(それは……名前……)


 少女の側で自分が寝そべっている……


 (自分の……名前……)


 寝そべっている自分を少女は優しく見つめる……


 (名前は……)




「まこと……うん、思い出した。私の名前は『まこと』よ!」




               Kanon 〜MaskedRider Story〜    
                       第十九話




 少女−−まこと−−は、少々迷いながらも自分の名前を思い出していた。

「まこと、ね。それに間違いない?」

「う……うん、間違いないと思う。ずっとそう呼ばれてた気がするから……うん、私の名前は「まこと」よ」

 香里の問いに答え、自分にも納得させるように何度も「まこと」と呟いている。

「よかったよ〜。あ、でも名前だけじゃなくって名字は思い出せないかな?」

 名雪の問いにまことは更に思い出そうとしたが、結局思い出せたのは「まこと」という名前だけだった。

「まぁ何にせよ、少しでも記憶が戻ったんだからそれで良しとしよう」

「そうですね……まことちゃん、今日は色々あって疲れたでしょ。お風呂沸いてるから入ってきて良いわよ。名雪、案内してあげて」

「うん。着替えも用意しないとね……あ、お風呂はこっちだよ」

 名雪が案内し、まことも大人しくついていった。

「……これからどうするの? 思い出したといっても「まこと」と言う名前だけでしょ?」

 名雪たちが出て行って暫くしてから香里が祐一達に話しかけた。祐一達もまた同じ事を考えていたので自分の考えを言う。

「秋子さん。俺は明日、あの子を連れて街を歩いてみようかと思うんですが? 学校も休みですし」

「そうですね。もしかしたら彼女が知っている人に会えるかもしれませんね」

「えぇ、でなくても何か記憶のヒントみたいなものでも見つかればと思うんです」

「私は、お店に張り紙でもしようかしら」

 相談をしているうちに名雪も戻ってきた。4人で再び話し合い、明日祐一はまことを連れて街を歩く事にした。名雪は部活が
あるので学校で生徒達に話を聞くことにし、秋子と香里は店で客に尋ねることとなった。その後、風呂から出たまことは
疲れが残っていたのか、宛がわれた部屋に戻るとすぐ寝てしまった。もう遅い時間なので、今晩は香里も水瀬家に泊まる事となった。


                         ★   ★   ★


 深夜

 まことはふと目が覚めた。知らない部屋、知らない人達、そして知らない自分の記憶。自分の名前はなんとか思い出せたものの、
それ以外は断片的なものしか頭に浮かばない。怖かった。自分が何者なのか? 今まで何処に住んでいて何をしてきたのか?
今日出会った人達は皆優しい人達であったが、本当の自分にもそんな人はいたのだろうか? 一人しか居ない、暗い部屋の中で
まことの心は不安に満ちていた。

「何か……思い出さなくちゃ……」

 目を閉じてみる。先ほど自分の名前を思い出した時、脳裏に浮かんだ少女の事を考えてみる。顔も名前も思い出せないが、
その温もりは覚えがある気がした。最近までその温かさに包まれていた……。

「……み……」

 だが、それは突然に変わる。いままで優しく、温かく感じていたものが、暗く冷たいものに。




 暗い……


 怖い……


 自分を見つめる冷たい目……


 いやだ……


 恐い……


 助けて……


 誰かが言う……


 何?……


 許すな……


 嫌……


 殺せ……


 嫌だ……


 憎め!……


 そんなことしたくない!……


 殺せ! 相沢祐一を許すな!




「嫌ァ!」

 堪らず布団の中で叫んでいた。全てを拒絶するかのように、目を閉じ耳を塞ぎ、怯えて只ひたすらに布団の中で身を丸めて
震えている。だが頭の中では、そんなまことの行為に関係なく次々と言葉が浮かぶ。

「殺せ、憎め、許すな!」と。

「う、うぅ……嫌……そんナ、こト……たすケ……て…………ぉ」

 まことの抵抗が弱々しくなる。無意識に誰かの名前を呼んでいるが声になっていなかった。頭の中に響く声は次第に強く
なっていき、ついにはまことの意識の全てを塗りつぶしてしまった。まことの目に、祐一に襲い掛かったときの殺気が宿る。
 まことは起き上がると、音も立てずに部屋から出て行った。


                        ★   ★   ★


 ヒタヒタ……

「……ん?」

 祐一は、誰かが廊下を歩く気配を感じて目を覚ました。その気配は足音を極力立てないように歩き、祐一の部屋の前で止まった。

「(まことか?)」

 名雪であればこんな時間に起きていることは無いし、香里は下の客間で寝ているはずだった。秋子さんの部屋も一階だ。
まことだと判断したのは、やはり心のどこかで彼女の事を警戒していたからなのかもしれない。

カチャ……ギィ……

 ドアノブが回されて戸が開いていく。それに伴い廊下の冷気も部屋に流れ込んできた。気配も足音も殺して部屋に入ってくる。
祐一はその気配に気づいていたが、動かずに眠ったフリをして様子を窺っていた。
 気配の正体はやはりまことだった。部屋の中に入った所でベッドの上で眠る祐一を見つめる。夜目が利くのか視線は真っ直ぐに
祐一を捉えている。その目には一切の迷いが無くただ純粋な殺意だけがあった。

「…………」

 ダッ!
 
 まことは右手を貫き手に構えると祐一に飛び掛り、右手を突き出そうとした。

 バサァッ!

 だが、それに気づいていた祐一がまことに向かって掛け布団を跳ね上げ、さらには上体を起こして攻撃に備える。

「あぅ!?」

 視界が塞がれるが、構わずに突き出した右手は布団を貫いた。一方の祐一は布団を突き抜けてきた右手をかわしつつ、左手で
掴んで自分の方へと巻き込むように引き寄せる。自分の身体と襲撃者の身体が布団越しにくっつくと、右手で布団越しに襲撃者の
身体を抱いて回転し、ベッドの上に押し倒す格好になる。祐一は、すぐさま襲撃者に馬乗りになって、空いていた左手を自分の
右手で掴んだ。

「〜〜〜〜〜!!」

 襲撃者は足をバタつかせ、つかまれた腕を振り解こうと暴れた。祐一はそれを抑えるのに全力であたっていた。
暴れているうちに襲撃者に掛かっていた布団がまくれて顔が現れる。カーテンの隙間から僅かに差し込む外からの明りに
照らされたその顔は、やはりまことだった。

「まことっ!」

 暴れるまことを抑えながら祐一が呻く。

「ガァッ!」

 まことは獣のように吼えながら、祐一に噛み付こうとしていた。だが取り押さえられているので、その牙が祐一に届く事は無かった。

「ガァーッ!」

 さらにまことが吼えながら暴れる。

「クッ……まことっ、止めろ!」

 ドタドタ……

 階段を上ってくる複数の足音が聞こえてきた。廊下に明りが灯り、ドアの開いた室内に光が流れ込んだ。足音の主達は階段を
上りきると祐一の部屋の前にやって来る。

「祐一さん!」

「相沢君、どうしたの!?」

 暗い室内に目が慣れていないのか、状況が把握できずに香里と秋子は部屋の前で立っていた。

「秋子さん、明りを!」

 まことを取り押さえたままで祐一が叫ぶと秋子が部屋に入り、脇にある照明のスイッチを入れた。すぐに照明が点き、
秋子と香里は部屋の様子を確認できた。

「「なっ!?」」

 二人が揃って驚きの声をあげたのも無理なかった。何故なら状況だけ見ればベッドの上で、祐一がまことを押し倒しているのだから。
加えてまことが暴れている様は、嫌がっているようにも見えた。

「あ、相沢く……」

「ガァァーーッ!」

 香里が問い詰めようとするが、それはまことの獣じみた叫びに遮られる。まことは室内の急な明るさの変化に耐えられずに目を
瞑ったまま暴れていた。そして、何度も祐一に噛み付こうと首を伸ばす。

「まこと、止めるんだっ!」

 その二人の様子にただならぬものを感じたのか、秋子も香里も真剣な顔になる。

「祐一さん、これは……」

「秋子さん、香里っ、まことの片腕を押さえて! 気絶させる」

 祐一の意図を察した二人は、ベッドに駆け寄って祐一が抑えているまことの右手を押さえた。祐一が手を離した途端に二人がかりで
押さえている腕が持ち上がっていく。その力に驚いた秋子達は全力で押さえ込もうとするが、まことの右手は少しずつではあるが
持ち上がっていく。

「あ、相沢君……この子、凄い力よ……押さえきれない……」

 香里が必死にまことの手を押さえながら呻く。祐一は自由になった己の左手を手刀の形にして、まことの首筋に叩き込んだ。

 バシッ!

「あぅ……」

 暴れていたまことが大人しくなった。目を閉じて、身体からも力が抜けていく。完全に意識が無いのを確認してから、秋子達は
押さえていた腕を放し、祐一もベッドから下りた。

「ふぅ……」

「祐一さん、これは一体……」

 ベッドから下りて一息入れているところへ、秋子が声を掛ける。秋子も香里も視線はベッドの上で気絶しているまことに
向けられていた。

「また、まことが俺に襲い掛かってきたんですよ」

「そんな……」

 自分自身その事を見たにも関わらず、秋子は信じられない思いだった。

「それにしても……この子の様子、普通じゃなかったわ。まるで猛獣か何かみたい。それにあの力は……」

 香里が冷静に判断を下す。確かに暴れる様子は人間というよりも獣という表現がピッタリだった。

「……ん」

 ベッドに寝ていたまことが身じろぎをした。それに気づいた祐一は秋子達を下がらせ、自分は二人を庇うように前に出る。

 やがてまことが目を開ける。部屋の明るさに慣れていないのか、一旦目を閉じてから少しづつ開いていく。目を開けると
上体を起こして、室内を見回した。

「あれ……ここ、何処? わ、何よコレ? 布団が……」

 自分の右手が布団を貫いているのに驚いたまことは慌ててそれを引き抜いた。先ほどまでの獣じみた雰囲気は無く、再び襲い掛かる
様子も無いのを確認した祐一が声を掛ける。

「まこと……」

「あれ……祐一? ここは……?」

「俺の部屋だ」

「祐一の部屋……なんでココに……ハッ、さては……」

 何かを思いついた様子のまことに、祐一は一瞬身構えたが、次の彼女のセリフは祐一の考えを裏切るものだった。

「さては祐一……眠ってるまことを部屋に連れ込んで、エッチなことしようとしたんでしょ!?」

「違うっ!」

「じゃ、じゃあ……もうエッチなことしちゃった後なのね!?」

「しないっ、してないっ! するかっ!!」

「どうやら、元通りみたいね」

 二人の、一見漫才かと思うやり取りを見て、香里が呆れながら呟く。

「じゃあ、まことは何でこんなところにいるのよ?」

「……覚えてないのか? また俺に襲い掛かってきたんだ」

「嘘……だってまことは……」

 そう言って自分の行動を思い出そうとした。

「夜中に目が覚めて……何か思い出さなくっちゃって思って……そして……あぁ!」

 まことは、突然叫ぶと頭を抱えて喚きだした。

「おい?」

「あぁっ、イヤっ! やめてぇっ! 駄目っ! 恐いっ! ヤダーッ!」

 祐一の問いかけにも答えず、全ての情報を遮断するかのように耳を塞ぎ目を瞑り、泣きじゃくっていた。

「まこと!」

 祐一はまことを抱きしめると、頭を撫でながら優しく言った。

「まこと……大丈夫だ、何も恐いことなんか無い……安心していいんだ」

「いや……何なのよぅ……気持ち悪い……うぅ……ねぇっ、まことって一体何者なの!? なんでこんな恐いものが頭に
 浮かぶの!? なんで……いやぁ!」

「……大丈夫だ、俺たちがついている。恐い事なんか無い」

「ううぅ……」

「恐い事って……また何か思い出したのか?」

「わかんない……でもなんだか、とても冷たくって……恐くって……暗くって……」

「分かった……もう良いから。何も考えなくて良い」

 抱きしめているうちにまことも徐々に落ち着きを取り戻してきた。怯えきった目で祐一を見上げる。

「祐一……まこと、祐一に酷い事しちゃったの?」

「……」

 祐一は答えなかったが、無言であることがまことの疑問を肯定していた。

「じゃあ、この家から追い出されちゃうの?」

「……あ」

 それは秋子との約束。


『この家に居る間は誰にも危害を加えないこと。当然、祐一さんにも襲い掛かってはいけないわ』


 それを、覚えが無かったとは言え破ってしまった。またあの誰も自分を知らない、何もわからない所へ放り出されてしまう。
それが今のまことには何より恐ろしかった。祐一は秋子を見る。

「秋子さん……」

「祐一さん、どうしますか?」

 秋子は相変わらず優しい眼差しで祐一とまことを見ていた。秋子も香里も決定を祐一に委ねていたが、出来ればまことを放り出す
ような決断を祐一にして欲しくなかった。祐一も放り出すような事はしたくなかったので、少し考えてから言った。

「まこと……夜中にイタズラにくるなんて感心しないぞ。て言うかイタズラそのものが感心しない。これに懲りてもう
 こんな真似はするなよ?」

「え?」

 自分が聞いた意外な言葉にまことは驚いて祐一を見る。祐一は変わらず優しい目でまことを見ながら話を続ける。

「だから、イタズラなんてするんじゃない。わかったな?」

「でも……」

「イタズラでいいんだよ。まことは何も覚えていないんだろ? 誰も怪我しなかったし、これで良いんだ」

「うん……わかった。ごめんね、祐一」

 まことが謝るのを見て、祐一は秋子に顔を向けた。秋子は「それで良いんですよ」と言って微笑んでいた。

「さ、わかったら部屋に戻ってさっさと寝るんだ。夜更かしは美容に悪いぞ」

「あぅ……わかった」

 まことは祐一から離れると、ベッドから下りて部屋を出て行く。

「あの……秋子さん、香里……ごめんなさい」

 廊下に出てドアを閉める前に二人に向き直って頭を下げた。

「いいのよ」

「何も心配しなくていいから、ゆっくりおやすみなさい」

 香里と秋子も優しく言葉を返した。まことは「おやすみなさい」と言ってから自分に宛がわれた部屋に戻っていく。
 秋子達はまことに付き添って彼女の部屋に行き、まことが寝静まったのを確認すると祐一の部屋に戻ってきた。

「祐一さん……まことは眠りましたよ」

「そうですか……」

 答える祐一の顔色は優れなかった。何かに悩んでいるその様子はすぐに秋子達に伝わった。

「相沢君……どうかしたの? まだ何か問題があるの?」

「そういう訳じゃないんだが。あの怯え方……あいつの過去に何か辛い事でもあったのかなって思ってさ」

「それで記憶を失ったって事も考えられるわね」

 余りに精神的ショックが大きかったために、自己防衛本能が働いて記憶を消してしまったのではないか? 祐一は先ほどの
まことの態度からそう考えていた。

「もしそうなら、無理に記憶を戻そうとするのも考え物ですね」

 秋子も心配気な顔で言う。しかしすぐに気を取り直して話を続ける。

「私達で出来る限り支えてあげないといけませんね……これも何かの縁でしょうから」

「(ん?)」

「じゃあ、明日はどうするの? 記憶を取り戻さないのがいいなら下手に街を歩くのは……」

「いや、記憶が戻らなくてもせめてまことの事を知っている人を探したい。別にあいつの辛い過去を穿り返そうって訳じゃない。
 まことが何処の誰なのか、それだけでもあいつに教えてやりたいんだ。尤も本人が嫌だといったら仕方ないけどな」

「そうね」

「俺達で何とかしてやれれば良いんだが……俺達?」

 祐一は自分の言葉に改めて引っかかりを覚えた。さっきの秋子の言葉にも感じた。部屋を見回してみると、室内には自分と
パジャマ姿の秋子と香里がいる。普段見慣れない二人の姿に新鮮味を覚えたがそれはさておき、真面目に考えてみるとすぐに
思い当たった。

「そういえば、名雪は?」

 あの騒ぎで、下で寝ていた秋子達でさえ起きてきたというのに、隣で寝ている筈の名雪がここにいなかったのだ。言われた
秋子達も「そういえば」という表情になる。

「(まさか……まことが俺の部屋に来る前に名雪を!?)」

 まことは祐一の部屋を知らなかった筈、更には名雪の部屋は祐一の部屋よりもまことの寝ている部屋に近い。まことが
分からずに名雪を襲った可能性は充分に考えられた。

「クッ!」

「ちょっと相沢君!?」

 香里の制止も聞かずに祐一は部屋を飛び出すと、隣の名雪の部屋のドアをノックもせずに開ける。

「名雪!?」

 廊下から入る光では室内を充分に照らす事は出来ないが、それでも祐一は名雪の無事を確認するべく室内を見回す。

「相沢君、どうしたっていうの? 名雪に何かあったの!?」

祐一の後を追ってきた香里が祐一の背中に話しかける。

「まことが俺のところに来る前に名雪の部屋に来ていたら……」

「そんな!?」

 祐一の不安に、香里もその可能性に思い当たった。祐一は詳しく室内を見るために入り口脇のスイッチを入れる。途端に室内が
明るくなり様子が窺えた。まず目に飛び込んできたのは、床、テーブル、勉強机等を占拠している大量の目覚まし連合艦隊だった。

「また増えているわね」

 水瀬家に何度も泊まりに来ている香里が呆れ半分に呟く。

「そうなのか? 俺が来たときにはもうこれだけあったからな」

「この部屋では寝られないのよね」

「ここで寝た事があるのか?」

「えぇ……でもね、たとえ目覚ましのアラームが鳴らなくても、これだけ多くの時計の音を聞きながら眠れるほど
 私の神経は太く無かったの。すぐに下で寝させてもらったわ」

 朝は忙しいために気にも留めなかったが、言われて耳を澄ましてみれば、確かに針の音だけでも凄かった。

「そうか……で、名雪は?」

 当初の目的だった名雪の無事を確認するべく、ベッドへと目を向ける。そこには……

「く〜〜……」

 けろぴ〜を抱きしめて、名雪が眠っていた。

「寝ているな……」

「よく寝ているわね……」

「あらあら、名雪ったら幸せそうな顔で眠っちゃって」

 遅れて入ってきた秋子が名雪の寝顔を見ながら言う。

「俺たちの苦労も知らずにコイツは……」

「こんな状況でも、あの騒ぎの中でも寝ていられるのね……」

「あらあら、我が娘ながら凄いわね……」

「う〜〜、みんな酷い事言ってるぉ〜……く〜……」

「「「そんな事無いぞ(わよ)」」」


                         ★   ★   ★


 翌日
 祐一はコーヒーを飲みながら優雅な一時を満喫していた。今日は学校もなく、名雪を起こす必要が無い為に、こうして
ゆっくりできる時間がなにより貴重なものに思えた。名雪は既に部活に出かけている。何時もの「眠り姫」の名に恥じぬ
寝起きの悪さは何処かへ韜晦しているのか、祐一が目覚めたときには支度を終えていた。
 何故その寝起きのよさが普段は発揮されないのかと、祐一は本気で考え込んでしまった。因みに、やはり名雪は
昨夜の出来事は何も知らなかった。

「毎日朝練があれば良いんだがな」

 そう言いながら、秋子が淹れてくれたコーヒーを飲む。祐一の好みにあった味と香りが味覚と嗅覚に心地よかった。聞けば
このコーヒーは水出しコーヒーという事だった。熱湯で抽出するほうが早いが、それだと挽きたての豆の香りが無くなってしまう。
水出しだと時間はかかるが、挽きたての豆本来の香りを損なうことなく、また余分な渋みも出ないのでコーヒー本来の味が
楽しめると秋子が言っていたのを思い出した。その水出しコーヒーをホットの時は湯煎して出すのが百花屋のやり方だった。

「秋子さん達……何やってるんだろうな?」

 朝、目を覚まして起きてきたまことに記憶を取り戻したいか尋ねた。あれだけ恐がっていたまことだが、

『恐いけど……それでも知りたい。まことが何者なのか』

 そうはっきりと言った。
 一旦部屋に戻って支度を終えた祐一がリビングに行くとそこには秋子、香里、まことがいて何か話していた。
祐一がまことを連れて行こうと声を掛けた所で秋子に止められた。秋子は祐一にコーヒーを出すと「ちょっと待っててくださいね」
と言って香里と、まことを連れ立って家の奥へと引っ込んでしまったのだ。

 それから結構な時間が経っていた。秋子達もそろそろ準備を始めないと、店の開店時間に間に合わなくなる。

「あぅ〜〜」

「ほら、こっちよ」

 廊下からまことと秋子の声がした。祐一の居るリビングのドアが開くと秋子が入ってくる。

「祐一さん、お待たせしました」

「秋子さん、一体何をしていたんですか?」

 秋子は、祐一の問いには答えずに微笑みながら廊下の方を向いていた。

「ホラ、大丈夫だから」

 今度は香里が誰かの手を引きながら入ってくる。

「あぅ〜……」

 どうやらまことらしかった。何か恥ずかしがっているようで、中々部屋に入ってこようとはしなかった。

「ふふふ、ちゃんとおめかししたんだから、祐一さんに見てもらいましょうね」

 秋子に諭されたまことが香里に手を引かれながら、おずおずと部屋に入ってきた。その姿は昨日とはまるで違っていた。
クリーム色のセーターにデニム地のジャケットを着て、黒いプリーツスカートを履いている。無造作に伸ばされていた
髪の毛は、丁寧にブラシをかけられてから頭の左右に分けられて赤いリボンでまとめられている。所謂ツインテールと呼ばれる
髪型になっていた。

「秋子さん……この服は?」

「名雪の昔の服ですよ。サイズが合って良かったわ。それに女の子なんですから、身だしなみはキチンとしないといけません」

「そうですか……まこと、似合ってるぞ」

「と、当然よ。美少女なんだから!」

「あらあら……」

 その後、秋子達は開店準備の為に店舗へと行き、祐一とまことは住宅の玄関から外に出た。外はそれほど冷え込みもきつくなく、
この時期にしては割と穏やかな陽気であった。祐一達は、まず最初に商店街へと足を向けた。道中まことは辺りを見回していたが、
記憶を呼び起こすものは何も無かった。

「祐一」

 商店街をあてもなく歩いていた時だった。不意にまことが立ち止まって祐一を呼び止めた。祐一が振り向くと、まことは商店街
に一軒だけあるコンビニを見ていた。

「どうした?」

「祐一……あれ食べたい」

 そういってまことが指差したのは店の前に立てられていた「中華まん」の幟だった。

「中華まん……肉まんか。ってまこと、飯は食っただろ。もう腹が減ったのか?」

「あぅ……な、なんか懐かしい気がしたのよぅ! ほ、ホントなんだから!」

 言い訳するその様子からは、説得力のカケラも見出せなかったが祐一は追及しようとはせず、苦笑しつつ「ちょっと待ってろ」
と言って店内に入って肉まんを数個買ってきた。そのまま公園に行き、ベンチに座ると早速まことは肉まんを袋から取り出して
かぶりつく。

「あぅ〜、肉まん、肉まん♪」

 一つ目を食べ終わり、二つ目を取り出すとそれは自分で食べずに祐一へと差し出した。

「祐一も一緒に食べよ? これあげるわよ。ありがたく思いなさいよ」

「元々俺が買ったものだろうが」

「あぅ……」

「ハハッ。まぁいいけどな。じゃ、ありがたく頂くか」

 祐一が食べ始めるのを見たまことはもう一個袋から肉まんを取り出すと、頬張った。二人は肉まんを食べていたが唐突に
まことの動きが止まった。そのまま何か考え込んだように黙ってしまう。

「どうした、まこと?」

「うん……あのね、前にもこうやって誰かと肉まんを食べていた気がするの」

「本当か?」

「うん……何処かの女の子と食べていたの……顔も名前も思い出せないけど……」

 まことの脳裏に情景が浮かび上がる。


                         ★   ★   ★


 今よりずっと幼いまことと見知らぬ少女が何処かの草原に座っている。少女の顔は思い出せないが、優しくて温かい雰囲気を感じる。


『美味しいね』


 とまことが言えば


『美味しいですね』


 と少女が答える。


                         ★   ★   ★


「うん。たしかに誰かとこうやって肉まん食べていたんだから!……すごく懐かしい気がする」

「そうか。その女の子の名前とか顔は思い出せないのか?」

 祐一にそう言われて、まことは何とか思い出そうと目を閉じて必死に考える。

「うん…………駄目、ぼんやりとしか思い出せない。すごく懐かしい気がする、でもずっと一緒だった気もするの……」

 祐一は、矛盾したまことの答えに疑問を感じたが、これ以上思い出させてまた昨夜のように恐い記憶まで呼び覚ますことが
あっても不味いと思い、まことを止めた。

「まぁ、焦る事もないさ。さて、肉まん食べ終わったらもう少し歩いてみるか」

「うん……」

 公園を出た祐一達は、町外れに近い住宅街を歩いていた。住宅街を歩き始めてから、時折まことは立ち止まっては何か考え込む
ようになっていた。

「……何かこの辺、見覚えがあるような気がする」

「本当か?」

「はっきりとしてる訳じゃないんだけど……」

「ひょっとしたら、まことの家ってこの近くなんじゃないか?」

「う〜、わかんない」

 そう会話しながら歩いているうちに、町外れまで来ていた。遠くには連なる山が見え、近くには森や丘陵が見える。

「あれが香里達が話していた『ものみの丘』か」

 ものみの丘は草原や森を含む丘陵地帯ではあるが、奥へといけば切り立った崖やむき出しの地面、大きな岩がゴロゴロしている等
危険な場所も存在していた。

「ものみの丘……」

「いってみるか?」

「…………」

 まことは、祐一の問いに答えずに黙ったまま立っていて、丘の方を見ながら何か聞くように耳を澄ましていた。

「まこと、どうかしたか?」

「……聞こえる」

「えっ、何が聞こえるんだ?」

「鈴の音……」

 祐一も耳を澄ましてみるが、何も聞こえては来なかった。
 
「何も聞こえないぞ?」

「ううん……まことには聞こえる。懐かしくて……ずっと聞いてた音……」

 そう言うとまことは、祐一が止める間も無く丘に向かって走り出した。

「おいっ、まこと!」

 まことが走り出したので、祐一も慌てて彼女を追って走った。まことは既に住宅街を抜けて、丘のふもとの森に向かっていた。

「何て速さだ」

 まことの足は速く追いつけない。祐一は全速力で走るがそれでも徐々に引き離されていく。

「待つんだ!」

 走りながら呼びかけるが、まことは気が付かないのか走り続けてそのまま森の中へと入ってしまう。それから暫くして
祐一も森の中に入るが、まことの姿を見失っていた。
 森には所々雪が残っていて、小動物の足跡が見受けられた。まことは森の中を通っている道の途中から木立の中に飛び込んだのか、
足跡が残されていた。祐一はその後を目で追ってみるが、他にも複数の足跡があちこちに残されていて、どれがまことの物
なのか判別できなかった。

「こんな所に多くの人間が来るのか?」

 祐一は疑問に思いながらも、とりあえずは道にそって歩いていく。こっちにも足跡が残されていたからだ。道は曲がりくねって
いて、なおかつ木々に視界が遮られる為に見通しは悪かった。太陽の光も木々等に阻まれて、森の中は昼間でも薄暗かった。
 そのまま歩き続け、森を抜けると途端に視界が開けた。祐一の眼前には丘陵が広がっていた。枯れ草の地面に所々残る雪が
太陽光を反射して輝いている。

「へぇ……すごいな」

 祐一は思わず呟いていた。そのまま周囲を見渡していると誰かが立っているのに気が付いた。祐一のいる場所からは少し距離が
あるため向こうの人物は祐一に気が付いていない。一瞬まことかと思ったがそうではなかった。だが祐一の知っている人物だった。

「あれは……天野? おーい、天野!」

 祐一が声を掛けると、美汐も祐一に気が付いてこちらに歩いてきた。祐一も美汐の方に向かって歩いて行く。

「こんにちは相沢さん。こんな所でお会いするなんて珍しいですね……」

 美汐は相変わらず礼儀正しく挨拶をしてきた。

「あぁ、そうだな。天野は何でここに?」

 祐一が質問すると、美汐は悲しそうな顔をしながら答えた。

「ここは、あの子の首輪が見つかった場所なんです。もう何度もここへ来ているのに……もう見つからないかもって思っているのに、
 つい来てしまうんです」

「一緒に住んでいたって言う狐の事か」

「はい。でも……今日は何だか会える気がして……あの子が、マコトが帰ってきてくれるような気がして……」

 美汐が言った狐の名前に驚いた。それは、あの記憶喪失の少女と同じ名前だったから。

「マコト? その狐の名前はマコトっていうのか?」

「はい……狐に人の名前を付けたらおかしいですか?」

 馬鹿にされたと思ったのか、美汐は真剣に怒っていた。祐一は慌てて説明をする。

「いや、そうじゃない。別におかしいとは思ってないさ。ただ……知り合いに同じ名前の子がいるんでな」

「そうだったのですか。私にもいるんです。前にお話しましたよね、昔遠くに引っ越していった友達のこと」

「ああ」

 美汐が大事にしていて、狐につけた鈴の話になったときに出てきた少女。

「その子の名前が『真琴』なんです。真琴が引っ越していってすぐに、二人でよく遊んだこの丘であの子を拾ったんです。
 一緒に暮らすようになってから、何だか真琴が帰って来てくれた気がして。それであの子に『マコト』と名づけたんです」

「そうだったのか……」

「そういえば、相沢さんは何故ここに?」

 美汐に言われて、祐一は自分がここに来た理由を思い出した。

「ああ、そうだ! 人を探していたんだ。森に入った所で見失ったんだ。この丘に来ているのは間違いないんだが」

「ここには誰も来ていませんよ」

「そうか……まだ森の中をうろついているのか?」

 そう言って自分が歩いてきた森の方をみる。それほど大きい森ではないが、薄暗く視界も悪い為に、下手をすれば迷って
しまいそうだった。

「(そういえばまことのやつ、鈴の音が聞こえるとか言ってたな)天野、あの鈴を持ってるか?」

「はい、持っていますが……これが何か?」

 美汐は戸惑いながらも、ポケットから例の鈴を取り出して祐一に見せた。

「悪いんだが、その鈴を鳴らしてくれないか?」

「はい」

 チリン……チリン……

 晴れ渡った丘に鈴の音が鳴っている。音は小さく、数メートルも離れれば聞こえなくなるような大きさだった。だが、そんな音に
反応するものもいた。祐一が森の方を見ているとその一角から誰かが飛び出してくるのが見えた。長い髪をツインテールにした少女。
祐一が探していた少女、まことだった。

「こっちからまた鈴の音が……あ、祐一!」

 辺りを見回していたまことが祐一を見つけると、一目散に祐一の所へ走ってくる。

「まこと、探したんだぞ! 勝手に走り出して……」

「あぅ……ごめん。鈴の音が聞こえたから……森の中に入ったら聞こえなくなっちゃって……でもまた聞こえたから……」

「ふう、まぁ無事に見つかって良かったよ。ありがとな、天野……天野?」

 まことが見つかった事に安堵して、礼を言おうと振り向いたが、美汐はこちらを見たまま動かなかった。こちらを、と言うより
祐一のそばに立つまことを凝視していた。その視線に怖気づいたまことは、祐一の後ろに隠れてしまった。

「あぅ……?」

 祐一の後ろに隠れながら顔だけ出して美汐を見ていた。一方の美汐はまことを見ていたが、やがてポツリと呟いた。

「真琴……ですか?」




 続く



 後書き

 こんにちは、うめたろです。毎回似たような挨拶ですが

 カノンMRS19話、お届けです(今回は一話のみです^^;)

 私も、今回から文頭一文字分空けるようにしました。

 尤も、今までやっていなかった事を急に始めたりしたので空いてない所、

 もしくは変なところが空いてたりするかもしれませんが、大目に見てやってくださいm(_ _)m

 今後ですが……次回予告とかつけたほうがいいのだろうか?

 そうすれば後書きも行を稼げるし(ォィ

 なんて事を考えております。

 どうなるかわかりませんがそれはさておき、

 今後とも宜しくお願いします。

 最後に

 今作品を掲載してくださった管理人様

 今作品を読んでくださった皆様に感謝して後書きを終わりにさせていただきます。

 ありがとうございました。

 では。                                   うめたろ

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