「止めてくださいっ!」
美汐はライダーの前に立つと、行く手を塞ぐように両手を広げた。
「天野、そいつは!」
「止めてください、この子に攻撃しないでくださいっ!」
普段の物静かな美汐からは想像できない激しい口調だった。真剣な表情でライダーと向かい合っている。
ここは一歩も通さない、その決意が見て取れた。
「そいつはカノンの怪人……」
「違いますっ! この子は……この子は私の大切な親友ですっ、真琴という私の親友なんです! 怪人なんかじゃありません!」
「なっ!?」
美汐の口から出た真実に、ライダーは言葉を失った。
Kanon 〜MaskedRider Story〜
第二十二話
「……真琴だって?」
「貴方の正体が何者で、何の目的があって戦っているかは知りません。ですが、この子は……真琴には手出しをさせません!」
「真琴……なのか?」
ライダーは美汐の肩越しに倒れていた狐−−真琴−−を見た。真琴は起き上がり、殺気を孕んだ目でこちらを睨んで今にも
飛び掛ろうとしていた。ライダーはその雰囲気に覚えがあった。それは真琴と初めて出会った時、「許さない」といって
襲い掛かってきた時のそれと一緒だった。
「カノンに改造されていたのか……」
そう考えれば辻褄があった。自分を憎む訳、人間離れした運動能力、記憶喪失(これは以前香里から、北川も手術の影響で
記憶が混乱したり、曖昧になったりすることがあると言っていたと、聞いた事があった)
「天野、聞いてくれ……」
カノンの怪人である以上、真琴と戦わねばならない。だが、真琴の脳改造は不完全らしいので、なんとか洗脳さえ
解ければ戦わずにすむかもしれない。今までの真琴の行動を省みて、ライダーはそう考えて美汐に訳を話そうとしたが、
「ガァッ!」
「えっ?」
「天野っ!」
突然真琴が叫んで、ライダー達に飛び掛ってきた。ライダーは美汐を押し倒すようにして攻撃を避けた。
ズバッ!
攻撃をかわしきれずに、ライダーは背中を浅く切り裂かれた。真琴はそのまま空中で回転すると、ライダー達に向き直って着地した。
「真琴……?」
ライダーに庇われたが、美汐は訳が分からなかった。今の攻撃は明らかにライダーだけでなく、自分も狙っていたから。
真琴の記憶の混乱は更に進んでいて、美汐の事が分からなくなっていた。
「一体、何故……」
ライダーに抱きかかえられたまま、美汐は呟く。それほど真琴の行動が信じられなった。
「おそらく、記憶が混乱しているんだ。天野の事も分からなくなっているんだ」
「そんなっ!」
「ウウウゥ……」
ダダッ!
真琴は唸ったかと思うと、今度は飛び上がらずに走ってきた。
「真琴、止めるんだっ!」
ライダーは美汐を抱きかかえたままジャンプしてかわした。その時美汐のポケットから、あの鈴のついたリストバンドが
落ちて鈴の音を響かせた。
チリン……
「!!」
向きを変え、空中にいるライダー達に飛び掛ろうとしていた真琴の動きが止まった。真琴は地面に落ちた鈴を見ている。
その間にライダーは着地すると、抱きかかえていた美汐を降ろして背後に庇った。
「真琴……?」
美汐がライダーの背中から声を掛けたが、真琴は何も聞こえないのか、鈴を見たまま動こうとはしなかった。
「真琴、それは貴女が私にくれた鈴ですよ。そしてマコト、あなたに付けていた鈴です」
「なっ!? それじゃ……」
美汐の言葉の意味を理解したライダーは驚きを隠せなかった。美汐に問いかけようとするが彼女はそれに答えようとはせずに、
ライダーの後ろから出て鈴を拾い上げると、真琴に見せながら鈴を鳴らした。
チリン……チリン……
「ウ、ウゥ……」
真琴が何か苦しげに呻いていた。
「エェィッ、何をしている! 仮面ライダーを殺せェッ!!」
業を煮やしたジャガーマンが、叫びながら木の上から飛び降りてライダーに向かってきた。ライダーも飛び上がり、
空中でジャガーマンを迎え撃った。
「トォッ!」
ジャガーマンのパンチを両手で受け止めると、その勢いに身を任せるようにして上体を寝かせていく、そしてそのままバク転を
するように回転し、ジャガーマンの顎を蹴り上げた。
バキッ!
「グガッ」
仰け反ったジャガーマンはそのまま飛ばされていくが、空中で回転すると木の枝の上に着地した。ライダーもまた回転して着地する。
そしてそのまま睨み合いが続いた。
「ガアアアアァァァーーーーッ!!!」
「!?」
突然、真琴の絶叫が森の中に響き渡った。ジャガーマンに注意しつつそちらへと目を向けると、真琴が地面をのた打ち回りながら
大口を開けて叫んでいた。
「真琴っ! マコトッ!」
それを見ていた美汐は悲痛とも言える声で、変わり果てた親友と一緒に暮らしてきた狐の名を呼ぶ。
★ ★ ★
「ガアアアアァァァーーーーッ!!!」
真琴は激しい頭痛に襲われていた。あの鈴を見、そして鈴の音を聞いた時からだった。それまでは自分が何者かも分からなくなり、
ただ激しい破壊衝動のみが真琴の頭の中を支配していた。だが、何の変哲も無い只の鈴の存在が再び真琴に記憶の混乱と更には激痛
をもたらした。
「(うぅ……あたま、いたい……なに、これ……)」
真琴の頭の中に何かが流れ込んでくる。
『コロセ……コワセ……』
「(コロス……コワス……)」
『カメンライダーヲコロセ。アイザワユウイチヲユルスナ……』
「(かめんらいだーを、あいざわゆういちを……ころす)」
その衝動に駆られて目の前にいる女とライダーを殺そうとするが、別の何かが頭の中に流れ込んでくる。
『真琴、貴女は私の大切な親友ですよ』
「(しんゆう……みしお……)」
『これは、私の親友がくれたものです。あなたの首輪に付けましょうね』
「(ミシオ……ワタシヲタスケテクレタ……)」
それはかつての記憶。人間の真琴と狐のマコトが共に大切な人と思っている少女の記憶。その少女が今、目の前にいて
自分を見ながら、何か叫んでいる……自分の名前だ……『真琴っ! マコトッ!』と。
カノンの怪人としての自分と、人間・沢渡真琴、狐・マコトとしての自分達の心と記憶がせめぎあっていた。
★ ★ ★
「ガァッ……ウ、ウゥ……」
真琴は、前足で頭を庇うようにして地に伏せていた。目を瞑り痛みに耐えている。
「何をやっているっ、キサマはカノンの怪人だ! さぁ、目の前の小娘と憎き仮面ライダーを殺すのだ!」
木の上からジャガーマンが叫んだ。
「いけませんっ! 貴女はマコト、沢渡真琴ですっ! 自分の心を取り戻して!」
美汐も負けじと真琴に呼びかけた。二つの呼びかけが真琴の頭に響き、更なる苦痛を与えていた。
「殺せっ、仮面ライダーを……相沢祐一を許すなっ!」
「えっ!?」
ジャガーマンが叫んだ「仮面ライダー……相沢祐一」という言葉。それを聞いた美汐は、真琴に呼びかけるのも忘れて
ライダーを見つめた。
「(仮面ライダーは……相沢さん?)」
自分や真琴の事を知っていたし、今では自分を守るようにジャガーマンと戦っていた。だが何故相沢さんが……?
美汐がそう考えている間にも真琴は苦しみ続け、そしてついに……
「ガアアアアアァァァァーーーーッ!!!」
一際大きく吼えると、真琴は動かなくなってしまった。
「フン、くたばったか……やはり失敗作ではこの程度か」
ジャガーマンがさもつまらないという風に吐き捨てた。それを聞いたライダーに怒りの感情が湧き上がる。
「ジャガーマンッ、キサマ達カノンは人の命を……」
ライダーがジャガーマンに飛び掛ろうとしたその瞬間だった。
「真琴っ!?」
美汐の声が聞こえたかと思うと、ライダーは何かが接近してくる気配を感じた。そちらに目を向ければ倒れていた真琴が
自分の方へ飛び込んでくるところだった。しかし、
ダンッ
真琴はライダーではなく、ライダーの頭上を通過し、側に生えていた木に飛び込んでいった。そしてその幹を蹴って
ジャガーマンへと方向を変えて飛び掛っていく。
「何ッ!?」
「ガァッ!」
今までで一番の速さで、ジャガーマンに迫っていった。不意をつかれたジャガーマンも対処が遅れて、真琴に顔を切り裂かれる。
ズバッ!
「グアァーッ!」
切り裂かれた顔の右半分を抑えながら、残った左目で真琴を見る。真琴は今ので力を使い果たしたのか、そのまま落下していく。
「このっ、死にぞこないがぁっ!」
ジャガーマンは、怒りに身を任せるままに真琴を追って木から飛び降りて、落ちていく真琴の額を切り裂いた。
「ギャウンッ!」
そして、真琴の姿が狐から人間の少女へと戻っていく。ジャガーマンが地面に降り立ち、人間の姿へと戻った真琴は
地面に叩きつけられた。ジャガーマンは今度こそ真琴の息の根を止めようと腕を振り上げた。
「させるかぁっ!」
そこへライダーが飛び込んできた。
「ライダァーッ、パァーンチッ!!」
ライダーのパンチが、ジャガーマンの胸部プロテクターにヒビを入れて、ジャガーマン自身もふきとばした。
「ジャガーマン、キサマは許さんっ!」
「ぐっ……おのれ、ライダー……」
プロテクターに守られたものの、ジャガーマンはかなりのダメージを受けていた。このままライダーと戦うのは危険だった。
チラリと真琴を見る。確かに致命傷ともいうほどの傷を負わせた、あれでは助かるまい。一応首領の命令は果たした事になる。
とすれば、ここは一旦引くべきだと考えた。
「ライダー、その改造体はもはや助からんぞ」
「何っ?」
ライダーが真琴に目を向けた一瞬の隙に、ジャガーマンは後方の木の枝に飛び乗っていた。
「ジャガーマン、待てっ!」
「ライダー! この次こそキサマを殺してやる!」
そう言い残すなり、ジャガーマンは枝から枝へと飛び移っていき、あっと言う間にライダーの視界から姿を消した。ライダーは
追いかけたが、すぐに見失ってしまった。
「逃がしたか……」
ライダーは悔しげに呟くと、急いで真琴の所へと戻った。ライダーが戻るとそこには、頭から血を流してグッタリとなっている
真琴を、美汐が介抱していた。姿が変わった際に脱げた上着を羽織らせて、切れた衣類で応急手当をしていた。
「真琴……真琴!」
そして真琴を抱きしめながら、必死に呼びかける。だが真琴は目を瞑ったまま、時折呻くだけだった。
「天野」
「……あ」
ライダーが呼びかけると、ようやく美汐もライダーに気が付いた。何か言おうとするが、何から言えば良いのか分からずに
黙ったままライダーを見つめる。ライダーは、美汐を一目見たがすぐに美汐に抱かれている真琴へと視線を移す。
真琴は額の辺りを斬られていた。包帯代わりに巻かれた服の袖からは血が滲み出ている。
「真琴が……マコトが……」
美汐がようやくそれだけを言った。ライダーも真琴の様子を確かめた。ジャガーマンはもう助からないと言ったが、
すぐに手当てをすれば助かるかもしれなかった。
「天野、すぐに真琴を連れて行こう。真琴を助けるんだ」
「え? でも何処に……」
真琴を助けるのに異存は無いが、何処へ連れて行けばいいのか分からなかった。普通なら病院だろうが、改造人間である真琴を
診察できる病院などある筈も無いし、また真琴を好奇の目に晒したくなかった。
「心配ない。百花屋……秋子さんの所なら大丈夫だ」
美汐のそんな心配を見透かしたかのようにライダーが言う。
「急がないと……サイクロン!」
ライダーがサイクロンに跨り、美汐に真琴を乗せるように促したが、美汐は動こうとしなかった。
「天野?」
「あの……仮面ライダーさん…………貴方は、相沢さんなのですか?」
色々聞きたい事はあったが、一番先に口をついて出たのはその質問だった。
「……そうだ。俺は、天野の知っている相沢祐一だ」
「何故……」
「天野、悪いがその事を話している暇はない。一刻も早く真琴の手当てしないと。今は俺を信じてくれ」
それを聞いた美汐は無言で行動に出た。真琴をライダーの後ろに乗せて自分は更にその後ろに乗る。以前栞を病院に運んだときと
同じ体勢になっていた。
「良いですよ、出してください」
美汐が自分に掴まったのを確認したライダーはサイクロンを発進させた。
★ ★ ★
水瀬家
リビングでは美汐が、香里から手当てを受けていた。
「そう、そんな事があったの……」
香里は、美汐に包帯を巻きながら言う。手当てをしながらお互いの情報を交換していた。
「私も驚きました……皆さんもカノンと深い関わりがあったなんて……名雪さん達や、栞さん……それに相沢さんが」
「まぁ、普通に話しても信じられる話じゃないしね…………ハイ、これで良いわ」
「すいません」
「いいのよ。女の子なんだし、傷でも残ったら大変でしょ」
香里はそう言って美汐に笑いかけるが、美汐の顔色は優れなかった。それは怪我の所為ではなく、今ここに居ない親友を心配
している為だった。水瀬家に運び込まれた真琴はすぐに祐一と秋子によって、健吾がかつて研究室として使っていた離れで治療
を受けている。そこは病院の手術室並みの設備も整えられていて、普通の病院に連れて行くことの出来ない改造人間の真琴や祐一
の怪我の治療に都合がよかった。
「真琴……」
「真琴ちゃんならきっと大丈夫よ。相沢君と秋子さんがいるんだもの」
そうしているうちに、ドアが開いて祐一と秋子が入ってきた。疲れが出ているものの、安心した表情を浮かべていた。
「あの、真琴は……」
美汐が入ってくる二人を見るなり聞いた。
「あぁ、真琴なら大丈夫だ。今は眠ってる」
「そうですか……良かった」
祐一の言葉を聞いて、美汐の顔にもようやく安堵の色が浮かぶ。祐一と秋子が座るとすぐに、秋子が口を開いた。
「一体……真琴ちゃんに何があったんですか?」
真琴が運び込まれるとすぐに治療に入った為に、秋子は未だ詳しい経緯を知らなかった。そこで美汐は、香里にした話を
もう一度皆に話した。祐一も美汐の話を捕捉しつつ、自分も知らなかった箇所は美汐の話を聞いていた。
「そうだったの……」
全てを聞き終えた秋子は、それだけしか言えなかった。真琴の身に起こった事を考えると何ともやりきれない想いだった。
バチィンッ!
暫く沈黙が続いたリビングに何かを打ち付けるような音が響いた。秋子達が音のした方を見ると、祐一が右拳を自分の左手に
叩きつけていた。祐一は歯軋りをして、怒りを堪えていた。
「カノン……あんな子にまで改造人間の苦しみや悲しみを背負わせているのか……」
それだけを口から搾り出した。
「祐一さん……」
「相沢君……」
「相沢さん……」
その後は真琴も目を覚ます事はなく、時間だけが過ぎていった。真琴の様子は、帰宅した名雪も含めて交代で看ていた。
事情を聞かされた名雪は
『酷いよ、カノンは何でそんな事が平気で出来るの? 許せないよ!』
と怒りを露にしていた。祐一達もまた言葉にこそ出さないが同じ気持ちでいた。その日は何事もなく次の朝を迎えた。
「おはようございます、祐一さん」
翌朝、起きてきた祐一を秋子が迎えた。ダイニングには朝食の用意がなされており、コーヒーと紅茶の香りが室内を満たしていた。
「おはようございます。真琴の様子はどうですか?」
「まだ目を覚まさなくて……今は美汐ちゃんが看てくれていますよ」
席に着きながら問う祐一に、秋子は朝食を出しながら答えた。美汐も香里も水瀬家に泊まっていて、真琴の様子を看ていた。
祐一も手伝うと申し出たが、秋子達に「祐一さんは休んでいて下さい」と言われて、大人しく戦闘での疲労を回復させる事に
専念していた。
「天野のやつ、殆ど休んでいないんじゃないですか?」
「えぇ……でも、言っても聞かなくて」
「俺、ちょっと様子を見てきます」
素早く朝食を終えた祐一は、真琴達の様子を見ようと立ち上がった。
「そうですか、じゃあ悪いんですけど、美汐ちゃんに朝食を持っていってあげてください」
「はい」
秋子からトレイに載ったサンドイッチと紅茶を受け取ると、真琴の寝ている部屋へと向かう。
コンコン……
祐一は部屋の前までくるとノックをして中の様子を窺った。暫くして中から美汐の「どうぞ」という返事が帰ってきたので中へ入る。
室内では、真琴が布団に寝かされていて、その側で美汐が真琴を見つめていた。美汐の顔には疲労が色濃く滲み出ており、殆ど休んで
いない事を示していた。
「天野」
「相沢さん……」
「真琴の様子はどうだ?」
「相変わらず眠ったままです」
祐一は美汐の側に座りながら真琴を見る。真琴は苦しそうな様子もなく眠っていた。
「天野、お前昨日から殆ど寝てないだろ? 真琴は俺が看ているから食事して少し休め」
祐一が持ってきたトレイを差し出しながら言うが、美汐は首を振った。
「私なら平気です」
「しかし、天野まで倒れたら……」
「お願いします」
美汐は、説得を続けようとした祐一を強い調子で遮った。
「わかった、俺も付き合うよ」
「相沢さん……」
「無理はするなよ。後、食事くらいは取れよ。折角秋子さんが用意してくれたんだから」
「はい」
美汐はそう言うと少し笑ってみせ、祐一が持ってきた食事を食べた。
「そういえば天野、家の人には泊まると連絡はしたのか?」
「両親は今家にいませんから」
「いないって……」
「父が長期の出張で、母もそれについていってしまって……今は一人暮らしなんです」
「そうか」
それきり二人の間に会話がなくなる。部屋の中や真琴を何となく見ていた祐一だったが、ふと美汐の傍らにアルバムらしきものが
置いてあるのが目に留まった。
「天野、それは?」
「アルバムです。昔、真琴と一緒にとった写真が収めてあるんです。昨日取りにいってきました」
そう言ってアルバムを取り、1ページずつ捲っていく。祐一も美汐の側に行き、一緒に眺めた。そこには幼き日の美汐と真琴が
写っていた。二人でものみの丘を走り回る写真、縁側でスイカを食べている写真、遊び疲れて並んで眠っている写真……。
どの写真からも二人の仲の良さを感じさせた。「この写真は……」と一枚ずつ祐一に説明する美汐の顔はとても幸せそうだった。
「うぅ……」
ポタッ……
ふいに美汐が言葉に詰まったかと思うと、美汐の目から涙が溢れてアルバムの上に落ちた。
「天野?」
「……何故」
「え?」
「何故……こんな事になってしまったんでしょうか……真琴と再会できた事は嬉しいですが……何故……」
美汐は堪えきれずに、両手で顔を覆うと静かに泣きはじめた。祐一は何も言わずに美汐の肩を抱き寄せて自分の胸元に
引き寄せた。美汐は抵抗せずに祐一の胸に身体を預けると、しがみついて泣いた。
「相沢、さん……う、うぅ……」
祐一は何も言わずに美汐の肩を抱いていた。暫くして美汐の嗚咽がおさまると顔を上げ、祐一から離れて聞いた。
「相沢さん。真琴を……真琴を元の身体に戻す事は出来ないんですか? 元の……人間の真琴と、狐のマコトに戻す事は……」
それを聞いた祐一の表情は硬くなる。言い辛そうにしていたが、意を決すると口を開いた。
「それは……」
「相沢さん?」
「それは……出来ない。一度改造手術を受けたら……元の人間に戻る事は出来ないんだ」
「そんな……」
「死ぬまでこの身体のままなんだ……真琴も……この俺も」
「あ……」
美汐は、何故祐一が言い辛そうにしていたのかを理解した。真琴の事を言わねばならないというのと、自分の身体の事。二つの
意味で良いにくかったのだ、と。
「すいません……」
「いや、俺は良いんだ。一生この身体でいることも、この力でカノンと戦う覚悟も出来ている……」
そう言って寂しげに笑って、「だが」と話を続ける。
「だが真琴は……この子にはそんな道を歩んで欲しくない」
「相沢さん……」
またしても、沈黙が部屋の中を支配した。時計の秒針を刻む音だけが流れていく。
「ん……」
時計の音に混じって誰かの声が聞こえた。それは祐一でも美汐でもなく……
「真琴?」
見れば真琴が首を振り、再び「ん……」と声を出していた。そして薄っすらと目を開ける。
「真琴!」
美汐が嬉しそうに言うと、真琴もそれに反応して美汐の方を見る。
「あぅ……?」
だが真琴はぼんやりとした目で美汐を見、部屋中を見回しているだけだった。
「真琴?」
その様子を不審に思った美汐が声を掛けても、真琴は答えなかった。上半身を起こして相変わらず部屋の中を見回している。
「真琴……どうしたのですか?」
そこで漸く真琴は美汐を見た。だがその表情は全く知らない人を見るかのようだった。
「だ、れ……?」
「誰って……美汐ですよ、天野美汐。私がわからないのですか?」
「みし、お……?」
美汐の名前を聞いても、誰かわからないといった態度のままだった。
「相沢さん、これは……」
「昨日の戦いのショックで記憶がなくなっているのか?」
「そんな! そんな酷な事って……」
「あぅ……?」
祐一と美汐は改めて真琴を見つめた。真琴は何も分からずに祐一達を見返している。美汐は、真琴が何か覚えている事はないか
と思い、まずは名前から聞いてみることにした。真琴を怯えさせないように、優しく問いかける。
「貴女、お名前は?」
「な、まえ……」
「そうです。私は美汐と言います。貴女のお名前は?」
「あぅ……わ、わたし、は……」
真琴は必死に自分の名前を思い出そうとしていた。
「ほら、頑張って……」
「わた、しは……ま……まこ、と……まこと……」
それを聞いた美汐の顔に喜びが浮かぶ。真琴を抱きしめると頭を撫でた。
「良く言えました。そうですよ、貴女は真琴。沢渡真琴です」
「あぅ……まこと……みしお?」
真琴は顔を上げると、美汐の名を呼んだ。美汐も優しい顔で答えた。
「はい、そうです。私は美汐ですよ。それで、こちらにいるのが相沢祐一さんです」
「ゆー、いち……?」
美汐に言われて真琴は祐一を見つめた。祐一も出来うる限りの優しい表情で真琴に答えた。
「あぁ、そうだ。祐一だ」
真琴は祐一から顔をそらすと「ゆーいち……ゆーいち」と繰り返し呟いていた。その態度に祐一は、カノンに植えつけられた記憶
が残っているのか? と危惧したが、次の真琴の行動は祐一も美汐も予想していなかった。
「ゆーいちっ!」
突然真琴が祐一の名を呼んだかと思うと、美汐から離れて祐一の元へ飛び込んできた。祐一は一瞬、植え付けられた記憶の為に
また襲い掛かってきたのかと思ったが、真琴は笑顔で飛び込んできた。それに戸惑った祐一は対応に遅れて真琴に抱きつかれる。
勢いが強く、また不意をつかれた所為もあってそのまま真琴に押し倒される格好になった。
「ゆーいち、ゆーいちっ!」
嬉しそうに祐一の名前を呼ぶと、そのまま祐一の顔を舐めだした。
ペロペロ……
「なっ!? お、おい、真琴っ!」
「真琴!?」
驚く祐一と美汐を尻目に、真琴は祐一の顔を一頻り舐めると、今度は祐一の胸に顔を埋めた。
「あ、相沢さん……?」
最初、呆気にとられていた美汐だったが、状況を把握するにつれて祐一達を見る視線に冷たいものが混じる。
「ま、まて天野……俺にも何がなんだかさっぱり……」
更に何か言おうとする祐一だったが、廊下から聞こえてくる足音に遮られる。
「相沢君、何か物音が聞こえたけど……」
様子を見にきたのだろう。普段ならノックをするところだが、異常を感じたのか香里が慌てて部屋に入ってきた。
そして室内の様子を見て動きが止まる。
「相沢君……」
「香里、とりあえず説明の時間をくれるとありがたいんだが?」
その後、割と素直に離れてくれた真琴を着替えさせ、秋子と起きてきた名雪を交えて事の経緯を話した。
「せめて……真琴の記憶だけでも戻す事はできないでしょうか?」
事情を説明した後、美汐は秋子達に縋るように尋ねた。美汐は真琴の肩を抱きながら頭を撫でている。真琴は気持ち良さ
そうにしながら、美汐に身を委ねていた。
「残念だけど……下手に脳をいじくる訳にはいかないのよ……私は専門じゃないし、健吾さんのデータにも詳しいことは
載っていなかったから」
秋子が申し訳なさそうに答えた。
「そうですか……」
秋子の答えを聞いた美汐は項垂れた。半ば分かっていた事とは言え、やはり希望を否定されるのは辛かった。真琴を撫でる
手の動きも止まった。
「みし、お……?」
美汐の様子を心配した真琴が、たどたどしい口調で美汐を呼んだ。その顔にも心配気な表情が浮かぶ。
「何でもありません。私なら大丈夫ですよ、真琴」
「あぅ〜〜」
そう言って再び優しく頭を撫で始めると、真琴も気持ち良さそうに笑った。
「美汐ちゃんの持ってきたアルバムを見せるとかして、真琴ちゃんに思い出してもらうしかないんじゃないかな?」
「そうね、それしか無いかもね」
名雪の提案に香里も同意した。美汐がアルバムを持ってきて真琴と一緒に見始める。
「ホラ、これ覚えていますか? 一緒にスイカを食べましたね。でも真琴ったら食べ過ぎてお腹を壊していましたね」
「あぅ……」
「これはどうですか? ものみの丘でよく遊びましたよね」
「…………」
「これですか? 一緒に撮ったプリクラですよ。フレーム選ぶのに随分と迷いましたよね」
「…………」
そう言いながら写真を一枚ずつ示していく。真琴はある時は一言二言答え、またある時はただ無言で写真を見つめていた。
ふと一枚の写真に目を止めた真琴がそれを食い入るように見つめていた。それは二人で撮った最後の写真だった。
「…………」
「それは、貴女と最後に撮った写真ですよ。その後真琴は引っ越してしまったんです。そして私にこの鈴をくれたんですよ」
そう言って美汐はポケットからあの鈴を取り出して真琴に見せた。
チリン……チリン……
「あぅ……」
真琴は、今度はその鈴をじっと見つめていた。
「この鈴は真琴が私にくれて、それを私がマコトにつけた物ですから、貴女が持っていた方が良いですね」
美汐はそう言って真琴の腕に、鈴の付いたリストバンドを嵌めた。
「あぅ〜〜」
真琴は、じっと鈴を見ていたが、やがて腕を振って鈴を鳴らすと嬉しそうにしていた。
チリン、チリン
「少しでも記憶が戻ってくれたら良いんだが」
祐一はそんな想いを抱きながら、二人を見ていた。
★ ★ ★
それから数日が過ぎた。真琴の記憶は少し戻ったものの言葉の大半を失っており、うまく喋ることが出来なくなっていた。また、
時折狐のように振舞うこともあり、祐一達を慌てさせた。美汐と、何故か祐一にはよく懐いており、抱きついては顔を舐めることが
時々あった。
美汐も祐一達も懸命に真琴の記憶を取り戻そうとしていた。そんなある日……
「ただいま」
「ただいま戻りました」
祐一と美汐が帰宅する。名雪と香里も一緒に帰ってきたが、二人は店を手伝う為に店舗側から入っていった。あれから美汐は、秋子達
の勧めもあって水瀬家に泊まっていた。現在一人暮らしでもあり、真琴の側に居たいと願っていた美汐であったからすぐに同意し、
無論その間は店を手伝っていた。
「真琴?」
家の奥に呼びかけるが返事が無かった。いつもであれば美汐と祐一が帰宅するなり、奥から走ってきて抱きつくのだが、今日は
姿を現す様子がなかった。
「おかしいな……出かけている筈は無いし」
真琴は人としての理性は残っていて、祐一達のいう事はちゃんと守っていた。「自分達が戻るまで大人しく待っていろ」という
言いつけ通り、家の中を歩き回る事はあっても勝手に外に飛び出したり、秋子の仕事の邪魔をするようなことも無かった。
「とりあえず、秋子さんの所に行ってみるか」
「私は真琴の部屋に行ってみます」
そう言ってお互いの目的地へと向かってすぐの事だった。
「真琴!?」
祐一が店舗へと続くドアを開けようとすると、美汐の悲鳴にも似た声が聞こえた。祐一が声のした方に向かうと、
美汐が廊下に座り込んで、ぐったりとなっている真琴を抱きかかえていた。
「天野!」
「あ、相沢さん……真琴がっ、真琴が!」
続く