ほら、行くわよ、くーや」
「くー兄」
 左右からぴったりと空也にひっついて歩き出す珠里と真帆。二人に挟まれた空也はまるで囚人のような気分になりながら二人に引っ張られていく。
 その後様々な店を出たり入ったり、空也はその間すっかり二人の着せ替え人形と化していた。まぁ、二人が一応空也の為に、と思ってやっていることなので流石に文句も言えずなすがままになっている、と言うのが正解なのだが。
「ねぇねぇ、珠里お姉ちゃん、これなんかどうかな?」
「そうねぇ……悪くないけどくーやにはもっと落ち着いた色合いの方がいいんじゃないかしら?」
「う〜ん、言われてみればそうかも」
「なぁ、俺の意見は聞いてくれないのかな?」
「真帆、これなんかどう思う?」
「あ、それいいかも。きっとくー兄に似合うよ! 流石珠里お姉ちゃん!」
「そうですか、俺の意見は無視ですか……」
 結局その店でも何も買わず、何か非常に疲れた気のしている空也を連れて珠里と真帆が別の店へと移動する。空也に対して珠里も真帆もまだまだ元気一杯だ。
「ほらほら、くー兄! こっちこっち!」
「真帆、前見て歩かないとぶつかるぞ!」
 やたらはしゃいでいる真帆が珠里や空也から少し先行して二人の方を振り返りながら大きい声でそう言うので、空也が困った奴だな、と言うような顔をしながら彼女に注意した時だった。彼女のいたのが丁度とある店の前で、その店から飛び出してきた少女と思い切りぶつかってしまう。
「きゃん!」
「うわぁっ!!」
 真帆も飛び出してきた少女も共にその場で転んでしまう。身を起こしたのは二人ともほぼ同時、だが先に声をあげたのは店の中から飛び出してきた少女の方だった。
「ちょっと! 何処に目つけて歩いているのよ!!」
 思い切り真帆を睨み付け、怒鳴りつける少女。
「あ、そ、その……ごめんなさ」
「ゴメンで済んだら警察なんかいらないわよ! 全く何考えて歩いてんのよ! ここは天下の往来、前見て歩けないならこんなところに出てくるな! この唐変木!!」
 謝ろうとする真帆を遮るように少女は怒鳴り続ける。
 一方的にまくし立てられ、謝ることすら出来ず真帆はもう涙目になっていた。あの様子だと泣き出すのも時間の問題だろう。それがわかったから慌てて珠里と空也が二人の間に割って入る。
「悪かった! 確かにこいつが前を見て歩いてなかった。それについては謝る!」
 怒鳴り続ける少女の前に入って思い切り頭を下げる空也。その間に真帆を珠里が助け起こしている。
「何よあんた? その子の連れ? だったら首に縄でも付けておきなさいよ。迷惑だわ、そんな前も見れないような子」
 ムッとしたように言う少女。不機嫌とか言うレベルを超えて不機嫌らしい。それからすっと空也の方に向かって手を伸ばす。
「……?」
「何してるのよ。女の子が倒れてるのよ? 助け起こすのが当たり前でしょう?」
 差し出された手を見て首を傾げた空也に向かって少女が馬鹿にしたように言った。
「あ、ああ。悪い」
 慌てて少女が差し出した手を取り、彼女を助け起こす空也。
 立ち上がった少女は自分の服に付いた埃を払うようにパンパンと身体を払い、それから空也の方をジロリと睨み付ける。
「全く、気の利かない男。よく見れば服のセンスも良くないし、あんたもたかが知れてるっぽいわね」
「わ、悪かったな」
 少女の容赦のない言葉に引きつった笑みを返す空也。
「ちょっとあなた! 少し言い過ぎ」
 流石に我慢の限界が来たのか、珠里がそう言って空也の前に出ようとした時だった。店の中から大きな袋を持った別の少女が慌てた様子で出てきて、すかさず珠里や空也に向かって頭を下げる。
「す、すいません!」
 いきなり出てきて思いきり頭を下げた少女に流石の珠里も呆気にとられてしまう。
「妹が何をしたのかわかりませんけど、とにかくすいません! この子、最近ようやく病院から退院出来たばかりで少しはしゃいでいるんです! だから許してやってください!」
「あー、いや、許すも何も」
 空也がそう言うのを遮るように真帆とぶつかった方の少女がイライラしたような声をあげる。
「そうよ! 私は何も悪くはないわ! 悪いのはそっちのあの子!」
 そう言って真帆の方を指出す。
 指差された方の真帆が思わずビクッと身体を震わせて、すぐさま珠里の後ろに身を隠した。
「そんなことないと思うわよ。確かに真帆も前を見てなかったけど、あなたもそうだったんじゃない?」
 いきなり珠里が口を挟んだので、彼女の方をジロリと少女が睨み付ける。だが、その程度で怯むような珠里ではない。
「あなた自身もそのお店からいきなり飛び出してきたじゃない。ちゃんと前を向いていたら真帆とはぶつからなかったと思うわよ。だからあなたが真帆を一方的に悪いと決めつけるのはどうかと思うけど」
 珠里に理路整然とそう言われて少女がうっと怯んだように黙り込んだ。どうやら多少の自覚はあったらしい。だが、自分の非を認めたくないのか、更に珠里を睨み付ける。
 と、いきなり横からこの少女の姉だと言ったもう一人の少女が彼女の頭を押さえつけて無理矢理頭を下げさせる。
「すいません! 本当にすいません! この子ったら本当にわがままで、もう何と言ってお詫びしたら……」
「あ、いや、いいのよ。こっちも悪いんだし」
 ひたすら自分と、そして少し無理矢理に妹の頭を下げている少女に完全に毒気を抜かれてしまう珠里。
「ほら、真帆も謝って」
「う、うん。その、ごめんなさい」
 珠里にそう言われて真帆は隠れていた彼女の後ろから出てちょこんと頭を下げる。
「わ、私は悪くないもん!」
 そう言って少女は自分の頭を抑えている姉の手を振り払い、そのまま逃げるようにその場から走り去ってしまった。
 あっと言う間に小さくなっていくその後ろ姿を見送りながら、珠里が小さくため息を漏らす。
「なんて言うか……子供ね……」
「す、すいません……」
 その呟きが聞こえたのか、この場に残された少女がまた頭を下げる。
「あの子、昔っから身体が弱くて入退院をずっと繰り返していたんです。それが今日の朝、急に元気になって、それでいきなり退院出来ることになってちょっとはしゃいでて……あの、病院で過ごすことの方が多かったら、あまり世間慣れしてなくって、それにちょっと甘やかされてるところもあって」
 何故か必死に言い訳している少女を見て、珠里はまたため息を漏らした。それから空也と真帆の方を振り返る。一体どうすればいいのだろうか、と言う感じで。
 すると空也が何かに気がついたように頭を下げている少女の前に出た。
「……もしかして香椎じゃないか?」
「へ?」
 少女が空也の呼びかけの顔を上げ、それから驚きの表情を浮かべる。
「み、御剣君!?」
「やっぱり香椎か。妹なんかいたんだな」
「う、うん。さっきも言った通り、昔っから身体が弱くて入院ばかりしていたんだけど」
「元気になったんで外出許可が出たってことか。今日は一緒に買い物?」
「真衣、あんまり洋服とか持ってないから……」
 少女がそう言って手に持っている大きな袋に視線を落とした。
「退院祝いで買ってあげるっていったんだけど、それで何か機嫌損ねちゃったみたいで」
 何とも弱々しい笑みを浮かべる少女。
「ねーねー、くー兄。そろそろこの人紹介してよぉ」
 何と少女に声をかけるべきか考えていた空也の腕を掴んでそう言ったのは真帆だった。その隣で珠里がうんうんと同意するように大きく頷いている。
「ああ、うちのクラスのクラス委員長の香椎亜衣。こっちは日向真帆。こっちが神坂珠里。どっちも俺の幼馴染み」
「よろしくね、香椎さん」
「よろしくお願いします、香椎先輩」
 珠里と真帆が少女――香椎亜衣に向かって笑顔を見せる。
「はい、よろしくお願いします。あ、御剣君、言っておきますけど私は委員長じゃなくって副委員長ですから」
 亜衣は真帆と珠里に向かって頭を下げてから空也に向かって口を尖らせてそう言った。どっちでもあまり変わらないような気がしないでもないが、本人にとっては結構重要なことらしい。
「えっと、神坂ってもしかして」
「ああ、刀弥のお姉さん」
 珠里の名字を聞いた亜衣が思い浮かべたのはやはりこの場にいない刀弥のことだった。そうでなくても空也と刀弥の二人はクラスの中でも名コンビとして有名である。ボケとつっこみの漫才コンビとしても有名なのだが。まぁ、二人で一人と認識されている節もあるにはあるのだが。その内の片方、空也だけがこの場にいて、相方の刀弥と同じ名字の女性がそこにいればやはり彼女と刀弥のことを結びつけたくなる。
「いつも愚弟がお世話になっております。もう本当に愚弟としか言いようがないから本当に迷惑ばかりかけているでしょ?」
 笑顔のまま珠里がそう言うが、亜衣は困ったような笑みを浮かべただけだ。流石に実の姉を前にして「そうですね」とかは言えないだろう。
「やっぱり迷惑かけてるのね……」
 亜衣の表情を見た珠里がそう言って目を細めた。
「あ、あ、いや、そうじゃなくって! あ、あの、神坂君には、その、迷惑って言うか、こっちも迷惑かけたりもしてるし、その、あの」
 しどろもどろになってしまう亜衣。何とか刀弥のことをフォローしてやりたいが、上手く言葉が見つからないらしい。
「フフフ、冗談よ。ところで……」
 軽くパニック状態に陥っている亜衣を見て、珠里は一旦微笑んでから急にその表情を変える。それは普段彼女が滅多に見せない表情。夜の闇に紛れて”天使”と名乗る人類の敵を狩る時に浮かべている表情。
「さっきのお話、もう一回聞かせて貰えるかしら? その、妹さんのことを」

 街に夜の帳が降りる。
 何処か疲れた表情を浮かべ、街灯の照らし出す道路を背を丸めて刀弥が歩いていた。その少し前方には例によって巫女服姿の珠里。
「なぁ、姉貴〜」
「何?」
 前を歩く珠里に刀弥が声をかけるが彼女は立ち止まりもしなければ振り返りもしない。歩いたまま、返事を返してくる。
「今日ぐらいは休ませてくれよ……あの修行って相当堪えるんだぜ?」
「何言ってるのよ。折角奴の情報をつかんだのよ。それにぐずぐずしていてまた逃がしちゃったらどうするのよ」
 げっそりとしたような感じで言う刀弥だが珠里は全く取り合う気は無さそうだ。それがわかっていても刀弥はまだ諦めない。しつこく話しかけてみる。
「そりゃそうだけどよ〜。だいたい、姉貴がつかんだ情報ってのがなぁ。委員長の病弱な妹がある日いきなり元気になった。有り得なくもない話じゃねぇか?」
「まぁ、確かに可能性は零じゃないわね。でもその元気になった日って言うのがあんたが奴を取り逃がした日……つまりは昨日。今まで病弱で入退院を繰り返していた子が昨日の今日で走り回れる程元気になれると思う?」
「それはありえねぇな」
「でしょう。まだあるわよ。奴を取り逃がした場所とその子が入院していた病院、物凄く近いわ」
「感知出来なかったんじゃなかったのかよ?」
「そんなこと一言も言ってないわよ。どの辺りで感知出来なくなったかはだいたいわかっていたし、後は細かい辺りをつけるだけだったところに香椎さんの話を聞いたから。そうそう、香椎さんで思い出したけど、あの子”委員長”じゃなくって”副委員長”なんでしょ?」
「一応そうなんだけどな。委員長――香椎が率先して何でもやっちまうからいつの間にか香椎の方が委員長って感じになってる」
「少し話しただけだけどいい子じゃない。迷惑かけるんじゃないわよ」
「かけてねーよ」
「どうだか」
 そんなことを話している間に二人は件の病院――香椎真衣が入院していた病院の前に辿り着いていた。入り口の前に立ち、病院の建物を見上げる。
 一歩病院の方に足を踏み出し、珠里が顔をしかめた。
「……厄介ね。結界なんか張ってる」
「自分の都合のいい領域にしてる訳か。となるとまた”使徒”がうじゃうじゃいるんだろうな」
 昨夜の異形との戦闘を思い出して少しうんざりとした表情をする刀弥。あの程度の異形に後れをとることはないが、数が多いとそれだけ倒すのに時間がかかる。その間にまた本命に逃げられでもしたら目も当てられないだろう。
「昨日あんたが倒したのが奴の手持ちの”使徒”全てなら大丈夫よ。”使徒”化させるのには時間がかかるもの。昨日の今日で補充はきかないわ」
「それをきいて少しは安心したぜ。今日はさっさと片付けて、家に帰って寝る!」
 刀弥がそう言って病院の敷地の中に飛び込んでいった。
 結界が張られていると珠里が言っていたが、ここに張られている結界はその直後に刀弥が言った通り”自分にとって都合のいい領域”にするための結界であり他者を排除する為の結界ではない。もっともその手の結界は中に入って戦うには余程の実力差がない限りかなり不利に働くものだ。それを知っていて刀弥はあえて結界の中に飛び込んでいった。どうやらよほど自信があるらしい。
「姉貴! 結界の方は任せたぜ!」
「今度は逃がすんじゃないわよ」
「わかってる!」
 刀弥はそう言って建物の方に歩いていく。いつ、どこから襲いかかってこられてもいいように周囲に対する警戒は怠らない。
 そんな刀弥を見送り、珠里も自分が果たすべき役目を果たすべく行動に移った。まずは刀弥がより有利に戦えるように病院を囲うように張られている結界を破壊すること。次にこの結界を張った張本人が逃亡しないように、逃亡してもすぐに追いかけられるように網を張っておくこと。刀弥の戦闘に関する直接のフォローはその次だ。
「さてと、この規模だとちょっと厄介だけど……」
 単に他者を排除するだけの結界ならそれほどの力は必要ないのだが、結界内を自分の都合のいい領域化する結界となると話は別だ。しかも病院の敷地全てを覆う程の大きさとなるとかなりの実力を持っていないと出来ない。そして、これほどの結界を破壊するとなるとそれ以上の力を必要とするのだ。
「まぁ、ちょっと時間がかかるけど、刀弥なら大丈夫だろうし」
 多少の不利は刀弥にとっていい修行になるだろう。そう判断して珠里は結界を打ち破る為の準備を始めるのであった。

 病院の中の薄暗い通路は静寂に包まれていた。
 明かりと言えば非常誘導灯のみ。一歩進むごとに自分の足音がやたら大きく響くような気がして刀弥は顔をしかめた。
 これでは隠密行動も何もない。相手も自分がここに来ていることを当の昔にわかっていることだろう。向こうからすれば何とも奇襲しやすい状況のはずだ。それに対してこちらはいつ襲撃されてもいいように常に気を張っていなければならない。おまけにここは敵の領域。不利な条件は整い過ぎな程整っている。
「さて、何処に隠れてやがる?」
 そう呟いて廊下の角を曲がると、その向こうにゆらりと蠢く影があるのが見えた。
「おいでなすったな……」
 刀弥の来るのを待ち受けていたのであろうその影は、彼の姿を見ると猛然と突っ込んできた。その速さは例によって人間のものではない。まるで野生動物のような敏捷さで刀弥に向かってくる。
 とっさに横に飛び、壁を蹴って更に天井すれすれまで飛び上がって突っ込んできた影をかわす刀弥。着地すると同時にコートの下から刀を取り出し、背後から唸りを上げて襲いかかってきた蹴りをそれで受け止める。
「チィッ、どうやらあれでお終いって訳じゃなかったか」
 蹴りを放ってきた相手を見て刀弥は顔をしかめて舌打ちした。そこにいたのは昨夜も刀弥を襲ってきた異形の姿。”使徒”と彼らが呼ぶ異形の姿。
 手にした刀を跳ね上げ、使徒の蹴り足を弾き返した刀弥はその使徒に回し蹴りを叩き込むと、素早く刀を抜き放ち吹っ飛ばした使徒をその刀で貫いた。
「恨むなよ。お前が自分で選んだ道だ」
 静かに、使徒に言い聞かせるようにそう言って刀を引き抜く刀弥。その眼前で使徒の身体が灰となって崩れ落ちる。
 抜き放った刀を鞘に収め、ゆっくりと立ち上がり今倒した使徒が立っていた廊下の奥を見やるとそこにはまた新たな使徒の影が。どうやらあの一体だけではないらしい。
「一体どれだけの使徒を飼ってやがるんだ、あいつは」
 吐き捨てるようにそう言い、刀弥は走り出した。使徒相手にそれほど時間をかけるわけにはいかない。今夜は昨夜のように逃がすわけにはいかないのだ。刀弥のプライドと、そして姉からのお仕置きを回避する為にも。

* * *

 ドアの向こうで何か物音が聞こえてくる。ドア越しだったからあまり大きな音でもないのだが、今の私の耳にはしっかりとその音を捉えていた。
「どうやら奴が来たようだ」
「奴……?」
 私の身体を優しく抱きしめている天使様がそう呟くので、私は思わず尋ね返してしまう。
「私たち”神の僕”を目の敵にしている奴のことだよ。真衣、君が気にすることはない」
 天使様の声が私の心の中に染み込んでいく。
「天使様を目の敵にする奴……悪魔とか?」
「フフッ、似たようなものだ。だが悪魔などよりももっと質の悪い奴らだとも言える」
 そう言って天使様が私の身体を優しく抱きしめていた腕を放した。それから私の身体を反転させて、私の顔を覗き込み、にっこりと笑う。その笑顔はまさしく天使の笑み、私はその笑みから目を離せない。
「何の心配もいらないよ、真衣。私には神の御加護がついている。何が来ようと私が敗れるはずがない」
「天使様……」
 天使様の言葉を聞いていると私の胸の中で生まれつつあった不安がすぐに消えていく。同時に何とも言えない安心感に満たされていく。
「君はここで待っていればいいんだよ、真衣。何も怖いことはない。すぐに終わるからね」
「は、はい。お待ちしております、天使様。お気をつけて」
「ありがとう。君の思いがあれば私は誰にも負けないよ」
「で、でも、もしもってこともあります! 私に何かお手伝い出来ることはありませんか?」
 私がそう必死に訴えかけても天使様はただ微笑むばかり。
「真衣はいい子だ。大丈夫、心配はいらない。すぐに戻ってくるよ」
 そう言って天使様は私の頭を撫で、それからすぅっとその姿を消してしまった。多分、天使様の敵を排除する為にその敵の元へと向かったのだろう。
 天使様は大丈夫と言っていたけど、私は気が気ではなかった。万が一、と言うこともある。こんな私でも何か役に立つことがきっとあるはずだ。それに、何と言ってもこの身体を元気にして貰ったお礼がしたい。
 そう思うともういてもたってもいられなくなった。とにかく天使様の側に行かなければ、とまるで強迫観念のようなものに突き動かされて私は自分の病室から飛び出していく。
 早く、早く天使様の元に行かなければ。

* * *

 軽く小走りで歩いていた珠里の前に音もなく二つの異形が立ちはだかった。どうやら待ち伏せていたらしい。より正確に言うならば、結界を破ろうとする者を排除する為に置かれた警備員と言うべきか。
「全く……まだいたとはね」
 少し呆れたように珠里は呟くと胸元から数枚の符を取り出した。
「あなた達に恨みはないわ。でも私たちの邪魔をするなら排除させて貰うわよ」
 そう言うのと同時に手にした符を異形に向かって投げつける。
 符が彼女の手を放れた瞬間、光の矢と化し異形に向かって一気に突き進んでいく。その矢の速さ、まさしく光の如し。異形達は身動き一つする間もなく光の矢にその身体を貫かれてしまう。
「今度生まれてくる時はもっとマシな人生を歩みなさい」
 まるで諭すようにそう言った珠里の目の前で光の矢に貫かれた異形達の身体が灰となって崩れ落ちた。
 相手がこの程度の異形――使徒ならば珠里の使う術でも充分対処可能だ。問題となるのは本命の敵である”天使”のみ。一族の中でも群を抜く使い手である彼女ですら”天使”の力の前では手も足も出ない。”天使”を倒せるのは”鬼”の力をその身に宿すことが出来る者のみなのだ。この場で言えば刀弥がそれに当たる。
「さてと、刀弥は上手くやっているのかしらね?」
 結界を破る為の処置を施しながら病院の中――敵にとって有利な結界内にいる弟のことを思い浮かべる。そう簡単にやられることはない。それだけは断言出来る。むしろ心配しているのはまたしても敵の術中にはまって本命である敵を逃がしてしまうことだ。一応、逃げられてもすぐに追いかけられるように対策はしてあるが、この病院の中で仕留められればそれに越したことはない。
 そんなことを考えながら作業を続けている彼女の背後に再び使徒が姿を現した。どうやらこの場にいた仲間がやられたと知って駆けつけてきたらしい。
「邪魔をするのなら容赦はしないわよ。もっとも見逃すつもりもないけどね」
 符を取り出しながら珠里が振り返り、使徒を見てニヤリと笑う。

 頭からばっさりと真っ二つにされた使徒が灰となって崩れ落ちた。それを見届けることなく刀弥は階段を駆け上っていく。ここまで来るのに倒した使徒の数はもはや片手の指の数以上だ。一体どれほどの使徒を飼っていたのか。考えるだけでうんざりとしてくる。
 階段を上りきり、最上階へと刀弥が躍り出る。と、そこを狙って一条の光が襲いかかってきた。とっさに刀を抜き放ち、その光を弾き返す。
「ほぉ……流石にいい反応をする」
 光の飛んできた方から感心したような声が聞こえてきた。
 刀弥がその方を向くと、そこには背に白い翼を持った見目麗しい男が笑みを浮かべて立っているのが見えた。そして、その周りにはまるでゾンビのようにゆらゆらと立っている使徒達。
「テメェか……これだけの使徒を飼っているとは驚きだぜ」
 刀の切っ先を翼を持つ男に突きつけ、じっと相手を睨み付けながら吐き捨てるように言う刀弥。その声音には苛立ちが隠し切れていない。
「フフフ……それは誉め言葉として受け取っておくよ。ここにいる我が使徒達は我らが大いなる主の力によって新たな命を与えられたもの。言うまでもなく君の敵」
 翼を持つ男が両手を広げて、まるで自慢するかのように使徒達を見回していく。
「しかし、君が本来守らなければならない人間でもある。ここに来るまで君は一体どれだけの守るべき人間を殺してきたのかな?」
「そんな言葉で動揺するとでも思ったか? 甘いな。使徒になった奴に救いなんかねぇ。ただ無に返してやるのみだ」
 刀弥はそう言って刀を構え直し、翼を持つ男に向かって駆け出した。
「愚かな。ここは我が領域。君に勝てる道理があるはずがない!」
 翼を持つ男がそう言うのと同時に彼の周りにいた使徒達がこちらに向かって突っ込んでくる刀弥に向かっていく。
「……恨むなよ、お前らが選んだ道なんだからな!」
 吐き捨てるようにそう言い、刀弥は迫り来る使徒達に向かって刀を一閃させた。それだけで先頭にいた使徒が真っ二つになり、灰となって崩れ落ちる。だが、それを見ても他の使徒は一向に怯む気配を見せず、次々と突っ込んでくる。
 刀弥は迫り来る使徒の向こう側に立っている翼を持つ男を一瞬だけ睨み付けると、床を蹴って大きくジャンプする。本命である敵が目の前にいるのだ、使徒を相手にしている暇はない。今度は前の時のように逃がすわけにはいかない。
「愚かな」
 天井すれすれまで飛び上がった刀弥を見て翼を持つ男は口元に嘲笑を浮かべた。そして、その手に光の鞭を生み出すと刀弥に向かってそれを振るう。空気を切り裂きながら、光の鞭が唸りを上げて刀弥に向かっていく。
「くっ!?」
 光の鞭が左手首に巻き付いたのを見て思わず声を漏らす刀弥。少し焦りすぎたらしい。着地すると同時に光の鞭を右手の刀で切り落とそうとするが、翼を持つ男はそうはさせじとぐいっと鞭を引っ張った。その為に思わず前のめりになってしまう。
 そこに一体の使徒が飛びかかって来た。前のめりになりバランスを崩している刀弥の首根っこを押さえつけ、そのまま壁へと押しつけようとする。
「チィッ!!」
 刀弥は舌打ちしながら刀の柄で自分の背後の壁――窓ガラスを叩き割った。更に自らの足で床を蹴って割れたガラスを突き破りながら外へと飛び出していく。自らの足で床を蹴った為、首根っこを押さえつけていた使徒の手が少しだけ弛む。その隙をついてすかさず使徒の脇腹に刀を突き込んだ。その刀を引き抜くと同時に使徒の身体が灰となり、崩れ落ちていく。
 しかし、窓から外へと飛び出した為に刀弥の身体が地面に向かって落下していく。いや、左手首に巻き付いた光の鞭の為に彼の身体は宙吊りになっていた。
「愚かな。そのまま落ちて死ぬがいい!」
 飛び出してきた窓の内側からそんな声が聞こえてくる。おそらくは翼を持つ男だろう。その手に持っている光の鞭の片方を放せば奴の言う通り刀弥の身体は地面に向かって落下する他ない。だが、男が光の鞭から手を放すよりも先に刀弥は病院の外壁を蹴って、まるで宙返りするかのようにして再び廊下の中に舞い戻っていた。
「何っ!?」
 この刀弥の見せた離れ業には翼を持つ男も流石に驚きを隠せなかったようだ。唖然としている男の前で刀弥はニヤリと笑ってみせると周囲にいる使徒達を次々と叩き斬っていった。次々と灰となって崩れ落ちる使徒達。それを見てから刀弥は左手首に巻き付いていた光の鞭をゆっくりと引き剥がしていった。
「後はお前だけだ。覚悟しな」
 再び翼を持つ男に向かって刀を突きつける刀弥。だが、全ての使徒を失ったのにもかかわらず翼を持つ男の顔には不敵な笑みが浮かぶ。
「フフフ……なかなかやるな。だが、ここが我が領域であることを忘れたか?」
「お前の領域であろうとなかろうと同じことだ。俺はお前を叩き斬る。それだけだ」
「やれるものならば!」
 翼を持つ男がその背の翼を大きく広げて舞い上がる。
「やってやるさ!」
 刀を構えて刀弥が翼を持つ男に向かって突っ込んだ。
 翼を持つ男の背中側から弧を描いていくつもの光が刀弥に向かっていく。それは光を宿した羽だった。まるで羽自体が意思を持っているかの如く、刀弥に向かって一直線に
飛んでいく。
 飛んでくる羽を刀で叩き落としながら刀弥はどんどん翼を持つ男との距離を詰めていった。
 それでも翼を持つ男は不敵な笑みを浮かべ続けている。自分の張っている結界にそれだけ自信があるのだろう。次々と羽根を飛ばし、更に両手に光の鞭を生み出してそれも合わせて刀弥に攻撃を仕掛けていく。
「チィッ!!」
 舌打ちしながらも刀弥は次々と飛んでくる羽、隙をついて自分の腕や刀を絡め取ろうとしてくる光の鞭を捌いていく。流石に捌くので手が一杯となっており、それ以上の接近は出来なくなっていた。
「フフフ、いつまでしのげるかな?」
 光の鞭を振るいながら翼を持つ男が嫌みったらしく言う。
 その顔を睨み返す刀弥だが、徐々に押され始めていた。やはり結界による領域化が向こうに有利に働いているらしい。と、そんなことを考えていると、光の鞭が左手首に絡み付いた。
「しまった!?」
 はっと左の手首を見た刀弥だが、その間に右の手首にも光の鞭が巻き付いてしまう。両腕を封じられ、刀弥がギリッと歯を噛み締めて翼を持つ男の方を見ると、翼を持つ男は一気に彼の方に接近し、彼の胸を思い切り蹴り飛ばした。大きく宙を舞い、吹っ飛ばされる刀弥。
 廊下の床の上を転がり、その勢いを利用して何とか起き上がる刀弥だが、翼を持つ男はそこに向かって光の鞭を叩きつけてきた。片膝をつきながら刀でその光の鞭を弾き返す。続けて飛んできた羽をやはり刀で叩き伏せながら刀弥は立ち上がり、また走り出した。
「懲りない奴め!」
 翼を持つ男が再び羽根を飛ばし、光の鞭を振るう。だが、刀弥は今度は先ほどのように真っ直ぐ突っ込んでは行かなかった。壁の方に向かって走り、そのまま壁を駆け上がりながら一気に翼を持つ男との距離を詰めていく。
「うりゃあっ!!」
 八双に構えた刀を雄叫びと共に振り下ろす刀弥。その一撃は翼を持つ男の手にある光の鞭を切り裂き、しかし翼を持つ男はとっさに後方、いや、先ほど刀弥が叩き割った窓から外へと飛び出してその切っ先をかわしていた。
「お、おのれ……たかが人間が……」
 完全にはかわし切れていなかったのか、翼を持つ男の胸にうっすらと傷が出来ていた。そこから血が流れ落ちることはなかったが、翼を持つ男は自らの身体に傷を付けられたことに相当腹が立ったのか、怒りの表情を露わにして廊下にいる刀弥を睨み付けてくる。
「もはや許すことは出来ん! 貴様をここで滅殺してくれる!!」
 そう言うと同時にその手に光を宿していく翼を持つ男。
 刀弥は怒りも露わに両手に光を集めている男をつまらなさそうに見つめているだけだった。それから肩を竦めて首を左右に振るとすっと腰を落として刀を構えた。左腕を真っ直ぐに伸ばし、その掌の上に刀の峰を置く。そのような体勢のまま、じっと翼を持つ男の方を見つめる。
「死ねっ! 人間!!」
 翼を持つ男がそう言ってそれぞれの手に集めた光を刀弥に向かって投げつけた。その光にはとんでもない破壊力が込められている。少なくても刀弥が今いるフロアを全て破壊し尽くす程の破壊力は込められているのだ。
 だが、それをわかっていながらも刀弥は一歩も動こうとはせず、じっと迫り来る光を見据えている。待ち受けている、と言ってもいいだろう。何せ彼の持つ刀は光すら切り裂くことの出来る超金属ヒヒイロカネで作られた刀なのだ。
 迫り来る光を前に刀弥がニヤリと不敵な笑みを浮かべた。微妙にタイミングをずらした二つの光が今まさに刀弥に直撃しようとした瞬間、刀弥の刀が二度閃いた。彼に向かっていた二つの光がそっくりそのまま翼を持つ男の方へと弾き返される。
「な、何っ!?」
 翼を持つ男が驚愕に顔を歪める。まさか自分の放った光がそのまま自分に返ってくるとなど思っても見なかったのだろう。
「くっ!!」
 とっさに広げていた翼で自分の全身を包み込み、返ってきた光を防御する。光が男にぶつかり、爆発を起こした。だが、男自体にダメージはほとんどない。全身を覆った翼が淡い光を宿し、男の身を守ったのだ。
「おのれ……だがここはまだ我が領域の中……」
 そう言いながら全身を覆った翼を開いていくと、刀弥がこっちに向かって飛び出してくるのが見えた。窓枠を蹴り、手にした刀を大上段に振りかぶりながら翼を持つ男の方に向かってくる。
「オオオオオッ!!」
 雄叫びをあげながら刀弥が刀を振り下ろす。
 慌てて広げようとしていた翼を閉じる男。同時に翼が再び淡い光を宿すが、刀弥の刀はそれをものともせずに切り裂いていく。
「グギャアアッ!!」
 翼を切り裂かれた男が苦悶のあまり絶叫する。そしてそのまま地面に向かって落下していく。もっともそれは病院の最上階から外へと飛び出した刀弥も同様だが。
 両者が落ちていった先は病院の建物に囲まれた中庭だった。翼を切り裂かれた男は地面に向かって光を飛ばし、それが爆発した衝撃を上手く使って地面への軟着陸を成功させる。一方の刀弥は着地すると同時に地面を転がり、最後に受け身をとって着地時の衝撃を上手く受け流していた。
「ふぅ〜……あんまり何度もやりたくはないな、これ」
 大きく息を吐いて自分が飛び出してきたフロアの方を見上げる刀弥。普通なら死んでもおかしくない高さだ。自分でも多少の怪我は覚悟していたのだが、よくぞ無傷でいられたものだ。
「さてと……」
 少しの間感慨に耽っていた刀弥だが、ようやく翼を切り裂かれた男の方を見やった。
 翼を切り裂かれた男は怒りに全身を震わせながら刀弥を睨み付けている。どうやら怒りのあまり言葉も出ないらしい。だが、その間にも先ほど刀弥が切り裂いたはずの翼が修復されつつある。
「いい加減ケリを付けねぇとな。お前みたいなのを野放しにしていると鬱陶しいからよ」
 ついでに姉貴もうるさいからな、と心の中で付け足してから刀弥はどこからか角の生えた仮面を取りだした。
 その仮面を自分の顔にあてがおうとしたその時だった。一人の少女がいきなり飛び出してきて、翼を持つ男の前に立ったのは。
「天使様を傷つけないで!!」

* * *

 天使様の姿を探して病院中を走り回っていた私は中庭の方で何か爆発音のようなものを耳にし、そっちの方へ向かってみた。
 するとどうだろう、中庭では黒いコートを着て刀を構えた若い男と天使様が向かい合っているではないか。しかも黒いコートの男が無傷なのに対して天使様はその美しい翼に大きな傷がある。おそらくは黒いコートの男の刀による傷なのだろう。
 その傷を見た瞬間、私は中庭へと飛び出していた。両手を広げて、天使様を守るように黒いコートの男の前に立つ。
「天使様を傷つけないで!!」
 そう叫んで黒いコートの男を睨み付ける。
 黒いコートの男は突然の私の登場にぽかんとしたような顔をしていたが、すぐに呆れたような哀れんでいるようなそんな表情を浮かべてみせた。
「やれやれ……そんな子までもう手懐けたかよ。お前、ロリコン趣味あるのか?」
 少し馬鹿にしたような感じで黒いコートの男が言う。
「ば、馬鹿にしないでよ!! 私はもう十六なんだから!!」
 ずっと入退院を繰り返していた私は確かに同じ歳の子と比べるとその発育はかなり遅れている。胸もお尻も全然だし。一つ年上なだけの姉はそれはもう女性らしい体型をしているのに、一体この差は何なんだろうと思わず悩んでしまうぐらいに。
「十六〜?」
 失礼にも疑わしげな視線を私に向けてくる黒いコートの男。本気で私の年齢を疑っているっぽい。本当に失礼な奴。私の後ろにいる天使様とは大違いだ。
「天使様、天使様は私が守ってあげるから。天使様がくれたこの健康な体で絶対に天使様を守ってあげるから安心して」
「おお、何と言うことか。真衣、あなたの優しさと亜衣は我が主にも匹敵する。君のその優しい心があれば私は決して負けることはない」
 私の後ろにいる天使様が感動したような声を出す。それだけで私はいくらでも勇気が出せる。例え目の前に刀を持つ男がいたって怖くはない。
 だけど、そんな私たちを黒いコートの男は心底馬鹿にしたような目で見ていた。
「おーおー、一体どう言う甘言でその子の心を奪ったんだか。俺個人としてはそう言うところだけは見習いたいものだね〜」
「ふ、巫山戯るな! 天使様は……」
 カッとなった私がそう言いかけるのを遮るように天使様が私を後ろから抱きしめてきた。
「構うことはない、真衣。あの男は我らに逆らいし者。奴こそが君の言うところの”悪魔”だ。その言葉に耳を傾ける必要はない」
「は、はい、天使様」
 耳元に囁くような天使様の言葉に頷く私。
「”悪魔”ねぇ……似て異なる者なんだがね、俺たちって」
 黒いコートの男はそう言ってニヤリと笑った。その笑みは確かに天使様の言う通り、悪魔を思わせる。
「さてと、お嬢ちゃん。そこをどいてくれると嬉しいんだがね、俺としちゃ。何せそこにいられると邪魔で仕方がない」
「あんたが天使様に何もしないのならどいてあげるわ」
「生憎だが、俺はそこにいる天使様とやらを叩き斬るのが役目でね」
「ならどかない。天使様に何かしたいならまず私をどうにかすることね。もっともその勇気があんたにあるのなら、だけど」
「……参ったね、こりゃ」
 黒いコートの男が肩を竦める。口では困ったなどと言っているが、その様子から本当に困っているのかどうかは疑問だ。何か私を見定めているような、そんな感じがこの男からはしている。
「まだ完全に使徒にはなってないようだが……」
 ぶつぶつ呟きながら私を射竦めるようにじっと見つめている黒いコートの男。
「真衣、私は少し傷ついている。この傷を癒す間、君が奴を止めてくれるかい?」
「任せてください、天使様。でも私に出来るでしょうか?」
「大丈夫だよ。私が君により強い力を与えてあげよう。奴にも負けない強い力と身体をね」
 天使様が私を抱きしめる手の力を一層強くする。同時に天使様から私に新たな力が流れ込んでくるのを感じた。
「あっ……ああっ……」
 身体が熱くなるのを感じる。何と言うか心地いい。気持ちいいと言ってもいいかも。
 まるで心の中までその熱さにとろけていくような感じだ。でもそれがどうにも心地よく、気持ちよくて私はそれに身を任せてしまう。
「ふわぁ……あああ……」
 口から漏れるのはまるで喘ぎ声のような声だけ。

* * *

 刀弥は目の前の光景をただ呆然と見ていることしか出来なかった。
 翼を持つ男がいきなり飛び出してきた少女を抱きしめている。少女はどうやらこの翼を持つ男に心酔しているらしく、刀弥の邪魔をする気満々のようだ。
 しかも翼を持つ男は少女が自分を守ろうとしているのをいいことに彼女を使徒化しようとしている。下手に攻撃すれば少女を傷つけてしまうことになるので、刀弥としてはただ見ていることしか出来ないのだ。
(くそっ、ガキっぽいくせに色っぽい声出しやがって)
 少女の口から漏れ出す喘ぎ声のような声にも多少の戸惑いを覚えてしまう。何だかんだ言って彼もやはり若い男なのだ。
(このまま見ていたらあいつ、使徒になっちまうな……生意気な奴だが助けられるなら助けてやりてぇ……どうする?)
 少女自身は気付いていないのだろうが、その身体が少しずつ変化し始めている。今まで何度も倒してきた使徒と同じような姿になりかけているのだ。完全に使徒になってしまえばもう助けることは不可能になるが、今ならまだ助けることが出来るはずだ。
 しかし、それは翼を持つ男も分かっているのだろう。その手に抱きしめている少女を使徒化させながら時折刀弥を見るその目が笑っている。やれるものならやってみろ、ただし、その場合この少女を盾にするぞ。そう言いたげに笑っている。
「むかつく野郎だな、本当に……」
 自らはほとんど手を下さすことなく人間をあらゆる甘言で誘惑し、自らの使徒として自在に操る。人間を使徒にすることが出来ることから最下級の天使ではないだろう。最低でも大天使か、権天使。そのレベルでありながら自らの手を汚そうとしないこの男に刀弥は心底苛ついていた。
 更に目の前で少女を盾にとりながら、尚かつその少女を使徒にしようとしている。それを黙って見ていることしか出来ない自分にも腹が立つ。
(チッ、こんな事ならさっさとやっておけばよかったぜ……)
 先ほど、一度は手にした角の生えた仮面をもう一度手で触れてみる。”鬼”の力をこの身に宿すことが出来れば目の前にいる翼の生えた男を倒すことは容易い。だが、あの少女の前でそれを見せるのは躊躇われた。それにこちらが攻撃を仕掛ければあの男は確実に少女を盾にするだろう。そうなった時、自分はその攻撃を止められるのかどうか、自信はなかった。
(どうする……このまま見ているだけだとあいつは完全に使徒になっちまう。かといって下手に手を出すとあのクソ野郎はあいつを盾にする……俺一人じゃ手詰まりだな……)
 刀弥は正面に翼を持つ男とその男に抱きしめられている少女を見据えつつ、周囲に別の気配がないか探ってみた。
 もうそろそろ姉がこの場に現れてもいい頃合いだ。いくらこの病院を覆っている結界が強固なものだとしてもあの姉に破れないはずがない。”鬼の力を得し者”の一族の中でも彼女の力は群を抜いている。だが、そんな彼女でも”鬼”の力をその身に宿すことが出来ない。それが一族の中でも非常に残念がられている事柄なのだが。それはともかく、あの姉が結界を破ってそのまま帰るような真似だけはしないはずだ。必ず様子を見に来るはず。その時こそがこのどうにもならない状況を打破する唯一の機会だろう。そして、それはもうすぐ訪れるはず。
「ふわああっ!!」
 少女の口から一際大きい声が漏れる。その余りもの色っぽさに思わずビクッとなってしまう刀弥。
(や、やりにくい……)
 よく見てみると翼を持つ男は少女の身体をギュッと抱きしめているだけではなかった。丁度その手が少女の余り大きくない、と言うかほとんど膨らんでいない胸を鷲掴みにしている。
(あ、あの野郎……絶対にぶっ殺す!!)
 心の中でそう決めて、しかしそれを顔に表すことはしない。必死で顔に出るのを押さえ込む。こんなところを姉に見られでもしたら後でどう言うことになるか、考えただけでも恐ろしいからだ。
 その間にも少女の身体の変化は続いている。徐々に刀弥が何体も倒した使徒のような姿に変貌しつつある。予想よりも早く使徒化が進行しているのはやはりこの結界の所為なのか。早く助けないと間に合わない。
 焦りの為に刀弥の頬を一筋の汗が伝い落ちたその時だった。突如空の色が反転し、まるでガラスが割れるように砕け散った。それが一体何を意味しているのか、わかったのは刀弥だけではない。翼を持つ男もそれを見て、はっきりと驚きの表情を浮かべている。そして、その背にいきなり光の矢が撃ち込まれた。
「ぐあっ!!」
 その衝撃に翼を持つ男は思わず抱きしめていた少女を放してしまう。
 翼を持つ男が少女の体を離した瞬間、刀弥の足は地面を蹴っていた。あっと言う間に翼を持つ男との距離を詰め、男の胸板を蹴り飛ばす。その一撃で大きく吹っ飛ばされる翼を持つ男。
「遅ぇぞ、姉貴」
「あんたこそ何ちんたらやってんのよ」
「人質とられてたんだ。身動きとれねぇっての」
「全くドジふんでるわねぇ。その調子だとまた今度の休みも……」
「そんなことよりもそいつ頼むぜ」
 ようやく姿を現した珠里にそう言い、刀弥は仮面を取りだした。それからチラリと少女の方を見る。
 翼を持つ男の手から離れた彼女は少しよろけた後、その場に座り込んでいた。頬が赤くなっていてかなり汗をかいているようだが、それだけ。身体の変化もなくなり、元の少女らしい姿に戻っている。どうやら使徒化することなく助けられたらしい。
 少女が無事であり、その少女の側に姉が駆け寄るのを見てから刀弥は地面に倒れている翼を持つ男の方を見やった。それからニヤリと笑ってみせる。
「これで終わりにするぜ。お前はなんて言うかウゼェ」
 そう言って刀を鞘に収めると刀弥は手にした仮面を顔にあてがった。
「”鬼身招来”」
 仮面から手を放すと同時に呟くように言う。次の瞬間、彼の足下に光が走り、その光が地面に六芒星を描いて更なる光を放つ。足下の六芒星が光を放ちながら少しずつ上に浮き上がってきた。六芒星が彼の頭上まで浮き上がった時、今まで以上の光を放って弾け飛んだ。そして、その後にいたのは刀弥ではなく一体の鬼。
 西洋風のものと日本のものとを折衷したような鎧に身を固め、顔を覆う仮面はまるで怒りの形相を思わせる。その額からは二本の鋭い角が天に向かって伸びており、燃えるような赤い長髪はまるで鬣のようだ。体格も刀弥と比べて一回りは大きくなったように見える。それはまさしく赤い鬣の鬼。
「き、貴様は……まさか”天使食いの鬼”!?」
 赤い鬣の鬼の姿を見て翼を持つ男が震えた声をあげた。その顔に浮かんでいるのは明らかに恐怖。彼は鬼の後方にいる少女の姿を見ると声をあげた。
「た、助けてくれ、真衣! こ、こいつは……私を殺そうとしているんだ! 早く私を助けてくれ!」
「泣き言言ってんじゃねぇよ、この子の思いを利用して操ろうとしたクソ野郎。お前を見ていると虫酸が走る。さぁ……終わらせるぜ」
 赤い鬣の鬼はそう言うといつの間にか抜き放っていた刀を翼を持つ男の方に突きつけた。その刀は先ほどまで刀弥が持っていた刀とは形状を異にしている。その刀身はより長く、より分厚く、より鋭利になっていた。それはもはや刀と言うよりも大太刀と言うべき代物。
 ゆっくりとその大太刀を構え、赤い鬣の鬼が腰を落とす。そして一気にジャンプ。
「オオオオオッ!!」
 鬼の口から迸る雄叫びと共に大太刀が一気に振り下ろされた。
 その瞬間、今まで呆然と赤い鬣の鬼と翼を持つ男の方を見ていた少女が大声で叫ぶ。
「やめてー!! 天使様を殺さないでー!!」
 だが、赤い鬣の鬼の持つ大太刀は少女の叫び声を聞いても止まることはなかった。振り下ろされる勢いそのままに翼を持つ男の頭から胴を真っ二つに切り裂いていく。
「うぎゃああああっ!!」
 断末魔の悲鳴を上げる翼を持つ男。直後、その身体が白い炎に包み込まれる。
「て、天使様!!」
 少女がそう言って白い炎に包まれた翼を持つ男の方に駆け寄ろうとするが、その方を珠里が掴んで引き留めた。
「な、何するのよ! 放して!!」
「やめておきなさい。それに……すぐにあいつの本体が見れるわ」
 静かだが決して有無を言わせない珠里の口調に少女が黙り込み、白い炎の中の翼を持つ男に視線を向けた。
 少女からの視線を受けながら、白い炎に焼かれている翼を持つ男の姿が変わっていく。それは真っ二つになった翼を持つ蛇のような姿。その醜悪な姿に少女の顔が引きつっていく。
「て、天使……様……?」
「ま、真衣……助けておくれ……私を助けておくれ……私は君の願いを叶えてやった……その代償に私を助けておくれ……」
 白い炎の中から翼を持つ蛇が少女に呼びかける。
「私が消えてしまえば君の身体は以前のようになってしまう……真衣、早くこっちに来ておくれ……君の優しさで私を助けておくれ……」
 その言葉が少女に届いたのか、少女はフラフラと白い炎の側に歩み寄っていく。
「やめなさい! あいつの言葉に引き込まれちゃダメ!」
「真衣、真衣、君はもう元の身体には戻りたくはないのだろう……さぁ、早く私をここから救い出しておくれ……真衣……」
 少女が自分の方に歩み寄ってくるが見えたのだろう、白い炎の中で翼を持つ蛇がニヤリと笑う。完全に燃え尽きてしまう前ならばあの少女の身体に乗り移ることが出来る。多少不便ではあるが、力が回復するまでのことだ。それにあの身体に乗り移ってしまえばいくら”天使食いの鬼”でも手を出すことは出来ないだろう。
「真衣……真衣……さぁ……早く……」
「天使……様……」
 珠里の制止もむなしく少女が白い炎の側までやってくる。だが、その少女の目の前で白い炎の中の翼を持つ蛇はその頭部を斬り飛ばされた。
「天使……様っ!!」
 唖然となり、その場にしゃがみ込んでしまう少女。
 その前で翼を持った蛇は完全に焼き尽くされる。それを少女はただ見ていることしか出来なかった。元より何の力も持っていない少女だ。それも当然だろう。
「な、何で……何で天使様を! 何で天使様が死ななきゃならないのよ! 何で天使様を殺さなきゃいけないのよ!!」
 少女がそう言って珠里の方を振り返る。その目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。それを拭うこともせずに少女は珠里を睨み付けている。もしも視線だけで人を殺せるのなら、この時の少女の視線で珠里は死んでいただろう。しかも一度ではなく、二度三度と殺されていたはずだ。それほど強い意志がその視線に込められている。
「天使様が何をしたって言うのよ! あんた達に何をしたって言うのよ! 天使様は私の身体を治してくれたのよ! なのに……それなのに……!!」
 もうこれ以上は言葉にならなかったのだろう、少女はそのまま珠里を睨み付けながらポロポロと涙をこぼすだけ。
「私たちは……」
 少女のその姿に多少心を痛めながらも珠里が何かを言おうとしてやめる。今の彼女に何を言っても聞き入れはしないだろう。それだけ彼女は彼女の言う”天使様”に心酔していたのだ。
 そしてそんな彼女がどうしてそこまであの”天使様”に心酔しているのか、珠里は何となくだがわかっていた。昼間少女の姉から聞いた話、そして今少女の言った言葉、それを合わせて考えると何故彼女があの”天使様”に心酔していたかがわかってしまうのだ。
 だからか、珠里は少女の方から視線をそらせた。これ以上少女の視線を受け止めていられないとばかりに、珠里は顔を背けたのだ。
「甘えてんじゃねぇぞ、ガキ」
 不意に響く苛立ったような声。
 珠里が顔を上げると刀弥が鞘に収めた刀を肩に担ぎながら自分の方に歩いてくるのが見えた。その顔には必要以上に苛立った様子が見て取れる。
「あの野郎が何で死ななきゃならないのか、そんなことお前が知る必要はねぇ。俺たちはああ言う野郎をぶった切るのが使命なんだ。それだけだよ」
「そ、そんな……そんな理由で……」
 刀弥の言葉に少女が彼をキッと睨み付ける。だが、刀弥は真正面から少女の視線を受け止めながらまた口を開いた。
「俺たちを憎みたいなら憎めよ。そんな事したってあの野郎は帰ってこねぇし、どうにもなるもんでもないしな。それに言っておいてやるがな、あいつはお前の身体を治したんじゃねぇぞ」
 そこで刀弥は一旦言葉を切り、少女の目の高さに合わせるようにしゃがみ込んだ。
「あいつはお前を利用しただけだ。あいつの都合のいい操り人形にしようとしていただけだ。お前は奴に心の隙をつかれたんだよ」
「なっ……」
 刀弥の不躾とも言える発言に少女が言葉を失ってしまう。
「わ、私は……」
「まぁ、今となってはどうでもいいことさ。俺の話を信じようとどうしようとお前の勝手だし。好きにしろよ」
 そう言って立ち上がる刀弥。それから珠里の方を振り返ってニヤリと笑ってみせる。代わりに悪役を引き受けてやったぜ、とでも言いたげな笑みだ。
 そんな弟を見て、珠里は小さくため息をつくとさっさと歩き出した。ここから先は自分たちにはどうすることも出来ない彼女だけの問題だ。そのまま意気消沈し続けるのも、刀弥と珠里を仇と恨み憎み続けるのも、はたまたあの”天使様”のことを忘れて立ち直るのも、全ては彼女の勝手。彼女にしか選ぶことの出来ない道だ。
 それでも、出来ることならば恨みや憎しみに染まったような生き方はして貰いたくはないと珠里は思っていた。

 数日後。
 全授業終了後のHRも終わり、刀弥が空也に声をかけようと彼の机の方に歩いていくと当の空也も彼に気付いたように顔を上げた。
「空也、今日の帰りちょっと付き合ってくれるか?」
「ん? 何処か行くのか?」
「我らがお姉さまに言われて買い物に行くんだよ」
「成る程、それに付き合えって言うことか」
「そう言うこと。特に用事はないんだろ?」
「まぁなぁ。別に用事らしい用事はないから付き合ってもいいけど」
「OK、なら決まりだな」
「はいはい、付き合いますよ」
 どうやら刀弥の中では空也が一緒に来ることは既に予定済みだったらしい。そのことに対して呆れたような笑みを漏らしながら空也が立ち上がると、いそいそと鞄に教科書などを詰め込んでいる少女の姿が目に入った。何か非常に急いでいるようなのだが、どうも焦りすぎているのか上手く鞄に教科書が入りきらず悪戦苦闘している。それどころか無理矢理押し込もうとしていた為に教科書やノートが鞄から溢れて飛び散ってしまった。
 教室の床に教科書やノートが散らばる音で刀弥もその少女の方を振り返った。
「おやおや。珍しいな、委員長。今日は何慌ててんだ?」
 普段は学級委員の仕事やらクラブやらで帰宅部である自分たちよりも早く帰ることのない少女が妙に慌てているのに興味を持ったのか、刀弥がニヤニヤ笑いながら尋ねる。そのすぐ側では空也が散らばっているノートや教科書を拾い集めているのだが、彼は特に手伝おうという気はないようだ。
「ちょっと用事があって。それと神坂君、私は委員長じゃ」
「はいはい、わかってますよ、委員長」
 最後の”委員長”という部分を妙に強調して言う刀弥。
 それを聞いた少女――香椎亜衣は拗ねたようにぷうっと頬を膨らませた。本来彼女はこのクラスの副委員長であり、クラス委員長は他にちゃんと存在している。にもかかわらず彼女がそう呼ばれているのは彼女が非常に責任感が強く、何でも自分が率先してやってしまうからに他ならない。
「珍しいな、香椎が用事って。あ、もしかしてこの間言っていた妹さんの退院が今日とか?」
 拾い集めた教科書やノートを亜衣に渡しながら空也が尋ねると亜衣は少し困ったような顔を見せた。
「それが……真衣、あの後急に倒れちゃったんです。それでまた入院期間が伸びちゃって」
「倒れたって、あの時物凄く元気だったのに?」
「何かよくわからないんだけど、たまたま物凄く調子がよかっただけなんじゃないかって。で、はしゃぎすぎてまた体調が更に悪くなったんじゃないかって先生は言っているんだけど」
 驚きの表情を浮かべた空也に何故か申し訳なさそうに説明する亜衣。その彼女から見えないところで刀弥は少しだけ難しい顔をしていた。亜衣の妹がどうしてまた倒れたのか、その本当の理由を彼は知っているからだ。勿論それを口に出す気は毛頭ないが、何となく複雑な気分ではある。
「あ、で、でも心配とかしないで。入院期間は延びたんだけど、身体の方はかなりよくなっているって。よくわからないんだけど、今まであの子の悪かった部分がかなり改善されているから今度退院したら普通に生活出来るようになるって」
「そりゃよかったじゃないか」
「うん。それで今日からリハビリ始めるって言っていたから、ついていてあげようって思って」
 亜衣の説明を聞いた空也が笑顔を見せたので、それに釣られたのか亜衣も笑顔を見せた。そこに刀弥がひょこっと顔を出す。
「流石は委員長。優しいねぇ。うちの姉貴も見習って欲しいもんだぜ」
 そう言うと感慨深げに嘆息する。
「あれ? 神坂君のお姉さん、この間初めてあったけど優しそうな人だったよ。見習わないといけないのは私の方だよ」
「いや、それは間違いだ。委員長は姉貴の見た目と上辺に騙されている。あれは優しげな外見をしているがその中身は……」
「やめとけよ、刀弥。珠里姉の耳に入ったらただじゃ済まないぞ」
 キョトンと首を傾げている亜衣に自分がいかに珠里に虐げられているかを説明し始める刀弥。そしてそれを止めようとする空也。
 何とも平和な一時であった。

* * *

 リハビリルームで私は必死に歩く訓練を行っていた。
 自分が想像していた以上に、私のこの身体は弱っていた。天使様の加護を失った私の身体は一人ではろくに歩けない程にまで衰えていたのだ。その事実を知った私は愕然としたがすぐに立ち直り、リハビリを開始したのだ。
 一日でも早くこの身体を人並みにまでしなければならない。他の人の何倍も何倍も努力してこの身体を通常レベルの身体にする。その為には弱音など吐いていられない。どれだけ転ぼうと身体が悲鳴を上げようとやり抜かねばならないのだ。
 でも本当の目的はその先にある。人並みの身体になったとしても私一人ではどうすることも出来ないかも知れない。だけど、逆に人並みの身体であれば相手の油断を誘うことだって出来るはずだ。
 そう、私の目的は――天使様を殺したあの連中への復讐。
 例え敵わないとしてもせめて一太刀ぐらいは。
 それを果たすまでは私はどんな艱難辛苦にだって耐えてみせる。一日でも早く天使様の為に。そう思えば今の苦労などどの程度のものか。
 私は……私は絶対にあいつらに復讐してやるんだから……!!

誘惑の天使の章 完 

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