「はじめまして。いい夜ですね」

 俺がその女と初めて出会ったのは、空に煌々と満月が輝くある夜のことだった。

 不気味な程に大きく輝く満月を背に、その女は俺に向かって微笑んでみせる。

 一見すると人畜無害そうな柔らかな微笑。だが、その奥に隠された、何か獲物を見定めるような鋭い殺気のようなものを俺は敏感に感じ取っていた。

「女が一人で出歩くには少々物騒な時間じゃないか? いい夜ってのには同意するがな」

 ニヤリと笑いながら俺は女を見やってそう返す。

「これだけ明るければ大丈夫ですよ、きっと。それに……」

 女がそう言ってチラリと視線を横に向ける。

 その視線を追っていくと、一人の毛深い男が音もなく突っ立ち、じっとこちらをまるで睨むように見ているのが見えた。

 かなり大柄の身体を窮屈そうな黒いスーツに包み込んでいる。あれはいわゆる執事服、と言うものだろうか。似合っているとはとてもじゃないが言い難い。まぁ、これは俺の主観によるものだが。

「ボディガードか? そう言うのがついているとなるとさしずめ何処かいいところのお嬢様ってところか」

「半分正解半分ハズレってところですね」

 執事服の男から女に再び目を向け直す。

 女は相変わらず柔和な微笑みを浮かべていた。しかし、その笑みの裏側からはやはり何か殺気のようなものを感じられる。

「私の家は確かに由緒ある名家ですけど、わざわざボディガードを雇う程ではありませんわ。何と言っても古い家柄ですが、もう没落してだいぶんと経ちますから、誘拐なんてされても身代金なんて払えませんし」

「じゃあれは何だ?」

「見たままの執事、ですわ」

「見たままねぇ……」

 再び俺は執事服の男の方に目を向けた。

 世間一般で言われるところの執事が一体どう言うものなのか、生憎と俺は知らないが、あの大男、執事なんかやっているよりもプロレスラーか何かになった方が余程お似合いだ。だいたいあれを見ただけで執事とわかる人間がどれほどいるか。

「それよりも一体何の用だ? ただ『今夜はいい夜ですね』と言う為だけに声をかけてきた訳ではないだろう?」

 三度女の方に目を向ける。今度は少々険しい視線をつけて、だ。

 女は顔に浮かべた微笑を崩さない。

 さて、この女、一体何なんだろうか?

 女に険しい視線を向けたまま俺は考える。

 いきなり歩いている俺に声をかけてきたから一瞬逆ナンかと思ったが、そう言うことをするようなタイプではないと言うことはすぐにわかった。言葉遣いや着ている物、それに加えて先程女が自分で口にしたことから、本当に何処かいいところのお嬢様なんだろう。本人は没落してかなり経つと言っていたが、そこそこに財産はあるみたいだ。ボディガードのような執事がいることからもそれは伺える。

 そんな女が夜、一人歩いていたこの俺に声をかけてきた。俺はこの女を知らないが、女はその様子から俺のことを知っているような感じだ。まぁ、俺はある筋ではそこそこ有名人であるから俺のことを知っていたとしてもさほど不思議はないのだが。

 気になるのはこの女、まるで俺を待ち受けていたかのように声をかけてきた、と言うこと。そして笑顔の裏から感じ取れる殺気みたいなものだ。

 初めて会ったはずの女に殺意を向けられるような真似をした覚えはない。感じる殺気は気のせいかとも思うのだが、肌に針を押し当てられるようなこの感覚、どうやら気のせいではないらしい。

 人違いじゃないかと思ったが、そうでもないみたいなのはじっと俺を見ているからだ。これほどまでじっとこっちを見ているのだから、人違いであればいい加減気付くはずだ。

 では一体何故、と言う疑問に舞い戻ってくる。まだまだこの女に対する情報が少ない。少なすぎて判断がつかない。

 この女は一体俺をどうしたい?

 俺は一体どうすればいい?

「……貴方にお願いがあって来たんです。響 恭志郎さま」

 少しの沈黙の後、女が何か意を決したように口を開いた。

 自己紹介した覚えはないはずなのに女の口から自分の名が出てきたことに少々戸惑いを感じながらも、それを顔に出さずに俺は問い返す。さっき自分で言ったが、俺はある筋ではそこそこ有名人、俺の名前を知っていたとしても驚く事じゃないのかも知れない。もっともこの女がその筋の人間だとは到底思えないのもまた事実なのだが。

「お願い?」

「はい。かつて天才と言われ、ショパンの再来とまで言われた貴方のピアノを直に聞かせて頂きたいのです」

 女のお願いを聞いて、俺はちょっと意外そうな表情を浮かべてしまっていた。

 確かに昔、俺は天才的ピアニストとして将来を嘱望された身だった。しかしながら、ある事件を期に俺はピアノを止め、今の稼業に就いた。あれからもう何年経ったのか忘れたが、もはや俺の名前など誰も覚えていないだろう。いたとしたら余程の変人に違いない。まぁ、これは俺の主観だが。

「何処でそんな話を聞いたのかは知らないが、人違いじゃないか? 俺はピアノなんか」

 何にせよ俺はもうピアノを捨てた男だ。今更弾けと言われても困る。

 そう思ってとりあえず誤魔化そうとしたのだが、女は俺に最後まで言わせず、少し離れたところに立っているボディガードのような執事に視線を向けた。するとそのボディガードのような執事は小さく頷き、手に持っていた鞄から一冊の古びた雑誌を取りだした。

 俺のいる位置からではその雑誌が何の雑誌であるかはわからなかった。だが、何度も繰り返し読まれたのであろうその雑誌、かなりボロボロになっている。

 そんな雑誌を大事そうに持ち、ボディガードのような執事はそれを女の元へと運んでいく。しかしながらどう見ても執事には見えない男だ。何と言っても体格がよすぎる。あの身体を包んでいる執事服が何時張り裂けるか。そんな馬鹿なことあるはずがないのだが、ふと期待してしまっている自分がいたりする。

「これですわ」

 馬鹿みたいなことを考えていた俺だったが女のその声にふっと現実に引き戻された。

 女の方を見るとボディガードのような執事から受け取ったらしい雑誌を広げ、あるページを俺に向けている。そこに掲載されていたのは大きな写真だった。黒のタキシードを着た若い男が一心不乱にピアノを弾いている姿を映した写真。

「……っ」

 写真に写っている人物を見て、思わず舌打ちしてしまう。間違いない、あれは昔の俺だ。まだピアノに夢中になり、それで生きていくつもりだった頃の俺だ。

「これは貴方でしょう、響 恭志郎さま?」

「他人のそら似、じゃないか?」

「それは有り得ませんわ。この写真を見た時の貴方の反応から考えれば」

 女は相変わらず柔和な笑みを浮かべながら開いていた雑誌を閉じた。そして側に控えていたボディガードのような執事に雑誌を手渡すと、俺の方に歩み寄ってくる。

 どうやらこれ以上誤魔化し通すことは出来ないらしい。この女、見た感じは深窓のお嬢様で世間知らずっぽいが、かなり人を見る目があるらしい。観察力がある、と言うべきか。

 果たしてどうするべきか、俺が考えている間に女は俺のすぐ側までやって来ていた。手を伸ばせば届く程の距離。そこで立ち止まると、長いスカートの端を掴み、軽く持ち上げながら頭を下げてくる。

 こんな挨拶の仕方をする女を、俺は今まで見たことがない。どうやらかなり由緒のある名家だというのは事実のようだ。いわゆる上流階級のお嬢様って言う奴か。

「私のお願い、聞いていただけますか?」

 そう尋ねてくる彼女の顔に俺は一瞬見惚れてしまう。近くで見た女の顔が非常に美しかったからだ。有り得ない程の美貌。少なくても俺が知る誰よりもこの女は美しい。

「……生憎だが」

 俺はやっとの思いでそう答えるのが精一杯だった。

 この女は危険だ。ずっとこの女から感じていた謎の殺気。そして有り得ない程の美しさ。この二つが組み合わさって、俺の中で警鐘を鳴らす。この女に関わるな、と。

 出来る限り素っ気なく言ったつもりだったが、女は首を傾げただけだった。どうやら俺が断るとは思っていなかったらしい。

 そんな女をその場に残し、俺はその場から立ち去ろうと足を動かす。

 一刻も早くここから離れたい。そうしなければならない、と言う焦りにも似た気持ちが俺を突き動かす。だが、そんな俺の行く手を遮るように例の執事が立ち塞がった。

 正直言ってこんな奴とまともにケンカして勝てる自信は微塵もない。だが、こいつは俺を思いきり睨み付けていて、ここから一歩も通さない、通りたければこの俺を倒せと言わんばかりだ。

「話は終わった。どけ」

 執事に向かってそう言いながら俺はその執事に近寄っていく。強気な態度を崩さないのは見くびられない為だ。殴り合いで勝てる訳はないが、やる前から弱気を見せる訳にはいかない。

「貴様、お嬢様の」

 ひどく低く、まるで押し殺した唸り声のような声で執事が口を開く。今にも掴みかかってきそうな感じだったのだが、まるでそれを押しとどめるような殺気が背後から感じ取れた。

「狼雅、止めなさい」

 射抜くような殺気と共に聞こえる女の声。俺に話しかけていた時とは違って、冷徹さを感じさせる声だ。

「しかし、お嬢様! こいつは!」

「止めなさいと言いました。二度も言わせないで貰えますか?」

 思わず反論しようとする執事を、容赦なく言い伏せる。主らしい威厳のある声で、だ。

「申し訳ありません、響 恭志郎さま。どうぞお引き取りください。今日のところは、ですが」

 俺が振り返ると女は心底申し訳なさそうな顔をして、俺に向かって頭を下げて見せた。どうやら家人が客に対して迷惑をかけたので詫びている、と言ったところか。

 しかし、ちょっと気になるフレーズがある。

「今日のところは、だと?」

「はい。私、まだ諦めた訳ではございませんから。こうして貴方に会い、貴方のピアノを直に聞かせていただくためにわざわざ日本にまで来たのですから、そう簡単に諦める訳には参りません」

 顔を上げ、はっきりとそう言った女の目は真剣そのものだ。どうやら本当に諦めるつもりはないらしい。

「俺はもうピアノを止めて何年も経つ。昔のような演奏は出来ない」

「いいえ、貴方なら出来ますわ」

 顔を背けてそう言う俺に女は微笑みを浮かべてみせた。

「勝手な思いこみは迷惑なんだがな」

「そう信じるのは私の勝手でございますでしょう?」

「確かにそうだ。まぁ、勝手にそう思い込むのは自由だが俺は弾くつもりはない」

「いいえ、必ず」

「大した自信のお嬢様だな」

「私が望んだことで出来なかったことなど今までありませんでしたから」

「どうやらとんだ甘やかされお嬢様に捕まったみたいだな」

「クリスチーナですわ」

 苦笑を浮かべた俺に女が全く予想外の返答を返してくる。その為に、俺は一瞬女が何を言ったのかを理解出来ずに間抜けな声をあげてしまう。

「あん?」

「クリスチーナ=フォン=ブラドー。私の名前です。親しい人は”クリス”と呼んでくれますわ」

「……」

「覚えていてくださいませ。ではまた、次の満月の夜に」

 そう言って女はスカートをくいっと持ち上げ、俺に一礼してからボディガードのような執事を引き連れて去っていった。

 その場に一人残された俺は女と執事が見えなくなってから額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。

 一体あの女は何者だ?

 何の為に俺の前に現れた?

 ピアノを弾いて貰う為と言っていたが、果たしてそれが本当なのかどうか。何と言ってもあの女が纏っていた冷たい殺気のようなもの、あれは一体何なんだ?

「何か厄介なことになりそうだな……」

 そう呟いて俺は空を見上げる。

 煌々と輝く満月。

 それが一瞬翳ったように感じたのは俺の気のせいだろうか。

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