表通りから少し外れた通りにある一軒の店。小さいながらもそれなりに立派な看板がかけられている。少し傾いてはいたが。ぱたぱたぱたとそこにやってきたその女性は傾いている看板を見て、思わずため息をついていた。
「はぁ〜……心配した通りだったわ……」
 店の裏口に回り、中に上がっていくと奥の間で一人の若い男が何ともだらしのない寝相で寝入っていた。そんな若い男を見て、女性は更に重くため息をついた。
「もう……」
 若い男のそばにしゃがみ込むとその方を手で掴んで揺すってみる。
「兄さん、もうお昼ですよ、起きてください」
 そう声をかけてみるが、そんな程度で彼が起きるとは思っていない。あくまでとりあえずこうやっているだけだ。これで起きればそれでよし。起きなければ。
 女性は一旦立ち上がると部屋の中を見回してみた。ほとんど何もない部屋、ただ寝る為だけの存在しているような部屋だ。仕方がないので一旦部屋の外に出る。再び彼女が部屋に戻ってきた時、彼女の手には壺が握られていた。
「兄さ〜ん……起きないんならいきますよ〜」
 そう言いながら彼女は手に持った壺を眠っている男の腹の上へと移動させ、その手を放した。勿論壺は重力に従って真下、つまりは男の腹の上に落ちる。
「ぐはっ!!」
 いきなり腹部に衝撃を受けた男は奇妙な声を上げて、ようやく目を覚ました。壺は中に何か入っているらしくかなり重い。それを全く無警戒のまま腹部に落とされたのだ。その痛みに男は起きあがることも出来ずにそばにいる女性を涙目で睨み付けた。
「お前……何ちゅうものを……」
「あ〜……兄さんが起きないのが悪いんです」
 ちょっと目を逸らせながら言う女性。少しは悪いと思っているらしい。何となく置いてあったものを持ってきたのだが、やはり少し重すぎたようだ。それでも始めに起こした時に起きてくれなかった彼が悪い。そう考えることにする。
「とにかく起きてください。もうお昼になりますよ」
「昨日は遅かったんだ、もう少し寝かせろ」
 そう言ってもう一度横になろうとすると、女性がにっこりと笑って再び壺を手に取った。
「に・い・さ・ん?」
「……わかった。起きれば良いんだろ!」
 このまま二度寝を使用ものなら容赦の欠片もなく壺を腹の上に落とされるだろう。腹筋を鍛えるには良いのかも知れないが、そう言うつもりは微塵もない。ただ痛いだけだ。
「全く……もうちょっと考えてくれよな、起こす方法」
 はだけた胸をぽりぽりとかきながら、そばにいる女性をじろりと睨み付ける。
「兄さんが一度で起きてくれればこんな事しなくても良いんですけどね」
「だから言っただろ、昨日は遅かったって」
「一体何やっていたんですか?」
「ん〜、まぁ……飲んでた」
「一人でですか?」
「まぁ……な」
「何ともお寂しいことで」
「何だ、嫌味を言いに来た訳か?」
 そう言いながら男は面倒くさそうに立ち上がる。
「どこ行くんですか?」
「顔洗ってくる」
 女性の問いにそう答えながら男は部屋から出ていった。

 男が顔を洗いに行っている間に女性は店を開ける準備をし始めた。と言ってもそれほどやることがあるわけでもない。閉じてあった木戸を開け、傾いている看板を真っ直ぐに直す。
「全く……折角の看板が泣くよ、これじゃ」
 看板には「和菓子処 朝倉堂」と書かれてある。これを書いてくれた人が今のこの状況を見たら何というだろうか。店の中を見ればいかにも流行っていないということがよくわかる。
「兄さんってば腕はいいんだけどなぁ」
 そう呟いてため息をつく。彼女が先ほどから兄さんと呼んでいる青年、和菓子職人としての腕は結構いい方だ。だが、まるで商売っけがない。そもそもそっちの才能に乏しいのかも知れない。ならば何処かの店で職人として働けばいいのだろうが、そうする気は全くないらしい。金に固執するタイプではないのだ。そこそこ生活出来ればいいと思っているのかも知れない。
「何だ、店開けたのか?」
 奥から出てきた男が看板を見上げている女性を見て少し困惑したように言った。
「これからちょっと出かけてくるんだけどな」
「何言ってるんですか! たまにはちゃんと……」
「悪いがこっちの方が先約だ。お前、暇なんだったら留守番頼むわ」
 男はそう言うと女性に向かって手をひらひらと振り、そのまま歩き去ってしまう。
 呆然としていた女性は彼を見送ることしか出来なかった。はっと気がついた時にはもう男の姿は見えなくなってしまっている。女性はその場で悔しそうに足踏みするしかなかった。

 男がぶらぶらといかにも退屈そうに歩いている。何処か目的地があるようには見えない。とにかく宛もなく、暇そうに、欠伸をしながら歩いている。
「店を妹に任せて自分はのんびりと散歩か、同志よ?」
 どこからともなく、全く気配一つさせずに一人の男が彼の後ろに現れ囁くように声をかけてきた。
「相変わらず神出鬼没だな、お前は」
 彼は後ろに現れたのが声だけで誰かわかったようだ。イヤ、それ以上にこんな事をする相手と言えば心当たりは一人しかいないのだが。
「昼間っから散歩とはいい御身分だ。全く羨ましい限りだな」
「お前だってそうじゃねぇか」
 振り返ることもなく、立ち止まることもなく二人は歩き続ける。
「何を言うか。この俺は常に新しいネタを求めて街中を歩き回っているのだ。暇そうにブラブラしている同志と一緒にするな」
「さすがは瓦版屋、杉並堂だな」
 少し相手を揶揄するように言うが、向こうはそれに気付かなかったのかあえて無視したのかニヤリと笑っただけだった。
「で、一体何処へ行くつもりなのかな?」
「答える義理はねぇだろ」
「まぁまぁ、そう言うな。とりあえず昨夜はご苦労だった。これが元締めから預かった半金の残りだ」
 少しだけ周囲を気にするように小声になった男の手から小さな包みが手渡される。その包みを受け取った彼は手で中身の感触を確かめると、そっと袖の中に包みをしまう。
「相変わらず見事な腕前だ。元締めも感心していたぞ」
「うるせぇよ。それより当分俺はやらないからな。何かあっても呼ぶんじゃねぇぞ」
「それは困ったな。早速新たな仕事に掛かって貰おうと思っていたのだが」
「他の奴に回せよ。飾り職の奴とか髪結いとかに」
「向こうは向こうで別の仕事が入っている。そうでなければお前にすぐ仕事を回そうとはしない」
「……かったりぃ……今回はやらねぇ、絶対にやらねぇぞ」
 そう言って歩く速度を少し上げる。
「そう言うな、朝倉堂。話を聞けばきっとやる気になる」
「だから聞く気はねぇっての。それにそろそろ戻らないと音夢が怖い」
 店に残してきた女性――義理の妹の音夢が怒っている顔を想像して彼は小さく肩を竦めた。少々のことでは許してもらえないだろう。
「……かったりぃなぁ」
 どういう風に謝ろうかと思いながら足を自分の店へと向ける。
 彼がどうあっても話を聞く気がないらしいと言うことを悟った男は小さくため息をついた。それほど急ぎの仕事でないのが幸いだ。とりあえずもう少し時間をおいて、もう一度話してみよう。そう思いながら足早に去っていく青年を見送るのだった。

 この江戸の街には金で人の恨みを晴らすという裏稼業が存在する。多くの者は日頃何の変哲もない生活を送っている、ごく普通の人々だ。だが、その中に紛れて彼らは存在している。人呼んで”闇の仕置人”。
 今、自分の店に向かっている一人の若者――朝倉堂純一、和菓子職人を表稼業としている彼もそんな”仕置人”の一人であった。特定の仲間を持とうとはせず、やる仕事と言えば高額なものばかり。更に一回仕事をすれば次の仕事にまでかなりの間を取る。しかし、その分腕は確かなものがある。そしてそんな彼を配下にしている元締めからの信頼は非常に厚く、彼に回される仕事は困難ではあるが報酬のいいものばかりだった。
 昨夜も一仕事終えたばかり。相手はかなりあくどいことをして儲けていた高利貸し。依頼人は考えるまでもない。今までかなりの人間がそいつによって泣かされてきた。生かしておいても仕方のない奴。報酬は全部で20両。決して高くはないが、その高利貸しの命の対価としてはそんなものだろう。これでも高いくらいだ。
 報酬の半金、10両を同じ元締めの配下である瓦版の版元、杉並堂から受け取った純一は自分の店へと戻る前に、そこでかなりご機嫌斜めで待っているはずの義妹の為に何かお土産でも買ってかえろうと思い、近くにある店に飛び込んでいった。勿論、ご機嫌取りの為である。まぁ、物で釣られるような義妹でないことはわかっているのだが、それでも多少は機嫌を直してくれるのに役立つだろう。
 
 純一が看板も見ずに飛び込んだのは呉服屋だった。色とりどりの生地が店頭に並んでいる。だが、それを見ても何がどういいのか彼には全くわからなかった。これでは何を買っていけば気に入ってもらえるのかわからず、純一は店頭で呆然としてしまうのであった。
「これはこれは、どういったものをお探しですか?」
 この店の奉公人らしい若い男が笑顔を浮かべて立ちつくしている純一に近寄ってきた。
「あ、いや……俺と同じくらいの歳の女に何か買ってやろうかなって思ったんだけど」
「そうでございますか、ならこれなんかはいかがでしょう」
 そう言って男が反物を取り出してくる。純一が何も言わないでいると男はまた別の反物を取り出してきた。気に入らなかったのかと思ったのであろう。実際には気に入るも気に入らないも無い、ただぼんやりと見ていただけなのだが。次から次へと反物を取り出してくる男。どうやらかなり商魂逞しいらしい。
「……かったりぃ……」
 ぼそりと呟く純一。はっきり言ってしまえばどんな物でもいいのだ。ただ、義妹の機嫌を取る為だけの物。幸い懐は暖かいから多少値がはっても構わないが、あまり値のはる物だと逆に怪しまれるだろう。
「これなんかはどうでしょうか?」
「あ、それで! それでいいよ。いくら?」
 男の言う値段は普通のもの以上だった。ちょっと驚きつつ、更に安易に決めてしまった事を後悔しながらも先ほど杉並堂から受け取った金で支払いを済ませ、今度こそ自分の店へと向かう。あまり流行っているとは言えないがそれでもたまに客はやってくる。一応昨日のうちに仕込みはやっておいたし、今日出す分ぐらいはあるはずだ。義妹も昔は店を手伝ってくれていたからだいたいのことはわかっているだろうし、きっと大丈夫のはず。とは思うのだが、何となく純一は足を速めていた。
 店の前まで純一が帰ってくると、店の前で音夢がキョロキョロと周りを伺っているのが見えた。おそらくは自分を捜しているのだろうが、どうもその顔には焦りの色が見える。何か、あったのだろう。用意しておいた商品が全部売れてしまったか、それとも別のことか。前者はまぁ、あり得ないだろう。ではおそらく後者だが、一体何があったというのか、まるで想像もつかない。
「よぉ、何やってんだよ、こんなところで」
 あえて気楽そうに声をかけてみる。返ってくるのは自分を叱責する怒鳴り声か、それとも。どちらにしろ後で何か言われるのはわかっている。
「兄さん! どこ行っていたんですか!!」
 純一の予想とは違い、義妹から返ってきたのは少し安堵したような声だった。だがその中にも自分を叱責するニオイが感じ取れる。一応怒っているのは怒っているらしい。
「まぁ、ちょっとな。それよりどうした? まさか全部売り切れた訳じゃないだろ」
 そう言いながら店の方を覗き込む。多少減っているようだが、まだまだ売れ残っている。流行ってないから当然と言えば当然だが。売れ残った分はまた近所にでも配ることにしよう。おいておいて腐らせてしまうよりもそっちの方がマシだ。
「売り切れるわけなんかありません。それよりも……」
 音夢がそっと視線を店の奥へと向けた。まるでそこに誰かいるかのように感じだったので純一もそっちを見てみると、そこに一人の女性がいるのが見えた。
 この店は和菓子処と言うことで店の奥には買った和菓子をすぐに食べられるような座敷が用意してある。普段は純一が暇そうにしている場所なのだが、今はその場に一人の女性が上品そうに座っている。彼女の前にはおそらく音夢が出したのであろうお茶と和菓子。だが、どちらにも手をつけた様子はない。
「兄さんに用があるって。ずっと待っててくれてるんだけど……」
 訝しげな顔をして音夢が言う。この兄にあんな美人が用があるなんて一体どういう事なのだろうか、不審がっている。何か悪い付き合いでもしているのではないか、と勘ぐっているのだろう。
「……一体どういう人なの?」
「……仕事上の付き合いのある人だよ」
 音夢の疑いをかわすようにそう言い、純一は中に入っていく。
「ああ、そうだ。これ、お前にお土産。店番ご苦労って事で」
 思い出したかのように純一は持っていた反物を義妹に無造作に放り投げた。慌てた様子で反物を受け取る音夢を見て、純一はニヤリと笑って座敷の方に向かう。
「仕立てて貰うならいい奴知ってるから。とりあえずもうちょっとの間店番頼むぜ」
 手に持った反物を見て呆然としている彼女にそう声をかけて、座敷に上がる。その時にはもう彼の顔にニヤリとした笑みはなかった。普段は滅多に見せない厳しい表情を浮かべて、彼を待っているという女性の前に座る。
「相変わらず妹さん思いなんですね」
 落ち着いた声で女性がそう言い、すっかり冷めてしまったお茶に手を伸ばした。
「まぁ、いつもいつも世話かけてますからね。たまには恩返ししとかないと」
 そっと店先でまだぼんやりしている義妹を見やりながら純一は答える。
「で、わざわざここに来たのは……聞くまでもないことですかね?」
「ええ、杉並堂さんが話も聞いてくれないと言ってましたのでわざわざ出向かせていただきました」
 そっと湯飲みを畳の上に戻しながら女性は微笑んだ。あくまで上品そうな笑み。だが、その下で何を考えているか全く読みとれない。完全なポーカーフェイス。この女性こそ純一を、仕置人としての純一を配下にしている元締めなのだ。
 普段は杉並堂を通して仕事の依頼をしてくる彼女だが、今回は自ら出向いてきている。連続では決して闇の仕事をしようとしない純一を知っていて尚、仕事を依頼する為だろう。それだけ困難な仕事だと言うことなのか。
「……元締め、悪いが……」
「わかってますよ、あなたが連続では仕事をしないと言うことは。ですが今回はそこを曲げてお願いしたいんです」
 機先を制するように女性がそう言い、純一に向かって頭を下げた。
 いきなり女性が頭を下げたのを見てぎょっとしたのは純一である。まさか複数の仕置人を束ねる元締めが一仕置人でしかない自分に頭を下げるとは思ってもみなかったのだ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、元締め。とりあえず頭上げてください、音夢も見てますし」
 慌ててそう言い、純一は店先にいる音夢を伺った。幸いなことに彼女は反物を抱きしめてまだぼんやりとしている。こっちの様子には気付いていないようだ。
「……何でまた俺にやらせようとするんですか? 他にもいるじゃないですか……飾り職やら髪結いやら」
「あいにくあの二人は今別の仕事で江戸を離れてます。それに……この相手はあなたに任せるべきだと杉並堂さんが」
「またあいつか……」
 杉並堂の名を聞いて彼の何故か勝ち誇った顔を思い浮かべる純一。何となくむかついたが、その杉並堂がこうもしつこく自分にやらせようと言うこの仕事に少しだけ興味がわいたことは否めなかった。
「で、一体誰を?」
 仕方なさそうに純一が言う。実際のところ、それほどやる気にはなっていない。相手を聞いた上で断ることは別段いけないことではない。一匹狼の彼にとって手の出しにくい相手はいくらでもいるのだ。
「公儀御典医、九条玄白」
 元締めの口から出た名に純一の顔が変わる。
 相手は想像以上の大物。将軍家の健康維持などを手がける御典医は言うなれば江戸の医者の頂点に立つ存在。そのような相手を仕置きしてくれとは、一体何処の誰が依頼人だというのだろうか。
「やって……もらえますか?」
「……少し考えさせてください……こいつは相手が大物過ぎる」
 流石に即答は出来なかった。下手に手を出せばこちらが危うくなる。御典医が仕置きされたことがわかれば公儀としては意地でもその犯人である仕置人を探し出そうとするだろう。
 だが、それほどの相手の仕置きをどうして元締めは引き受けたのか。下手をすれば自分の身だって危ないはずなのに。絶対に自分の正体がばれないと言う自信があるのか、それともまた別の何かがあるのか。後者だとすれば、きっとそれは依頼人に絡む何かなのであろうが一仕置人である自分には知るべくもない、知る必要もないことだ。
「……出来れば早いうちにお返事を聞かせていただきたいのですが……」
「……わかりました」
「ではこれで失礼します……そうそう、妹さんにもお礼を言っておいてください。お茶、結構おいしかったですよ」
「出来ればこっちも誉めて欲しいんですがね」
 そう言って純一は全く手つかずの和菓子を指差して苦笑した。和菓子職人としてはこっちのが手つかずだと何とも悔しい気がする。
「おいしかったですよ、それも……実はそれ、二つ目なんです。間が持たなかったからでしょうね、一度食べた後もう一つ持ってきてくれました」
 すっと腰を浮かせながら元締めはそう言い、柔らかな笑みを浮かべてみせる。この笑みに心奪われない男はいないだろうと言うくらいに魅力的な笑み。純一も照れたように顔を赤くして頭をかくのであった。
「今度はうちの店に持ってきてください。上手くいけばそっちの方でも……」
「そ、それは遠慮しておきますよ。何せここは俺ひとりなもんで……」
「そうですか? それは残念です……」
 本当に残念そうな元締めを見て、純一は複雑な笑みを浮かべるしかない。元締めは表稼業として確か料亭を営んでいたはずだ。そこで純一の和菓子を出してみて、客の反応がよければ正式に取引を持ちかけるつもりだったのだろう。だが、和菓子職人という仕事にそれほど熱心でもない彼としてはそっちで忙しくなるのはご免被りたい事であった。自分が食っていけさえすればそれで充分。儲ける気は毛頭無い。どっちにしろ金は裏稼業を続ける限り、かなりの量が入ってくるのだから。
 元締めが店の外に出て、持ってきていた日傘を差すのを純一は座敷から出てじっと見つめていた。店番をしていた音夢に軽く挨拶をしてから歩き出す元締めを見送り、店の奥にある厨房へと向かう。今から明日の為に仕込みを始めよう。幸いなことに店番として音夢がいる。彼女のいる間に色々とすませておけば後で時間がとれる。そう、一体どうして公儀御典医を仕置きしなければならないのか、そしてその仕事をどうして自分にやらせようとするのか杉並堂に問いつめる時間が。

 純一の義妹である音夢は普段は小石川にある診療所で住み込みで働いている。昔からあまり身体が丈夫でもなかった彼女はよく医者の世話になっており、その内にそっち関係の仕事をしたいと思うようになったのだ。それでとあるつてを頼って小石川診療所のお手伝いという形で働かせて貰っている。
 明日の分の仕込みを終えた純一は店を閉め、彼女を診療所に送るという名目で夜の街に繰り出していた。
「別に送ってもらわなくても」
「いやいや、近頃物騒だからな。一応お前だって女なんだし」
「兄さん、一応って何ですか?」
 引きつった笑みを浮かべてこちらを見てくる音夢。
「……すまん、口が滑った」
 純一がそう言うと同時に脇腹に鋭い衝撃。どうやら音夢の怒りの肘打ちを食らったらしい。女ながら見事なタイミングで繰り出されたその一撃に純一は思わずその場で踞ってしまう。クリーンヒットもいいところだった。
「お前……ちょっとは手加減というものをだな……」
 思わず涙目になりながら義妹を見上げる純一。
「兄さんは少し歯に衣を着せると言うことを覚えた方がいいですよ」
 そんな義兄をじろりと見下ろす音夢。それでもちゃんと手をさしのべている。少しはやり過ぎたと思っているのだろうか。
「もう少しで診療所だし、診て貰います?」
 にっこりと笑顔を浮かべてそう言う義妹の手を借りながらようやく立ち上がった純一は首を左右に振った。
「止めておくよ。こんな時間に悪いだろ」
「それもそうか」
 また二人並んで歩き出す。
「そう言えば兄さんから貰った反物、あれどうしたの?」
 不意に音夢がそう尋ねてきたので、純一は彼女の方を見た。昼間彼女に渡した反物は診療所にはそぐわないと言うことで純一の店に置いてきてある。今度店に来た時に仕立屋に持っていこうという話になっているのだ。
「買ってきた」
「それはわかってるって。そのお金、どうしたの?」
「……まぁ、いわゆる臨時収入というかそんなものだ」
 まさか裏稼業で手に入れた金だと言うわけにもいかない。だからつい、言葉を濁してしまう。まぁ、臨時収入という点だけはあっているが。
「臨時収入って、何か他にやってるの?」
「イヤ、その、まぁ、何だ……ちょっと人に貸していた金が返ってきたんでな。それで」
 何か訝しげに追求してくる音夢にちょっとしどろもどろになって答える純一。出来ればあまり追求して貰いたくない。それも彼女にだけは。
「と、とにかく、もうここからなら大丈夫だろ。それじゃあな!」
 診療所の門が見えてきたところで純一は義妹を送り出し、くるりと背を向けて歩き出した。
「兄さん、明日はちゃんと起きて仕事してくださいよ!」
「そう思うなら起こしに来てくれ」
「明日は私も仕事です!」
「冗談だよ。じゃ、頑張ってな」
 手を振りながら純一は元来た道を帰っていく。おそらく後ろでは義妹が手を振りながらこっちを見送っているだろう。何となくだがそう言う気がした。少しの間手を振っていて、こちらが振り返らないと知るとちょっと頬を膨らませてから、診療所に入っていく。見なくても想像出来た。
 
 提灯も持たずに夜の街中を歩いている純一。まだ店に戻るわけには行かない。一つやらなければならないことがあった。公儀御典医、九条玄白の仕置きをどうしても自分にやらせようとしている杉並堂、彼に会わなければならない。
 だが、その杉並堂の行方がわからなかった。いい意味でも悪い意味でも彼は神出鬼没、店の場所も何処にあるとも知れない。まぁ、彼の表稼業の瓦版屋は公儀にとってやばいことでも平気で書くので奉行所からも目をつけられている。その為か、転々と居場所を変えているらしい。純一が知っているのはその程度、何か用がある時は常に彼の方から純一の前に姿を現してくる。今まではそれで困ることはなかったのだが、今回ばかりはそれが裏目に出ていた。
「あの野郎……何処に消えやがった?」
「誰かお探しかな?」
 舌打ちしていたらいきなり後ろから声をかけられた。振り返らなくてもわかる。やはりこの男、神出鬼没というのにふさわしい。
「お前を捜していたんだよ、杉並堂」
 そう言いながら振り返る純一。
 彼の後ろにいた杉並堂はニヤニヤとした笑みを浮かべている。
「元締めを俺のところに来させてまで何でこの仕事を俺にやらせたいんだ?」
 杉並堂の浮かべている笑みに何となく苛立ちを覚えたものの、それを理性で押し殺し一番聞きたかったことを尋ねる。
「それを言えばこの仕事、引き受けてくれるのか?」
「さぁな。何せ相手は大物だ。下手に手を出せば俺だけじゃない、裏稼業全体に響く」
「その辺のことなら心配するな。奴は公儀御典医の立場を利用して散々あくどいことをしてきた。恨みを買っているのも一つや二つどころじゃない」
「……生かしておいても仕方のない奴、と言う訳か」
 そう呟いて嘆息する。おそらく頼み人の中には玄白と同じ医者や公儀の役人もいるのであろう。こうなると追及の手はそれほど深くは伸びてこないだろう。
「だが、それだけじゃないだろう? 何で俺にやらせたいんだ?」
「別段お前にやらせたいわけではない。俺が気を利かせただけだ」
「……? どういう意味だ?」
 杉並堂の言葉に純一は訝しげな顔をした。この男が自分に対して気を利かせるなどと言うことが信じられなかったのだ。何か裏がある。それは彼の中でほぼ確信に変わっている。
「ふむ……これを聞けばお前は絶対にやると言うだろう。と言うか、もうやる気になっているのではないか?」
「回りくどいな。早く言え」
 ニヤリと笑う杉並堂に対して純一は苛立ちを隠さない。この杉並堂という男、決して悪い奴ではないのだが、そう言う回り持った言い方をよくする。相手が苛立つのを見て楽しんでいるのだろうか。
「九条玄白はかなりの女好きとしても有名だ。囲っている女は一人や二人ではないと聞く」
「何処までもやな野郎だな」
「だが、同時にかなりの女性を泣かせても来ている。奴に弄ばれたあげく捨てられた女性も相当数いるという話だ」
「頼み人はそっちの方からもいるって言うことか」
「まぁ、そう言うことだな。さて、ここからが本題でお前にも関わることなんだが」
 杉並堂はそう言って、一旦言葉を切った。チラリと純一を見やって、ついてこいとばかりに顎をしゃくる。
 先に歩き出した杉並堂に並んで純一も歩き出す。行く宛は特にない。ただ二人して並んで歩くだけ。
「より正確に言えばお前ではないな。お前の妹に関わることだが……少し話はそれるんだが、近頃女性も医学の分野によく進出していることは知ってるな?」
「ああ、音夢からも聞いてるよ。診療所にたまに手伝いに来てくれる女性の医者がいるとかな」
 それでなくても朝倉堂の近所に一人女性でありながら開業している医者がいる。何度か売れ残りの和菓子やら饅頭やらを持っていったことがあるから純一もよく知っている。そもそも音夢が小石川診療所で働けるようになったのはその人のお陰でもある。
「九条玄白はそう言う女性に自分の立場を利用して近付き、弄んだことが何度もあるという。しかも弄ばれた方は訴えようにも相手は公儀御典医、泣き寝入りするしかない」
 淡々と言う杉並堂。その口調にほとんど感情は込められていない。自分が聞いて調べたことをただ伝えているだけ、そう言う感じだ。少なくても純一はそう感じていた。
「その九条玄白が今度小石川診療所に視察に来るという。朝倉堂、お前の妹はなかなかに見目麗しい。九条玄白が見初める可能性は高い」
「……それで俺に気を利かせたって訳か。そいつが音夢に手を出す前に仕置きさせようと……余計なことを考えるな、お前」
 少し呆れたように言う純一だったが、その心遣いには感心していた。自分が妹を大事に思っていると言うことをこの男はよく知っている。もしかしたら心の奥に押し込めている感情すら知っているのかも知れない。
「さて、ここまで話しておいてやらないとは言うまいな?」
 そう言った杉並堂の顔は純一が頷くであろう事を確信しているのか穏やかな笑みをたたえていた。

 翌日の昼過ぎ、例によって純一が惰眠を貪っていると音夢が息を切らせつつ上がり込んできた。
「兄さん、兄さんって……もう、また寝てる!」
 居眠っている純一を見た音夢は嘆息すると、部屋の中を見回した。昨日彼を起こすのに使った壺は未だにこの部屋の中にある。そっとその壺を手に取ると、だらしない格好で寝ている純一の腹の上へ。壺を持つ手を放そうとした瞬間、純一がぱちりと目を開き、横に転がった。その直後、音夢の手を放れた壺が布団の上に落下する。
「あ、あぶねぇ……」
 頬を流れる冷や汗を手の甲で拭いながら布団の上に突き立っている壺を見やる純一。
「夢の中で感じた殺気は間違いじゃなかったか」
「何を感じたですって?」
 こめかみに青筋を浮かび上がらせながら音夢が純一のそばにしゃがみ込んで言う。
「全く昨日と言い今日と言い、一体何時もどう言う生活をしているんですか、兄さんは。やっぱり一緒に暮らしていた方がいいのかな?」
 今度は少し呆れたような感じで言う音夢。
 彼女が診療所で住み込みで働き出す前までは二人は一緒に暮らしていた。近くに住んでいる女医の元で医学について勉強していたり純一の店を手伝ったり彼の世話をしていたりして過ごしていたのだ。しかし、女医の薦めで小石川診療所の手伝いをするようになってからは、少し離れた場所に診療所があることもあってそちらに住み込むようになった。その為に純一は自由気ままな一人暮らしを満喫している。もっとも自堕落な生活だと音夢は言うのだが。
「いつもはちゃんと起きてるよ。それよりどうしたんだ? 今日は仕事だったんだろ?」
 昨日診療所の前で別れる時、確かそう言っていたはずだ。
「そうだ、兄さんに聞いて貰いたいことがあって来たの!」
 パンと手を叩いて、嬉しそうな顔をする音夢。何かいいことがあったみたいで、それをわざわざ報告に来たのだろう。この嬉しそうな、満面の笑みを見ればわかる。
「何だよ?」
 まだ眠たげな純一が少しかったるそうに尋ねるが、音夢は気にした様子はなかった。これがいつもなら頬を膨らませてムッとなるところなのだが。どうやら純一に知らせたいと言うことが余程嬉しいことのようだ。
「今度、御典医の九条玄白様のところでお手伝いさせてもらえることになったの!」
「あん?」
 一瞬彼女が何を言ったか理解出来ず、そう返してしまう純一。
「だからぁ」
 音夢が少し口をとがらせる。ちゃんと聞いていなかった義兄を責めるように。だが、それよりも今はこの吉事を一刻も早く義兄に伝えたい。そっちの方が何よりも優先だった。
「今度ご公儀御典医の九条玄白様のところでお手伝いさせてもらえることになったの! どう、すごいでしょ」
 嬉しそうにそう言う音夢だが、純一は全く無表情のままだった。何も知らないなら、一緒に喜んでやれた。だが、今の彼は九条玄白と言う男の正体を杉並堂から聞かされている。あの男、人間的にはどうかと思うがその情報収集能力とその正確さは信頼するに値する。だから、どうしても喜んでやれなかった。そこまで心を、感情を押し殺せない。特にこの義妹に関しては。
「……どうしたの、兄さん?」
 首を傾げながら純一を見る音夢。
「……喜んで、くれないの?」
「ああ、イヤ、おめでとう、音夢」
 とってつけたように純一はそう言い、笑みを浮かべた。きっちりと笑みになっていればいいと思いながら。心の中では激しく動揺している。せめてそれが表に出なければいい。音夢に気がつかなければいい。
「う〜……」
 だが、頬を膨らませて音夢は純一を睨んでいた。
「う……」
 自分を見る音夢の視線がやけに冷たいことに気付いて、純一は思わず顔を引きつらせる。何かわからないがやばいという気がした。そして、その直後、純一は頭に物凄い衝撃を受けてその場に昏倒してしまう。薄れていく意識の中、彼は音夢に思いきり壺で殴られたのだと何故か理解出来ていた。

 純一を壺で殴り倒した音夢がムカムカしながら小石川診療所へと急いでいる。お昼休みの時間を使って抜け出してきたので急いで帰らなくてはならない。それほどあるわけでもないお昼休みを使ってまで出てきたのにはどうしても義兄に伝えたかったからだ。
 公儀御典医、九条玄白。小石川診療所に視察にやってきた彼に直々に声をかけられ、その元でお手伝いをさせて貰うことになったと言うことを。だが、義兄はどうもこのことを喜んでくれてはいないみたいだ。公儀御典医と言えば江戸の医者の中でも頂点に立つ存在。そこでお手伝い出来ると言うことは光栄なこと。そのはずなのに。
「全く……どうして素直に喜んでくれないんだろう……」
 もしかしたら自分が離れていくことがイヤだったのかも、と考える。それは自分にとって都合の良い考えだ。ただ戸惑っていただけか、それともひねくれ者の彼のことだからああいう態度を取ることしか出来なかったのかも知れない。
 何にせよ、ため息が出てしまう。

 昏倒していた純一が意識を取り戻したのはもう夕方になろうかと言う時刻だった。
「あいたたたた……何てことしやがるんだ、あいつ……」
 殴られた頭を手でさすりながら呟く純一。しかしながら自分も悪かったように思う。もう少し上手くやれなかったものか。あれでは音夢と言えども気分を害するだろう。
「全く……こっちの気も知らないで」
 と言うか、それは言えないことだった。彼女は知らないのだ、九条玄白と言う男がどう言う男か。公儀御典医を隠れ蓑に悪事を繰り返す極悪非道の輩だと言うことを。例え、それを言ったところで信じるとも思えなかったが。
 義理とは言え、一応それでも純一は兄だ。妹をそう言う男の元へ行かせる事は出来ようはずがない。しかし、それでもあの妹の嬉しそうな顔を見たら、なにも言えなくなった。言えるはずがなかった。
「……時間がねぇな」
 今日音夢が報告に来たと言うことは近いうち、早ければ明日にでも九条玄白の元へ行くはずだ。その前に奴を仕置きしなければならない。本当ならばもっと下準備に時間をかけるのが彼のやり方だったが、今回ばかりはそうも行かないようだ。
「あいつの手を借りるのは少し癪だが……」
 文句を言っている暇はない。今は行動する時だ。
 すっと立ち上がった純一はとりあえず着替え、すぐに夕闇迫る街中へと飛び出していくのであった。

 相変わらず神出鬼没の杉並堂に出会えたのはすっかり日が暮れてしまってからのことだった。
「随分探したぞ、テメェ」
 例によって気配一つ感じさせることなく後ろに現れた杉並堂を振り返り、思い切り睨み付けて言う純一。
「ふふふ、昨日と言い今日と言いそっちからこの俺を捜してくれるとは光栄だな、同志よ」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。あの仕事、引き受けるぞ。すぐに段取りつけろ」
 相手の胸ぐらを片手で掴み、純一はそう言う。その言葉の端々に焦りと苛立ちが自分でも感じ取れるが、それに構っている余裕はなかった。今は一刻を争う時なのだ。
「随分と急だな。どうやら心配した通りになったか」
「金は全部後でいい。奴は何処にいる?」
「少し落ち着け。そのように頭に血を上らせていては仕事をしくじるぞ」
 冷静な声で杉並堂は言い、自分を掴んでいる純一の手を振り払った。それから自分の服の襟を正すと、純一をチラリと見やって小さく嘆息した。
「全く妹のこととなるとすぐにそうだな、お前は。少し頭を冷やした方がいいんじゃないか?」
 呆れたような口調の杉並堂を純一は睨み付けて黙らせる。もし視線だけで人が殺せるなら、今確実に彼の視線は杉並堂を殺していただろう。
「わかった、わかったよ。九条玄白の現在の居場所だな?」
「出来れば段取りをつけてくれ。奴は今夜中に仕置きする」
「それ相応の報酬はいただくぞ?」
「いくらでもやるから早くしてくれ」
「では半刻程待ってくれ。用意が出来たら……そうだな、お前の店に行くことにしよう。それまでにもう少し頭を冷やしておいてくれよ」
 そう言って杉並堂が去っていくのを純一は黙って見送っていた。
 確かに杉並堂の言う通りだった。少し頭を冷やした方がいい。でなければ肝心な時に手痛いミスをしてしまう。仕置人に失敗は許されない。失敗はすなわち死に繋がることなのだ。
 純一は歩きながら冷静になろうと努めた。仕置人に必要なものは悪に対する怒りと冷静な心、余計な感情は必要ない。少なくても仕置きに臨む今は。
 
 きっかり半刻後に届けられた杉並堂からの投げ文によると九条玄白は今夜はとある高級料亭でお泊まりするらしいとのことだった。勿論ただ泊まるだけではないだろう。自分の情婦を連れ込んでいるか何かしているに違いない。
 苛立たしげに純一はその料亭へと向かう足を速める。連れ込まれているのがもしかしたら義妹ではないかという不安がどうしても頭から離れない。冷静になろうとすればする程、その不安が膨れあがる。その不安が今の彼を突き動かしていた。
 目的の料亭の前まで来た純一はそこで一旦立ち止まった。中を伺いつつ、心を落ち着かせようと努力する。だが、なかなか上手く行かなかった。心の中に焦りと不安を抱えながら純一は料亭の門をくぐる。そのまま中には入らず、塀を伝うようにして奥へと向かった。
 杉並堂の調べによれば九条玄白はこの料亭の奥の方にある離れ座敷にいるらしい。母屋部分からは少し離れており、渡り廊下を通っていかなければ辿り着けない。出来る限り人目に付かない為に純一は中に入らず、大きく外を回って中庭づたいにその離れへと向かうことを選んだのだ。渡り廊下のところまで来た彼は周囲を見回し、誰もいないことを確認すると渡り廊下に沿って離れに近付いていった。
 離れのすぐそばまで来た純一はそっと聞き耳を立ててみた。もし中に音夢がいるなら声を聞き違えるはずはない。しかし、中から声は聞こえてこなかった。誰もいないのかと疑問に思った純一は音を立てないように障子戸のそばに歩み寄り、人差し指で穴を開けて中を覗いてみた。
 座敷の中では一人の男が不機嫌そうに酒を飲んでいた。他には誰もいない。おそらくこの男が九条玄白なのだろう。一人しかいないのは情婦に振られたか、それともまだ来ていないだけなのか。どちらにしろ一人しかいないのなら好都合だ。
「……すいません」
 そっと中に向かって声をかける。
「公儀御典医の九条玄白様でいらっしゃいますか?」
「……確かに儂が九条玄白だが、何か用か?」
 中にいる男が声のした方、純一のいる方を向いた。
 一応念のためと思って声をかけてみたが、どうやら間違いはなかったようだ。後はこの男を仕置きするだけ。そう思いつつ、着物の袖から細長い棒状のものを取り出す。和菓子作りに使う木製のへらだ。そのへらを器用に隠し持ち、純一は障子戸を開けた。
「おくつろぎのところ申し訳ありません。急病人が出ましたので診て貰いたいのですが」
 この料亭の従業員の振りをしながらそう言い、相手との距離を測る。確実に、一撃で仕留めなければならない。ここで逃がすわけには行かないのだ。
「……儂は御典医だぞ。そのようなことは出来ん」
 不機嫌そうに玄白が答える。自分が相手にするのは将軍家やそれに連なる人のみ、一般市民など相手に出来ないと言うことらしい。
「そこを曲げてお願いします。ご高名な玄白様に見ていただければ……」
「出来んと言ったら出来ん! 何処か別の医者を呼べばいい!」
 そう言って出て行けとばかりに手を振る玄白を見ながら純一は座敷の中に入り、後ろ手に障子戸を閉めた。そして、また杯に酒を注ぎ込もうとしている玄白に素早く飛びかかる。玄白の身体を畳の上に押し倒し、その上に乗ってから隠し持っていたへらを振り上げる。
「な、何を……」
 いきなり畳の上に押し倒され、更にその上に乗られて身動きすることを封じられた玄白は訳がわからないと言う風にそう言い、必死に逃げようともがいた。だが、それを許す純一ではない。
「悪いが死んで貰う」
 そう言って純一は玄白の首にへらを押し当てた。ぐいっとへらを強く押し当てると中に仕込まれていた刃が飛びだし、玄白の首筋に食い込んだ。
「ひっ!?」
 自分の首筋に食い込んだ冷たい刃の感触がわかったのか玄白が息を呑んだのがわかった。
「な、何故だ!? 何故儂を……」
 必死にそう言う玄白だが、純一は何も言わずにただ冷たい目で彼を見下ろすのみ。玄白が時間稼ぎをしているのは明白だった。上手く時間を引き延ばせば誰かが来るはず。そうなればきっと自分は助かると思っているのだろう。
 だが、そうはいかない。こいつを生かしておけば更なる被害者が、泣く人が増える。こいつは生かしておいても何の役にも立たない、むしろ殺してしまう方が世の為人の為。
「貴様、一体!?」
「……仕置人だ」
 純一は容赦なくへらを引いた。玄白の首筋に食い込んでいた刃がそのまま彼の頸動脈を切り裂いていく。大量の血が切り裂かれた玄白の首筋から吹き出す。
 その血を浴びないよう注意しながら純一は立ち上がり、その離れ座敷から出ていく。もはやここに用はない。一刻も早くこの場から立ち去るのだ。

 自分の店に戻る途中にある井戸のところで立ち止まった純一は水をくみ上げ、九条玄白の血に塗れた手とへらを洗い出した。この血に塗れたままの手で店に帰りたくはない。仕置人としての仕事をした後は何となくではあるが、そう言う気分になる。いつの間にかこれは習慣のようになってしまっていた。
「……首尾は上々のようだな?」
 いきなり後ろから声をかけられた純一は洗っていたへらを構えて振り返り、振り返ると同時に声の主に飛びかかっていった。そしてへらを相手の首筋に突きつける。ほとんど一瞬の出来事。へらを突きつけられた方は身動き一つすることが出来なかった程だ。
「……何だ、お前か」
 声をかけてきたのが杉並堂だと知り、純一は表情を和らげると突きつけていたへらを降ろした。
「気をつけろよ。仕置きの後は気が高ぶっているんだ、下手をすれば命はないぜ」
 ニヤリと笑ってそう言い、またへらを洗うべく彼に背を向ける。
「次からは気をつけるさ。さて、仕事料だが」
 へらを洗っている純一の背を見ながら杉並堂は懐から包みを取り出し、井戸の枠においた。そして包みを広げるとそこには小判の山。相手が公儀御典医という大物だっただけにその仕置き料はかなり高額だったようだ。
「前金後金全て併せて100両。そこから俺の手数料を引かせて貰う」
 そう言いながら25両ずつ封印された山を二つ掴み取り、袖にしまう。
「半分も取っていくのかよ」
 咎めるようにそう言う純一だが、杉並堂はそんな彼にニタリとした笑みを向ける。
「言ったはずだ。俺は高いとな。それに全ての段取りはつけておいた。奴が離れにいたのも、そこに誰も来ていなかったのも俺が手を回してやったお陰だ。これでも安いぐらいだぞ」
「感謝しろってか?」
「そこまでは言わんさ。最終的に奴を仕置きするのはお前だからな。俺はその為の下準備をしたに過ぎん」
「それで半分持っていくんだから世話無いな」
「情報集めというのにも金がかかるものなのだよ、同志。さて、それではそろそろ帰るとしよう」
「今度はすぐに別の仕置きとか持ってくるんじゃねぇぞ」
「さてな。そればっかりは約束出来ん」
 杉並堂がそう言いながら夜の闇の中に消えていく。
 その後ろ姿を苦々しげな表情を浮かべて見送り、純一も残された金を懐にしまい歩き出した。とりあえずこれで心配事の種は完全に消えた。喜んでいた義妹には少し悪いことをしたような気もするが、それでもあの男に弄ばれることを考えるならこれでいいのだろう。何と言っても大事な妹なのだから。

 翌日の昼過ぎ。
 例によって純一が惰眠を貪っていると、ばたばたばたと誰かが上がってくるような音が聞こえてきた。それが誰か、などと考えることもない。こうやってここに勝手に上がってくる人物は一人しかいない。それが強盗でもなければ、の話だが。
「もう、また寝てるんだから!」
 ちょっとムッとしたように寝ている純一を見下ろし、まだこの部屋に転がっている壺をそっと拾い上げる。いつものようにこれを眠っている純一の無防備な腹の上に落として起こすつもりのようだ。
「ふふふ、兄さぁん、起きないとまた行きますよぉ〜」
 ちょっと楽しそうにそう言い、壺を純一の腹の上に持っていく。そしてぱっと手を放す。勿論壺は重力に従って落下、つまりは純一の腹の上に落ちる。
「ぐはぁっ!」
 いきなり腹部に物凄い衝撃を受けた純一が身体を九の字に折り曲げながら、身を起こした。そして涙目になりながら壺を落とした張本人、義妹の音夢を睨み付ける。
「お、お前、なんちゅう事を……」
「兄さん、もうお昼です。いつも言ってますけどちゃんと起きてください」
 ニコニコと笑みを浮かべながら音夢がそう言う。全く悪いとは思っていないらしい。
「起こすなら起こすでもうちょっと優しい方法というものがあるだろう……」
 何となく音夢の笑顔に不気味なものを感じながらも、とりあえずはそう言ってみる純一。どうせ聞き入れてはもらえないだろうとは思いつつ。例え聞き入れてくれてもきっとこっちが寝坊したら確実にまたやられるだろう。
「起きない兄さんが悪いんです」
「お前、今日はいきなりだったじゃねぇか」
「それより聞いてください、兄さん」
 まだ何か恨み言を言いたげな純一の前にちょこんと正座して少し真剣な表情を浮かべる音夢。
「どうしたんだよ? かったりぃことなら勘弁だぞ」
 何があったか見当がつかないでもない。だが、聞かないわけにはいかないだろう。だから、欠伸を噛み殺しつつ、いつも様にかったるそうに聞く事にする。
「ほら、今度お手伝いに行くことになっていた九条玄白先生、何か昨日の夜のうちに急にお亡くなりになったんだって」
「……はぁ? どう言うことだよ?」
「私も詳しいことはまだ知らないんだけど、心の病で急死だって。これでお手伝いの話は無し」
 少し残念そうに音夢が言う。
 結局はそう言うことになったか、と純一は義妹の残念そうな顔を見ながら思う。あの殺し方をどう見ればそう言うことになるのかわからないが、杉並堂の言った通り頼み人の方から手が回り病死と言うことで片づいてしまったようだ。それに公儀御典医が料亭の離れで殺されたなど公表しようものなら公儀の威信に関わることになる。その為にこの一件は病死と言うことで片付け、真相は闇に葬られることになったのだろう。
「でも兄さんのそばに今までと同じでいられるからその方がいいかな?」
 そう言って音夢は純一の顔をじっと見つめる。
「……どう言う意味だよ?」
「だって、昨日この話した時、兄さんあまり嬉しそうじゃなかったでしょ。多分私が手の届かないところに行っちゃうのが寂しいんだろうなぁと思ってたから。それに兄さん、一人にしておくといつか飢え死にするんじゃないかって心配もあるし」
 訝しげな純一にそう答えて音夢は微笑んだ。
「へっ、よく言うぜ。お前の方が俺から離れられないだけだろ。お前は一見気丈そうに見えて、その実泣き虫で寂しがり屋だからな」
 自分を見つめる音夢から顔を背けながら純一が毒づく。多分ではなくきっと自分は赤くなっているに違いない。その顔を義妹には見られたくなかった。
「兄さん……」
 何か険悪な雰囲気を感じる。どうやら義妹は先ほどの純一の言葉に少し感情を害したようだ。恐る恐る振り返ると音夢はまた壺を振り上げようとしていた。
「ま、待て! お前それで何をする気だっ!!」
「少し頭を打った方が素直になれるかも知れませんよ、兄さん」
 顔は笑顔、だが物凄く怖い。こめかみに青筋たてた笑顔をしないでください、我が妹よ。そう思いながら後ずさる純一。
「怪我したら私が心を込めて看病してあげますからね〜」
「その前に怪我をさせるな〜!!」
 お昼過ぎの朝倉堂に店の主である純一の悲鳴と何かで彼を殴ったような音が響くのはそのすぐ後のことであった。















晴らせぬ恨みを晴らし

許せぬ悪を消す

いずれも人知れず

仕掛けて仕損じ無し

人呼んで仕置人

ただし、この稼業

江戸職業づくしには載っていない
     

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