「それは?」
「それはね……」
そこで香里は顔を上げ、祐一を見る。そして右手をコートから引き抜いた。その手には銃が握られ、銃口は真っ直ぐに
祐一へと向けられる。左手を右手にそえて、言葉を続けた。
「それはね、相沢君……貴方を殺す事なの」
「香里!?」
「相沢君……貴方を……殺すわ」
Kanon 〜MaskedRider Story〜
第十六話
構えた銃口は真っ直ぐ祐一の胸元へと向けられている。
「相沢君、私を恨んでくれていいわ。栞と名雪にも恨まれるでしょうね……でも、それでも私はあの子に生きていて欲しいの」
「香里……どういうことだ、一体何があった? お前に……」
「動かないで!」
近づこうとした祐一だったが香里の鋭い制止の声に足を止めた。銃口は依然向けられていて、
この距離ではいくら祐一でも回避は難しかった。
「……何故だ?」
「ある人にね、言われたのよ。『相沢祐一を殺せば栞の病気を治してやる』って」
「栞の病気は……」
「えぇ……今の医学では治せない、でしょ。でもね、現在よりも進んだ科学力をもった所でならどうかしら?」
その言葉を聞いた祐一の心に嫌な予感が走った。それは自分の考えと同じだったから。そんな事を言えるのは……
「お前にそんな事を言ったのは……」
「……カノン」
「やはりそうか。お前に接触したんだな」
「カノン……そこは今よりも進んだ科学力を持っているって言ったわ。そこなら栞の病気も治せるだろうって。
でもね相沢君、カノンにとっては貴方が邪魔なんですって。だから……貴方を殺すの……」
香里は、もう話すことはない、とばかりに安全装置を外して引き金に指をかけた。弾は装填済みで、後は引き金を引けば
弾は発射されて標的である祐一に当たる。
「香里、知っているのか? カノンはこの前の蠍男や、商店街に現れた蝙蝠男を作り出した組織なんだぞ!」
それを聞いた香里の動きが止まる。次いで香里の口から出た言葉は祐一の予想を裏切っていた。
「そう……なら信用できるわ」
「な!?」
「だって、あんな怪人を作り出せる科学力があるのだったら、栞の病気だって治せるでしょ?」
そこで祐一は気がついた、香里の目が尋常でないことに。
「(催眠術か何かで操られているのか?)香里、目を覚ませ! お前は操られているんだ!」
「相沢君、私は正気……私はあの子を助けなきゃいけないの。その為だったら何だってするわ!!」
「俺を殺してもカノンは約束を守るような連中じゃない。止めるんだ」
「命乞い? らしくないわね、相沢君……カノンの事を教えてくれたのは、私の知ってる人なの。だから大丈夫よ」
再び香里が動き始める。銃口は祐一の心臓に向けられていた。
「さようなら相沢君。短い間だったけど楽しかった……出会ってからそんなに経ってないけど、貴方の事……好きだったわ。
貴方を殺した罪は、私が全て背負うわ。だから……栞を恨まないでね」
香里は指に力を込めて引き金を引こうする。
「…………」
だが、香里の顔には躊躇いの表情が浮かんでいた。次第に銃を持つ手も震え始める。
「う、うぅ……う……私は………………」
「香里、目を覚ますんだ!」
香里の異変に気づいた祐一は、香里を呼び続けた。
「ううっ!……駄目、わ……私、は……!」
突然香里は苦しみだした。銃も下ろして左手で頭を抱える。
「香里!」
苦しんでいた香里だが祐一の言葉を聞いた途端、静かになった。そして顔を上げると周囲を見回す。
「……あ、あれ? 私は……相沢君? ここは……学校? 何を……」
今自分が何処にいて、何をしているのかを全く理解できない様子だった。
「……正気に戻ったか」
「どういう事? 私は病院にいて……それから……駄目、思い出せない……え? 何よコレ、何でこんなもの持ってるの?」
香里はそこで始めて自分が手に持っている物に気がついた。より一層戸惑いが強くなる。
「良いんだ、香里は操られていたんだから……さぁ、そいつを渡すんだ」
未だ戸惑っている香里に、祐一は優しく話しかけるとゆっくり近づいていく。
「ふっ」
「!?」
祐一が自分のすぐ近くにまで来たのを見て香里は笑った。まるで自分の策の成功を喜ぶかのように。
香里は素早い動きで銃を祐一に向けると、近づいた祐一へ躊躇わずに発砲した。
ダァンッ!
「ぐぁっ」
祐一は回避しきれずに被弾する。弾は祐一の胸元を外れて、左の脇腹を貫通した。
「単純な策だけど上手くいって良かった……ごめんなさい、あの距離だと外れるかもしれなかったから……でも凄いわね、
この至近距離でもかわすなんて」
そういう香里は先ほどまでの、祐一を殺そうとしていた時の顔になっていた。
「か、香里……」
祐一は膝を付いて苦しげな顔で香里を見ていた。撃たれた脇腹に手を当てているが、指の隙間からは血が流れ出ていた。
「でもいくら貴方が改造人間でも、その怪我とこの距離ではかわせないわよね? 大丈夫、今度は頭を吹き飛ばしてあげる。
苦しまないようにね……」
近づき、銃口を祐一の眉間に押し当てようとしたその瞬間だった。
「くッ!」
「え?」
祐一が立ち上がり様に香里の右手を掴んで空へと向ける。そして香里が何か行動を起こす前に、左拳で香里の腹部に当身を
食らわせた。
ドッ
「うっ……」
意識を失い、崩れ落ちる香里の身体を抱きかかえるようにして、祐一も雪の上に座り込んだ。香里の手から銃を取り上げると
放り投げる。やがて香里の意識が戻り始めたのか、うめき声が聞こえた。祐一は香里の肩を揺すって声をかけた。
「うぅ……」
「香里、香里!」
「……あ……私、は……」
「気がついたか」
祐一に顔を向ける香里。目覚めたばかりで意識がはっきりとはしていないようだが、いつもの香里に戻ったようだった。
香里は最初は呆然としていたが、祐一を見るなり香里の表情が怯えと後悔のそれに変わっていく。
「!! わ、私は!!……あ、あぁ……私、わ……私!! あ、相沢、君……私!」
「覚えているのか?」
「わ、私……貴方に……あぁ……わ、私は!」
祐一は錯乱する香里を片手で抱きしめる。祐一の胸に顔を埋める格好になった香里は、祐一の服を掴んで震えていた。
「香里、俺なら大丈夫だ。お前は操られていただけだ、お前は悪くない」
「でも!」
「いいんだ、操られていただけなんだから」
「……違うの」
「え?」
「相沢君を殺そうとしたのは……自分の意志よ」
「香里?」
香里の震えは止まっていたが、依然顔を伏せたままで話を続けた。
「最初は怪我を負わせればいいって言われたの。でも、次第に貴方を殺さなきゃって思うようになって……
栞を助ける為にも貴方を殺さなくちゃいけないって……それしか考えられなくなって……」
「栞を助けたいという、お前の気持ちをカノンに利用されただけなんだ。おそらく俺を殺そうという考えを刷り込まれたんだ。
香里は悪くない」
「相沢君……でも、貴方に怪我を……」
香里は顔を上げた。目には涙が浮かんでいる。
「俺なら平気だ。血も止まった。普通じゃないからな……俺は」
左手は傷口に当てられていたが出血は止まっていた。痛みは残っていたが、香里を安心させようと笑顔を向ける。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「もういいんだ香里、それより教えてくれないか? 一体誰がお前にカノンの事を教えたんだ?」
黒幕がいるはずだった。祐一は香里にカノンの名前は教えていなかったから。
「香里には、怪人を操る組織とだけしか言ってないはずだ。誰がお前にカノンの名前を教えたんだ?
誰が、カノンが今より優れた科学力を持って……ハッ! そこに居るのは誰だ!?」
祐一は自分達に向かってくる気配を感じた。本来ならもっと早くに気づいているが、痛みの為に察知が遅れた。
次いで香里も祐一の見ている方向へと目を向ける。常夜灯の照らす範囲から外れている為にはっきりとは分からないが
人影が二つ立っていた。一人は小柄で、その首にもう一人の人物の腕がまわされていた。小柄な人影は、その腕にしがみ
ついていた。二人はそのまま歩いてくる。小柄な人影は抵抗しているがそれは余りにも弱々しく、引きずられていた。
「俺だよ、俺が美坂にカノンの事を教えた。ついでに言えば、お前を殺すように仕向けたのも俺だ。」
二つの人影が常夜灯の照らす範囲に入った。それは邪悪な笑みを貼り付けた北川と、苦しげに呻く栞だった。
「お前は……」
「北川君!? 栞!?」
祐一の疑問は香里の叫びで解消された。北川……たしか、自分の席の後ろにいるはずの男子生徒、今は何かの病気で入院中のはず。
「お前が北川?」
祐一は、当然栞のことも気づいてはいたが、それより何故北川という男がここに居るのかが気になった。
「ああ、そうだ。俺が北川潤、お前のクラスメイトになるはずの男さ。始めまして……じゃないよな、覚えてるか?」
「……あの時の!?」
それは、あのビルでの出来事だった。戦闘員を殺した怪人の後を追って制御室から出てきたときに出会った男。
その男と今目の前で栞を拘束している北川の姿が、祐一の中で一致した。
「そういうことだ」
「北川君、何故貴方がここに!? いえ、それよりも何故栞を連れてきたの!? 栞は……」
香里は祐一から離れると、北川に向かって詰め寄っていく。
「動くな」
北川は静かな声で制止をかける、次いで栞の首にまわしている腕に力を込めた。
「ぅ……」
栞がさらに苦しそうな表情になると、それを見た香里と祐一の動きが止まる。
「止めて! 栞は!」
「まだ大丈夫さ……何故栞ちゃんがここにいるかって言うとだな……まず一つは、美坂が土壇場で正気に戻って
裏切らないようにする為さ。後は、お前達に本当の事を教えてやろうと思ってな」
「何だと?」
「この子の病気はな、人為的なものなんだよ。カノンの科学陣が開発したウィルスの実験体として、当時病気で入院
していた栞ちゃんが選ばれたんだ。他にも健康な人間とか老人や子供もいたけどな、まぁサンプルは多いほうが良いだろう?」
北川は軽く世間話でもするかのように喋った。だがその内容に、祐一と香里は驚きを隠せなかった。
「そんな……カノンが栞を!? じゃあ、栞の具合が悪くなったのは……」
「あぁ、当時の彼女の担当医を騙してな。その医者はすぐに殺したらしいけどよ……でも俺も驚いたよ、まさか栞ちゃんが
実験体に選ばれて、しかもまだ生き残っているなんてな……真実はそういう事だ」
北川はこれで終わりとばかりに、あっさり栞の話を打ち切った。
「俺がいる理由は、相沢祐一が死ぬところを見たかったからだ。まぁ、美坂に殺されなくても俺が殺すんだけどな。
……美坂、正気に戻っちまったな」
「お前が香里に!」
「香里、か。随分親しげだよな、お前ら……ま、それはいいさ。俺はただ美坂の迷いを消してやっただけさ」
「栞を離して!」
香里の悲痛な叫びを聞いても、北川は相変わらず笑ったまま栞の拘束を解こうとはしなかった。
「うぅ……お、ねぇ……ちゃ、ん……」
「さぁ美坂……もう一度チャンスをやる。相沢のヤツを殺せ。銃にはまだ弾が残っているだろ?」
北川が視線を向けたその先には、先ほど祐一が香里から取り上げて放り投げた銃が、雪に埋もれていた。
「……わ、私は……」
「北川、お前はカノンの一員なのか? それに何故そこまで俺達、いやこの俺を憎む?」
北川は祐一の方に向き直ったが、その顔からは笑みが消えていた。
「あぁ、そうだ。俺はカノンの一員だ。お前を狙う理由は……そうだな、男のちっぽけな嫉妬と、この左腕の恨みだ」
そう言って栞の首に回している左腕を祐一に見せつける。
「どういうことだ?」
「美坂が再会した俺を見て何ていったと思う? 『バケモノ』だ。それに引き換えお前は何て言われた? 少なくともバケモノ
とは呼ばれて無いだろ? 俺もお前も同じ改造人間、バケモノなのによ!」
北川の目にはっきりとした憎悪の炎が宿る。
「改造人間……お前が?」
「ああ、そうさ……後は相沢、お前に作戦を邪魔されたしな。さらには俺の左腕まで破壊されたんだ。
腕は手術で再生されたけどよ……疼くんだよ、お前のことを考える度によ……お前を憎んでも無理ないだろ?
首領は失敗を許さない、俺が生き延びるにはお前を、仮面ライダーを殺すしかないんだよ!」
「北川君……一体何を言ってるの? 私、貴方にそんな事……」
「美坂……ここまで言ってまだ分からねぇのか?」
「改造人間、作戦失敗、左腕……!! まさかお前が!?」
「そうさ……俺が蠍男だよ」
北川がそう言って左腕に力を込めた。すると左腕が見る間に膨れ上がってその形を変えていく。栞も掴んでいた両手を
離してしまう。さらに変化は続き、それが収まると北川の左腕は大きな鋏状に変化していた。そこから北川の肩まで
分割された装甲のようなもので覆われた異形に変わっている。
その姿を見た栞が逃げ出そうとするが、変化した北川の腕の力はさらに強くなっており、全く動けないでいた。
「北川君が……そんな……何故……」
香里の呟きが聞こえたのか、北川は経緯を話し出した。
「俺が最初に入院したのは病気なんかじゃなかったんだ。ある時車に引っ掛けられてな。それで病院にいって簡単な検査を受けたんだが
その時に『今回の事故とは別に、君の身体に異常がある。別の場所で詳しく調べよう』って言われてよ、それで連れて行かれたのが
カノンだったって訳だ。そして俺はこの身体になったんだ」
「……北川君」
「初めて美坂に俺の姿を見せた時は堪えたぜ。戦闘員からお前を助けたのに『バケモノ』呼ばわりだもんな……」
「私、は……」
「まぁそれはもういいさ。さぁ美坂、相沢のヤツを殺せよ。でないと、大切な妹の命はここで終わるぜ?」
「くっ!」
「相沢、お前は動くな!……さぁ美坂」
「…………」
隙を見て動こうとした祐一を、北川が制した。香里は祐一を見、栞と北川を見、更には投げ捨てられた銃を順番に
見ながら自分が何の行動も取れない事に苦しんでいた。それきり周囲から声が無くなる。
「だ……め……」
静寂を打ち破って弱々しい声で言ったのは、栞だった。
「栞!」
「だ、め……です。おねぇ、ちゃん……そんな、こと……しちゃ……駄目、ですよ……」
「でも……」
栞の息は乱れて、発熱しているのかこの寒い中でも顔に汗を浮かべていた。だがその目には、まだ強い意志の光があった。
「私の、ことは……いいんです。もぅ、私の……命が、長くない……事は、知って……います、から……」
「な!? なんで……その事を?」
「自分の、身体……ですから……なんとなく、ですけど……分かってたんです……だから、そんな私の、為に……
祐一さんを、殺す……なんて、止めて……下さい……」
「そんな……」
香里が崩れ落ちてその場に両膝をつき、更には両手を雪の上について身体を支えた。
「祐一、さん……ごめん、なさい……そんな訳、ですから……もう、デート……できません……」
「栞!」
「祐一、さんは……正義の、味方さん……ですよ、ね? だったら……私に、構わず……悪者を、やっつけて……下さい。
それと……お姉ちゃんの、事……許して、あげて……下さい」
「ちっ! うるせぇよ、黙りな!!」
ドッ!
北川が栞を黙らせようと、空いている右手で彼女の腹を殴った。
「うっ……ごほっ……ゴホッ!」
それが引き金になったのか栞は咳き込み、吐血した。項垂れて全身から力が抜けたようにグッタリとなる。
「栞! 北川君、止めて!!」
「あ? 死んじまったか?」
「栞!!」
「……美坂、もういいからお前はそこで相沢がこの俺に殺されるところを見物してな」
そう言って祐一の所へ歩き出そうとしたその時だった。動かなかった栞の右手が、パジャマのポケットの中からナイフを掴み出すと、
刃を出して北川の左脇腹に突き刺した。
ザクッ
「グォッ!」
未だ普通の身体であったその箇所には、栞のナイフが刺さっていた。その痛みで思わず北川は栞を解放する。解放された栞は
倒れこむことなく、振り向いて北川の顔の左側を切り付ける。
スパッ
「ガァアアッ!」
北川は叫び声をあげながら、右手で顔面を押さえて蹲った。
「栞!」
香里が立ち上がって妹の下へと走り出す。
「お姉ちゃん!」
栞もまた身体をふらつかせながらも姉の下へと行こうとする。
「クッ!」
祐一は立ち上がると香里の後を追う。
「クソォッ! この女ァ!!」
北川は立ち上がりながら叫ぶと、栞の背中を睨み付ける。次いでその身体が変わり始めて蠍男へと姿を変える。そして
「死ネェッ!!」
栞に接近し、左手を大きく振り上げて……
「ダメェッ!」
「やめろぉっ!!」
香里と祐一の叫びが響く中……
「オオオオッ!」
栞の背中へと振り下ろされた
ズバァッ!!
「あ……」
栞の動きが止まる。ストールが二つに斬られて左右に広がる。左肩から右脇腹へと大きく切り裂かれた箇所からは
雪のように白い背中が覗く。そこに一筋赤い線が走り、血が流れ出す。
一連の動きがまるでスローモーションのように見えていた。香里も祐一もその場に立ち竦む。
「ぉ……」
自分の血で雪を赤く染めながらも、栞は一歩……一歩……姉へと向かって歩き出す。
「おねぇ……ちゃん」
少しでも距離を縮めるかのように震える手を指先までしっかりと伸ばす。
「しお、り……」
香里もまた栞のようにゆっくりと、妹へと歩き出す。本当はもっと早く動きたかった、栞を抱きしめたかった。だが今
目の前で起こったことを信じたくなかったのか、その歩みは自分の意思に反して頼りなく、ゆっくりとしたものだった。
せめてもの行為として、栞同様に手を伸ばす。
少しずつ近づく姉の右手と妹の左手
互いを一刻も早く求めんと限界まで指が伸ばされる
後僅かで互いの指が触れ合おうとした……だが
左手が……空を切った
右手には、左手が空を切ったことで起こったほんの小さな風が当たった
栞の身体が雪の上に横たわっていた……背中から流れ出る血で己の身体と雪を赤く染めながら
「ぁ……しお、り……?」
一歩……一歩……香里は倒れ付す栞の下へと歩いていき、やがて膝から崩れ落ちる。その膝のすぐ先に栞の頭があった。
「赦さねぇ……全員殺してやる」
いつの間にか近寄っていた蠍男が、呆然となっている香里に向かって左手を振り上げる。香里は栞を見ていて全く反応しなかった。
「させるかぁっ!!」
バキィッ!
蠍男を止めたのは祐一だった。蠍男の鋏が香里に振り下ろされるより早く、怒りの篭った右拳が蠍男を殴り飛ばしていた。
「グォッ!」
「赦さねぇ、だと? それは俺の台詞だ! 北川……いや蠍男! お前は俺が倒す!!」
祐一は足を開いて左腕を握り腰に構える。右腕は指先を揃えて左上に真っ直ぐに伸ばす。
「ライダー……」
右腕を時計回りに旋回させて右上に来た辺りで止める。
「変身ッ」
今度は逆に、右腕を腰に構えて左腕を右上に真っ直ぐ伸ばす。すると祐一の腰にベルトが現れて中央の風車が回転する。
ベルト中央の風車が発光し、その光は祐一の全身を包み込んだ。
光が収まるとそこには祐一が変身した戦士−−仮面ライダー−−がいた。
「いくぞ!」
ライダーの叫びが夜空に響く。何時の間にか雪は止んでいた。
「トォッ!」
殴り飛ばされて雪の上に転がっている蠍男へとライダーが飛び掛る。だが蠍男は寝た状態から蹴りを出した。
ドガッ
「ウッ」
蹴りはライダーの脇腹に命中する。そこは先ほど香里に撃たれた場所だった。今度はライダーが雪の上に転がる。
すぐに、二人とも立ち上がると構えをとって対峙する。
「(くそっ……ここで戦ったら香里達が……)」
怪我の痛みを堪えながらライダーが蠍男に向かっていく。蠍男はライダーに鋏を突き出すが、ライダーは身を沈めてそれを
かわすと蠍男を担ぎ上げて校庭の方へと投げ飛ばした。
「トォッ!」
次いで自分もジャンプして蠍男の後を追った。蠍男もライダーも空中で一回転して着地する。対峙した二人は、互いに円を描く
ようにゆっくりと回りだす。
「「いくぞ!」」
同時に歩みを止めると、相手に向かって走り出し、二人が描いた円の中心でぶつかり合った。蠍男の突き出した左手を、
ライダーが右手で払いのける。返す右手の手刀は蠍男がしゃがんで回避した。攻撃後の隙が出来たライダーに蠍男のタックルが決まった。
「グッ!」
ドサッ
雪の上に倒れるライダーに馬乗りになった蠍男が、鋏を右へ左へと突き出す。ライダーはそれを頭を左右に振って回避する。
「おおっ!」
ガシッ!
今度は叩きつけるように振り下ろされた左手を、ライダーは両手で受け止めた。
「ぐぅっ……」
「死ねよ、相沢!」
最初、力は拮抗していたがライダーは怪我で思うように力が出せず、徐々に蠍男に圧され始める。
「ハァッ!」
ライダーは蠍男の圧してくる腕を右へと逸らし、その勢いを利用して二人の身体を回転させた。今度は上になったライダーが
手刀を撃ち込むが、それを蠍男の右手が受け止め、その体勢から膝蹴りをライダーの脇腹に連続して繰り出す。
「グッ……」
再び両者の体勢が入れ替わるが、ライダーもまた膝蹴りを出して上になろうとして、お互いが有利なポジションをとろうと雪の中を
回転していく。
★ ★ ★
「栞……栞……」
香里は栞を抱きかかえて、妹の顔や身体に付いた雪を払いながら名前を呼び続けた。背中から流れる血が香里の身体を染めていくが、
そんな事は構わなかった。
「……ぉ」
「栞!」
栞が目を開ける。それを見た香里の呼びかけも強くなった。
「栞、しっかりして! すぐ病院に……」
「もぅ……いいん、です……」
自分を抱きかかえて運ぼうとする姉を、首を振って止めた。それに連れて僅かに髪に付着していた雪も落ちる。
「何を言ってるの!」
栞が姉を求めて震える手を伸ばすと、香里はその手をしっかりと握り締めた。今度こそ姉妹の手が握り合わさった。
「お、ねぇ……ちゃん。いままで、ありが……とう……それと……ごめん、なさい……」
「栞!!」
香里の目から涙が溢れて、栞の顔に雫となって零れ落ちる。香里はただ妹の名前を呼ぶことしか出来なかった。
「わたし……ちいさい……ころ、から……びょうきがち、だった……から、おねぇ……ちゃん……に、めい、わく……
かけ、て……ばっかり、でした……ね」
「そんな事は良いのよ! 謝るなら私の方よ。だって……あのとき、私が……」
まだ幼かった時の事。香里は栞との約束を忘れて学校の友達と遊びに行ってしまい、栞は一人で遊びに出かけて迷子になって
しまった。夜になって無事発見されたものの、その所為か風邪を引いてしまい、暫く寝込んでしまった事があった。
そのことで責任を感じた香里は、それ以来妹を懸命に守り続けてきた。
「あのときの、ことは……わたし、が……いけない、んです……かってに……であるい、ちゃったから……それに、
いちばん……さいしょ、に……みつけて……くれたの……おねぇちゃん……じゃないです、か……」
暗い中、心細くて泣いている自分の元に駆けつける姉の姿は、幼い栞には凄く頼れる存在に思えた。「ごめんね」と言って自分を
抱きしめてくれたその温もりを、栞は忘れた事が無かった。
栞は自分の命の終わりがもう間近なのを悟っていた。だがその前に、言うべきことは言っておかなければならなかった。
「お、ねぇちゃん……いままで、あり……がとう……ござい、ました……わたし、の……ために……むり、させ……ちゃって
……おとう、さん……たちに、じぶんの……こと、で……しんぱい、かけない……ようにって……おねえ、ちゃん……
だからって……いろいろ、がまん……させちゃって……ごめん、なさい……」
「いいのよ……貴女は、私の大切な妹なんだから」
「これから、は……じぶん、の……しあわせ、のために……いきて、ください……ね」
「栞……」
「おねぇ……ちゃんの、かお……もぅ、みえま……せん……」
「ここに居るわ!」
もはや栞の目は何も映していなかった。腕からも力が抜けていく。香里は失われ行く栞の命を繋ぎ止めようと、
握る手に力を込めた。
「さむくなって……そっか……ストール、きられ……ちゃった……から……せっかく……お、ねぇ……ちゃんが……
プレゼント……して、くれ……たの、に……」
「ストールの事はいいのよ、またプレゼントしてあげるから……もっとオシャレなのを買いにいきましょ」
「わたし……おねぇ、ちゃんの……いもうと、で……ほんとう、に……よかった……です……ゴホッ……」
血を吐く咳にも力は無かった。血は飛び散ることなく口元を伝って流れ落ちていく。
「栞! 駄目よ! 死んじゃ駄目!」
香里は奇跡を願った。自分では「起きないからそう言うのだ」と言った奇跡を、祐一が「僅かでも起きる可能性があるからそう言う」
と信じた奇跡を、その僅かな可能性を願った。
「わたし、ほんとう……に……しあ、わせ……でし、た……だか……ら……お、ねぇ……ちゃん、たち……も……かな……
しま、ない……で……くだ、さい……わ……た、し……さい、ご……まで……わら、って……います……」
「栞……」
「わたし……さいご、まで……わらって……いられ、まし……たか?」
栞は微笑んでいた。だが実際には口の端が僅かに歪んでいただけだった。
「えぇ、とっても良い……笑顔よ……」
「よ……かっ……た」
栞の目が閉じられた
全身から力が抜けていく
香里が握り締めていたはずの手がスルリと抜けて雪の上に落ちる
「しおり……?」
香里が呼びかけても、その瞳は二度と開く事はなかった
あと少しで16歳の誕生日を迎える筈だった少女の命は、最愛の姉に抱かれながら……幕を閉じた
「あ……あ、ああ……しおり……しおり………
しおりぃぃぃぃーーーーーーーっ!!」
香里の叫びが雪の止んだ夜空に響いた。
★ ★ ★
「しおりぃぃぃぃーーーーーーーっ!!」
その叫びは戦うライダー達にも聞こえていた。
「栞!?」
自分の身体が下になった瞬間、自分の足を蠍男との間に入れて巴投げの要領で投げ飛ばして間合いを取った。二人とも
即座に起き上がり構えをとって相手を見据える。
「どうやら、死んじまったようだな」
蠍男がライダーを見たまま言った。
「まぁ、どうせすぐ死んじまう命だったんだ。今ここで死んでも大差ないよな……ハハハ」
その蠍男の笑い声が、ライダーの怒りを増した。
「貴様、人の命を何だと思ってる!!」
「あ? お前がそれを言うか? お前だって何人も殺してきただろうが!」
蠍男も怒りの声を上げ、より憎しみのこもった目でライダーを睨み付けていた。
「テメェが今まで倒してきたカノンの怪人や戦闘員達……あいつらだって元はごく普通の人間だったんだぜ? それをテメェは
どうしてきた? あんな姿になっちまったからって、ただ殺してきただけだろうが!!」
蠍男の弾劾にライダーは何も言わなかった。だがそれは、己の罪を初めて気づかされた為では無かった。
「……わかっているさ」
「何だと?」
「そんな事はお前に言われるまでも無く、戦いを始めた時から気づいていたさ。たしかにお前を初め、怪人達や戦闘員達にも
幸せな生活、大切な家族があっただろう。カノンの犠牲者だよな…………だがなっ、それだからと言って人々を傷つける事は
許さん、人々の命を奪って良い訳が無い! だから俺はカノンと戦うっ、カノンを叩き潰す!
……そして全てを終わらせた後に、俺に罪があるなら甘んじて受けるさ」
「ライダァーッ!」
「オォッ!」
お互い、叫びながら激突する。
★ ★ ★
「栞……栞……」
香里は己の腕の中で冷たくなっていく妹の名前を呟き続けていた。涙が一つ二つと零れ落ちて、微笑んだままの栞の顔の
上に落ちていく。しばらくそのまま動かなかったが、ライダー達の戦う音に気が付くとゆっくりと動き始めた。
栞を雪の上に横たえると栞の両手を胸の前で組み合わせた。そして切れたストールの片方を頭の下に敷き、もう片方は
身体にかけた。次に、祐一が先ほど放り投げた銃を取ってきて、栞の髪を手櫛で整えながら微笑んだ。
「栞……」
顔を上げた香里が視線を向けた先には、馬乗りになって鋏でライダーの首を切り落とそうとしている蠍男の姿があった。
★ ★ ★
ガシィッ!
蠍男の鋏をライダーが受け止め、ライダーのパンチを蠍男が受け止めていた。互いの攻撃を受け止め、受け止められた体勢で
膠着していたが、突然蠍男が頭を下げると頭頂部から針を飛ばした。ライダーは針を回避したがその隙を付いて出した蠍男の
回し蹴りがライダーに命中する。
ドゴッ
「グァッ」
ライダーは呻いてバランスを崩した。体勢が崩れた勢いを使って蠍男がライダーを投げ飛ばす。
蠍男は仰向けに転がったライダーに馬乗りになり、その首を切り落とそうと開いた鋏を突き出した。
ガシッ!
ライダーはその攻撃を間一髪両手で受け止める、だがジリジリと鋏はライダーの喉下へ迫ってきた。
「その首……切り落としてやるぜ」
「グッ……」
「オラッ! 観念しろよ!」
ドガッ、ドガッ!
「グアッ!」
蠍男が空いた右手でライダーの脇腹を殴る度に、鋏が喉元へと近づいていく。そしてついには首を挟まれてしまった。
「終わりだな、相沢……いや、仮面ライダー」
「やらせないわっ!」
突然上がった声にライダーも蠍男もそちらを見ると、近くまで来ていた香里が銃を構えていた。
「よせっ、香里! 来るな!!」
「美坂ァッ!」
ダァンッ!
発射された弾は、蠍男の脇腹に命中して爆発する。
ドガァン!
その場所は奇しくも、栞がナイフを突き刺した箇所だった。
「グアアッ!」
叫び声を上げて蠍男はライダーから離れ、雪の上を転がっていく。
「ライダー!」
香里の叫びに、ライダーは起き上がって蠍男との間合いを詰める。蠍男も立ち上がってライダーを迎え撃とうと、
右拳を繰り出した。ライダーはそれを左腕でガードするとガラ空きの腹部にパンチを打ち込む。
ドガッ!
「トォッ!」
バキッ! バキッ!
さらにライダーのパンチが顔面に一発二発と叩き込まれる。その度に蠍男はよろめきながら後退していく。
「トォッ!」
ドガッ! ドガァッ!
右ハイキック、着地した右足を軸足にして左後ろ回し蹴りと連続で叩き込む。
「ガァッ」
蹴り飛ばされた蠍男は雪の上に倒れこんだ。ライダーは蠍男に飛び掛り、相手の両肩を掴むとジャンプする。
「ライダァーーーーッ」
蠍男の頭が下に来るようにして自分の頭上へと持ち上げながら、回転を付けて投げ飛ばす。
「きりもみシューーーートッ!!」
投げ飛ばされた蠍男は、激しく回転しながら地面に激突して、爆散した。
★ ★ ★
栞は眠っているかの様に安らかな顔で雪の上に横たわっていた。香里はその側で座り込んでいた。
「北川君があんな力を持って……栞を病気にさせて……人を救う技術より、人を殺す技術の方が進んでいる。嫌な話ね」
「……」
そう言いながら栞の顔を撫でているのを、祐一は黙って見つめていた。守ると誓った栞を守れなかった。実の妹に続いて、
妹のように思っていた存在を喪ってしまった。その思いが祐一の心に深い悲しみを与えた。
「香里……すまない、俺は栞を……」
「相沢君……いいのよ、貴方はよくやってくれたわ……」
未だ栞の顔を撫でながら香里が静かな声で言った。涙の跡は残っていたがもう泣いてはいなかった。
「相沢君が栞の為に色々としてくれてたことは分かってるから。だからこれ以上栞の事で悲しまないで。自分を責めないで」
「香里……」
「栞がね、言ってたの「私は幸せでした。だから悲しまないで、私は最後まで笑っていました」って…………」
静かに喋っていた香里だが、次第に嗚咽交じりの声になり、ついには堪えきれなくなって再び涙を流した。
「う、うぅ……栞、幸せだったって言ったけど……そんな訳無いじゃない!! たった、たった16年しか生きていないのよ!?
しかも殆どを病院の中で過ごして……そんな人生が……うぅ……」
「……」
祐一は無言で香里のそばにしゃがむと、香里の肩に手を置いた。香里は祐一の手から伝わる温もりを感じると、たまらずに祐一の
胸に飛び込んで泣き叫んだ。
「相沢君、あの子一体何の為に生まれてきたの!? 栞は、栞は……うわああああーーーー!」
祐一は何も言わずに香里を優しく抱きしめながら、その髪を撫でていた。
「私は、あの子に……何もしてあげられなかった……」
「香里……」
「相沢君。これからでもいい、私はあの子の為に何が出来るかしら? あの子の敵討ち?」
「それは……違うな」
「じゃあ、何をすればいいの?」
「栞の分まで生きて行くんだ……栞は最後に何か言ったんじゃないか?」
『自分の幸せの為に生きてくださいね』
栞の言葉が思い出された。
「栞は、お前が復讐の為に戦ったり、それによって傷ついたりする事を望んではいないんじゃないか?」
「……」
妹に向けられたその目から再び涙が流れ落ちていく。
「カノンとは俺が戦う。俺が香里達の想い……悲しみや苦しみ、全て背負っていく」
「相沢君……でもそれじゃ貴方が……」
「いいんだ」
「だって、誰にも理解されない孤独な、報われる事の無い戦いでしょ? それでいいの?」
「誰にも理解されなくても、秋子さんと名雪は俺が何の為に戦うか分かってくれている。俺を支えてくれる」
「私だって……そうよ。栞もきっと……」
「ありがとな、香里。だからこの戦いは孤独じゃない。皆が平和に暮らしていけるなら、俺は……それだけでいい」
「相沢君……」
香里は顔を伏せると、静かに泣き出した。
★ ★ ★
数日後
「香里、今日も学校に来なかったね」
今日は部活が休みなので祐一と一緒に帰りながら、名雪が寂しそうに呟いた。栞の葬式は身内と僅かばかりの知人達でひっそりと
行われた。祐一達も勿論出席していた。泣きはらす両親や参列者とは対照的に、香里は一滴の涙も悲しげな顔も見せずにただ
無表情な顔で過ごしていた。祐一達はそんな香里を黙って見守っていた。
「でも、仕方ないよね。私だってまだお父さんたちの事……香里だって……」
「あぁ……」
「祐一、栞ちゃんの事は祐一の所為じゃないよ。それに、北川君の事だって……」
未だ気落ちしている祐一を気遣うように名雪が話しかけてくる。秋子達には経緯と真相を話したが、栞も北川も入院先の
病院で病死という事になっていた。
たしかに祐一はカノンの犠牲になった栞や北川達のことを思い、気落ちしていた。あと自分はどれだけこんな思いをするのかと。
だがそれでも、祐一は立ち止まる事は出来なかった。
『相沢君、貴方はこれからもカノンと戦い続けるんでしょ? だったら栞の死に立ち止まらないで。あの子が幸せに生きて
行くはずだった世界を守って……栞の事を想うなら……』
香里が自分の胸の中で泣きながら言った言葉が思い出された。
「祐一?」
「あぁ、俺なら大丈夫だよ」
祐一は、自分の事を心配している名雪にそう言って微笑みかけて安心させると、ふと思いついたことを言ってみた。
「なぁ、名雪。これから香里の家にいってみないか? ほら、香里達の事も気になるしな」
栞の葬式以来香里達と会っていない事に気が付いて、そう提案してみた。名雪はすぐに了解してくれたので、二人して
香里の家に向かった。
ピンポーン
名雪が美坂家のチャイムを鳴らす。そのチャイムの音までも悲しげに聞こえ、まるで建物も栞の死を悼んでいるかのようだった。
「留守……なのかな?」
暫く待っても反応がなく、名雪がそんな事を言ったときだった。玄関が開いて中から一人の女性が顔を出した。
「はい……あら、名雪ちゃん。それと、相沢さん」
香里の母親が、葬式のときよりは幾分か落ち着いた顔をして出てきた。
簡単な挨拶を済ませた後、二人は中に通されて栞に線香をあげていた。遺影の中の栞は本当に幸せそうな顔をしていた。
「わざわざ来てくれてありがとうね」
「いえ……」
祐一は何も言えなかった。この母親の顔を見ると、あの日美坂家に戻った日の事が思い出された。
★ ★ ★
栞の遺体を前にただ呆然と立ちすくむ両親を直視することが出来なかった。両親はまだ目の前にあるものが何なのか理解
できないでいた。栞の死は半ば受け入れていた。だが、その日を今日こんな形で迎えることになるとは予想も出来なかった。
次第に状況が飲み込めてくると、今度はただひたすらに泣き続けた。香里もまた両親の側に立ち尽くし、涙を流していた。
両親は祐一を責めるような事は何も言わずに、只無言で頭を下げた。そのことが逆に祐一にとっては辛かった。
秋子が前に言った言葉が脳裏を過ぎる。
『責められるより、赦される事のほうが辛い時もあるんですよ』
★ ★ ★
「祐一、どうしたの?」
「ん? ああ、なんでもない」
思考の海に沈んでいた祐一だったが、心配そうな名雪の声で我にかえると、そう言って微笑んで名雪を安心させた。
「相沢さん?」
「平気です」
香里の母親も気遣って声をかけるが、それにも祐一は笑顔を見せて対応した。
「……栞の事、気に病まないでね。そうしないと、あの子が余計に悲しむと思うから……あの子が最後に書き残した物が
あってね……それには『皆さんと出会えて私は幸せでした だから皆さんもこれ以上私の事で悲しまないで下さい』
って書いてあったの」
「…………」
母親の声は悲しみに満ちていたが、それでも前を向いて行こうという気概が感じられた。かつての祐一達のように。
「それに香里がね、励ましてくれているのよ。それでうちの人も私も、なんとか立ち直れそうなの」
「そうですか」
香里の名前が出てきたので名雪は、今日ここに来た本来の目的である香里について尋ねた。
「あの、香里はどうしてますか?」
「香里ならちょっと前に名雪ちゃんの家に行って来るって出て行ったわ」
「家にですか? 行き違いだね」
「あの子、ここ何日かずっと考え事してたみたいだけど……何か、秋子さん達に話があるとかって言ってたわ」
その後祐一達は母親に挨拶して美坂家を出ると、自分達の家へと戻っていった。
★ ★ ★
「ただいま」
「ただいま〜」
「おかえりなさい」
祐一と名雪が帰宅を告げると、今日は百花屋の定休日なのですぐに秋子が出迎えた。
「香里ちゃんが来ているわよ」
秋子が言う。見れば玄関には香里の物と思しき靴が置かれていた。秋子に続いてリビングに行くとそこには、なぜか百花屋の
エプロンを身につけた香里が立っていた。
「二人とも、お帰りなさい」
そう言って微笑む。表面的には普段の香里と変わらなかった。
「香里……?」
「名雪、帰ってきたら『ただいま』でしょ」
「その格好は?」
「似合わないかしら?」
「香里ちゃんはウチでアルバイトしてくれる事になったんですよ」
混乱する名雪と祐一に秋子が説明したが、混乱は益々酷くなった。
「アルバイトって……」
「言葉通りよ。それにカノンと戦うならここにいた方が何かと都合がいいでしょ?」
その言葉に祐一と名雪は驚く。秋子は既に納得しているのか態度は変わらなかった。
「戦うって……」
「秋子さんに全て話したの。そしたら『復讐の為に戦っても栞が悲しむ』って言われたわ。勿論復讐の気持ちが無い訳じゃないわ。
でもそれだけじゃない、このままじゃきっとまた私達と同じ思いをする人達が出てくる。それに、栞が幸せに生きていくはずだった
世界を、あんな連中に好きにさせる気は無いのよ。だからお願い。相沢君、私にも貴方の戦いの手助けぐらいさせてくれないかしら?」
「香里ちゃんは本気ですよ。祐一さんの力になりたい、支えてあげたいって……どうしますか?」
秋子は、香里が加わることに賛成はしたが、最終的な判断は祐一に委ねる事にした。名雪もまた香里が本気である事を悟り、
何も言わずに祐一の判断に従おうとしていた。
祐一は迷っていた。カノンは強大で恐るべき組織だ。そんな敵との戦いに香里を参加させたくは無かった。
「前にも言ったがカノンとの戦いは……」
「命がけ、って言いたいんでしょ? それくらい分かっているわ。大丈夫よ、無茶はしないから。それに自分の身を守る位の
力は持っているつもりよ」
「しかし、何かあったら栞が……」
「栞はたしかに『これからは自分の幸せの為に生きて』って言ったけど、カノンのヤツらがいる世の中で幸せに生きていくなんて
出来ないわ。それに、北川君の事もあるしね」
「北川の事は……」
「栞を殺したのはカノンの蠍男よ。北川君じゃないわ」
香里ははっきりと言った。そして話を続ける。
「だから私も相沢君達と一緒に戦うと決めたのよ。お願い、相沢君……私も貴方の力になりたいのよ……
そうする事で私も立ち直れそうな気がするの……駄目かしら?」
「香里……」
祐一が未だ判断しかねていると、香里は顔を俯かせて寂しげに笑った。
「……そう、やっぱり無理よね。だって私は、操られていたとは言え一度は貴方を殺そうとしたんですもの……そんな女と
一緒に戦うなんて出来っこ無いわね。ごめんね、相沢君…………う、うぅ……」
両手で顔を覆い、嗚咽を漏らし始めた。それをみた祐一は慌てて香里にかけより、肩を掴んで言った。
「ま、まて香里。あれはお前の所為じゃない、俺は香里を信じている。だから……そんな事言うな」
「……じゃあ、貴方の手助けをしてもいい? 貴方を支える力になれる?」
「あぁ……香里の事も俺が守る。だから……」
そこまで祐一が言うと、香里は突然顔を上げた。その目には涙のカケラも無かった。
「そう、良かった」
「…………」
「そういう事だから宜しくね、名雪」
「え? あ……うん、こちらこそ宜しくだよ」
「秋子さん、改めて宜しくお願いしますね」
「了承」
名雪、秋子と続けて挨拶をすると最後に祐一に向き直り、以前見せていた笑顔で言った。
「これから宜しくね、相沢君」
続く
後書き
こんにちは、うめたろです。16話お届けです。
はい、やっちゃいました。私自身暗い話や悲しい話がすきな訳では無いのですが、今回はこんな展開にさせて頂きました。
今後も似たような展開で話が進む事もあると思いますがご了承下さい。
これで話も一区切りついたので次からはまた新しい話になります。
今後とも宜しくお願いします。相変わらず短い後書きで恐縮ですがこの辺で。
最後に
今作品を掲載してくださった管理人様
今作品を読んでくださった皆様に感謝して後書きを終わりにしたいと思います。
ありがとうございました。
では。 うめたろ