――……けて
 声が聞こえてくる。
 周りを見回しても姿はない。ただ、何処からともなく声だけが聞こえてくる。
――……すけて。
 その声を聞いていると、胸が締め付けられてくる。
 何故だろうか。早くこの声の主を見つけなければと言う思いが強くなってくる。
――……ん、助けて。
 助けを求める声。しかもこの声には聞き覚えがある。
 早く、早く見つけなければ。焦りだけが心の中で先行するが、周りをどれだけ見回しても誰の姿を見えない。声だけが聞こえてくるだけだ。
 聞き覚えのある声……一体誰の声だ?
 とても懐かしい声。わかるのはその程度。だが、それだけでも充分以上に胸が締め付けられる。
 一刻も早く声の主を見つけ出さなければならない。助けを求めているのだ。どう言った理由かはわからないが、とにかく自分に助けを求めているのだから助けなければならない。何と言っても自分はリーダーなのだから。
(リーダーだから助ける……? いや、違う。こいつは私が助けなきゃならないんだ!)
 不意に湧き上がった違和感、だがそれもすぐに消える。同時に声の主に心当たりが出来た。
――助けて……っちゃん……。
(ああ、助けてやるさ! お前が私に助けてって言うのなら、手をさしのべる! 絶対にな!)
 しかし、どれだけ探しても声の主は見つからない。周囲を見回しても誰の姿もない。それどころか段々と靄のようなものが出てきており、周りが見え辛くなってきている。
 それを見て、急がなければならないと言う気がしてきた。何故だかはわからない。だが、この靄が全てを包み込んでしまうと、全てが手遅れになってしまう。そう言う気がしてきたのだ。
(何処だ? 何処にいるんだ?)
 周囲を包み込もうとする靄を掻き分けるようにして走り出す。周りを飲み込むように靄はその濃さを増している。その為視界はろくに利かない。それでも止まる訳にはいかなかった。
――助けて……りっちゃん!
 声がはっきり聞こえた。同時に靄の一部が晴れて、地面に座り膝を抱えて泣いている少女の姿が見えてくる。
(……唯っ!)
 少女に向かって必死に手を伸ばそうとする。
 泣いている少女も気付いたらしい、顔を上げて自分に向かって伸ばされた手に自分の手を挙げて掴もうとした。
(唯ッ!!)
 後少し、本当に後ちょっとで手と手が触れ合える。しかし、少女の手を掴む事は叶わなかった。突然、少女の足下が崩れ、その下にある深く濃い闇の中に少女の身体が投げ出されてしまったからだ。
――りっちゃん……。
 呆然とした面持ちでこちらを見上げたまま、少女は闇の中へと吸い込まれるように落ちていく。
 それをただ見ていることしか出来ない。必死に手を差し伸べてももう届かない。声を限りに呼びかけても聞こえる事はなく、返事も返ってこない。
(唯……唯ぃぃぃっ!!)
 出来るのは絶望に震えながら叫ぶ事だけ。何も出来ない自分の無力さに泣き喚く事だけだった。

「唯っ!!」
 現在行方不明の親友の名前を呼びながら田井中律はがばっと跳ね起きた。そして、何があったのか自分でも理解出来ないように少しの間、呆然と佇んでしまう。
「……また……あの夢か」
 そう呟くと律は額に掌を押し当てた。
 月に一度は必ず見てしまうあの夢。その中では行方不明の親友が自分に助けを求めている。だが、一度として彼女の手を取る事は出来なかった。いつも手を取る寸前で彼女は闇の中へと落ちていってしまう。それを自分は泣き喚きながら見ている事しか出来ないのだ。
「……くそっ……」
 知らない内に涙がこぼれ落ちている。額に押し当てていた手でごしごしとその涙を拭うと律はベッドから降りた。立ち上がり、大きく体を伸ばすとパジャマ代わりに着ているTシャツが背中に貼り付く感触。かなり汗をかいてしまっているらしい。
 チラリと時計を見ると朝の七時を少し過ぎたところ。今日は何もない完全なオフなので、寝直そうかとも思ったが大量の汗をかいていて少々気持ち悪いのと先程の夢見の悪さを思い出し、二度寝をしようという気分はあっと言う間に消え失せてしまう。
 とりあえずシャワーでも浴びてさっぱりしてから、朝食にでもしようか。そう考えて律は壁際にかかっているハンガーからタオルを取り、ユニットバスへと向かうのだった。

 現在人気急上昇中のバンド”A.S.T.T.”のリーダーである律が住んでいるのは都内にある小さなアパートだ。今をときめく人気バンドのドラム担当の彼女の稼ぎならばもっといいところにも住めるのだが、それをしないのには理由がある。
「ふぃ〜」
 シャワーを浴び終え、さっぱりとした表情の律は下着姿のまま部屋に戻ってくると、すぐさま台所に向かい、冷蔵庫を開けた。中に入っているものを確認してから、まず彼女が手に取ったのは紙パック入りの牛乳だった。封が切られているのは既に飲んだ事があるから。ちなみに何故牛乳かと言えば、”A.S.T.T.”のメンバー中、一番胸が小さい事に理由がある。牛乳を飲んで胸が大きくなるなどと言うのは都市伝説もいいところなのだが、それでもやらずにいられないのは彼女とて女であるからだろう。
 直接紙パックに口を付け、一口牛乳を飲んでから冷蔵庫の中を再確認する。普段から外出する事が多い為、あまり中に食材などは入っていない。ライブなどで日本中あちこちに出掛けなければならないし、へたをすれば一週間や二週間帰って来れない時もある。冷蔵庫の中だとは言え、流石にそれくらい放置していると賞味期限をオーバーするし、腐ってしまうものだってあるから、あまり食材などを溜め込まないようにしているのだ。
「タマゴ……お、ベーコンあるじゃん」
 朝食に使えそうなものを幾つかピックアップして律は冷蔵庫の前から立ち上がった。とりあえず本日の朝食はベーコンエッグにしよう。そう考えながらコンロの前に向かう。
 ささっと手際よくベーコンエッグを作り、フライパンからお皿に移し替えてからパンを焼いていない事を思い出す。すぐさまトースターにパンを二枚程突っ込んで、焼き上がるまでの間に牛乳のパックとベーコンエッグの皿を持って台所から部屋の方へと移動した。
 あまり広くない、と言うかどっちかと言えば狭い部屋だ。ベッドが部屋の三割程度を埋めているし、すぐ横に置いてあるテーブルの向こう側にはこの部屋にしては大きめのテレビがドンと置かれてある。丁度ベッドに横になりながらテレビが見えるような配置だ。おまけに床のあちこちには彼女が脱ぎ散らかした服や自分で買ったものや貰い物のCD、DVDなどが氾濫している。それらを器用によけながらテーブルの上にベーコンエッグの皿と牛乳のパックを置く。
「この時間に何やってたっけ……?」
 そう呟きながらテレビの電源を入れると、朝の情報番組が流れていた。特に目新しいニュースや情報などはない。とりあえずの暇つぶしという風にチャンネルを何度か変えているとトースターがパンの焼き上げを知らせてきた。ちょっと焦げ目の付いたパンを手に部屋に戻り、改めてテーブルの前に腰を下ろす。
 パンと一緒に持ってきたマーガリンをパンに塗り、むしゃむしゃと食べながらテレビの情報番組を見る。特に面白いものはない。これなら貰い物のDVDでも見た方がマシかと思って、床の上に散らばっているDVDに手を伸ばす。
 何かいいものがないかと大量にあるDVDをまさぐっていると、唐突にテレビの音声が耳に入ってきた。
『それでは<セレスティアスシティ>の中沢さ〜ん』
『はい、こちら地球上でもっとも未来に近い街<セレスティアスシティ>の中沢で〜す! 今日はこの地球上でもっとも未来に近い街における都市伝説について聞いて回りたいと思いま〜す』
 律が反応したのは<セレスティアスシティ>と言う今度のライブを行う予定の海上都市の名前だ。ライブの予定は11月27日なのでまだ結構先だが、その日を入れて一週間程の滞在を許されている。最近人気急上昇中で所属事務所でも一番の売れっ子になった彼女達に対するご褒美旅行のようなものだ。
 それに<セレスティアスシティ>と言えばテレビの中でレポーターが言っていた通り、この地球上でもっとも未来に近い街と呼ばれている。最先端科学の粋を集めて作られた科学の申し子的な海上都市に都市伝説などと言うオカルトが存在すると言うことが律の興味を引いた。
『都市伝説ッスか……そうですね〜。何か狼みたいなのの遠吠えが街のど真ん中で聞こえてくるとか言うのもありますけど、今一番噂になっているのは骸骨の怪人ですかね』
『骸骨の怪人、ですか?』
『ええ。何でも何処からともなく現れて、それを見た人は何かしらの不幸に必ずあうって。結構有名ッスよ。俺、まだ見た事ないッスけど』
 画面の中では少し軽薄そうな学生がレポーターからインタビューを受けている。
(何つーか、澪が聞いたら恐がりそうな話だな)
 パンをかじりながら律はそんな事を思った。
 律の幼馴染みにして最大の相棒、親友たる秋山 澪は落ちついた雰囲気とその見た目から”A.S.T.T.”の中でも随一の人気を誇る。しかし、当の本人は極度の恥ずかしがり屋で且つかなりの恐がりでもある。そのギャップがいいと言うファンも実際のところ少なくはないのだが。
 その彼女、恐がりなだけにちょっとした怪我で血が流れるのを見るのもダメ、怪談話などもまったくダメ、お化け屋敷などもってのほかで今テレビでやっているような怪談じみた都市伝説などと言うのはもう完全にダメな部類にはいる。
 見た目は落ち着いた美人である澪にこうした話をして怖がらせたりからかったりするのが結構好きな悪戯好きの律としてはこの話は覚えておくに値する話であった。
『えー、その噂の骸骨の怪人なのですがインターネットに画像がアップされているそうで……あ、これですね』
 テレビの中ではレポーターがパソコンの画面に何かの写真を写しだしていた。いや、写真ではなく動画のようだ。あまり写りはよくないが、確かに黒いコートを着た骸骨が黒いバイクに乗って高速道路と思われる道を疾走しているのが見えた。周りの事など何も考えていないその走りの為、次々と事故が起こっている。この動画を撮影していた人物もその事故に巻き込まれ、画像はそれで途切れてしまった。
「これって……誰かのコスプレじゃないのか?」
 そう呟くと、律はテレビの電源を切った。何と言うか一気に馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。とりあえず話だけは覚えておき、<セレスティアスシティ>にいく飛行機の中ででも澪に話してやろう。そんな事を考えながら残りのベーコンエッグとパンを一気に口の中に放り込み、牛乳で流し込んだ。
 時計を見ると十時を少し過ぎている。ちょっとのんびりし過ぎたようだ。そう思いながら律は立ち上がり、床の上に散らばっていたジーパンを拾い上げた。それをはいてからあまり大きくない衣装タンスからシャツを引っ張り出し、それを着る。とりあえず外出出来る格好になってから、軽く化粧を施し、部屋の片隅に投げ出してあったデイパックを手に取った。
「さてと、それじゃいきますか、ギー太さん」
 狭い部屋の中を通り抜けて玄関先まで行き、そこに立てかけられているギターに向かってニヤリと笑いながら声をかける律。
 ドラム担当の彼女がこのギターを弾けるはずがない。弾いた事だって一度もない。それなのに何故彼女がギターを持っているのか。このギターは彼女の親友、今は姉妹共々行方不明になっているその親友が愛用していたものだ。わざわざ頼み込んでこのギターを預けさせて貰ったのは行方不明の親友が帰ってきた時に、自らの手で彼女に返す為。必ず彼女は帰って来ると信じて、それまでの間、律が預かり、管理しているのだ。
 デイパックを胸の方に、背中にギターケースを背負った律は部屋を出るとアパートの駐輪場に止めてある自転車に歩み寄った。鍵を外し、自転車をこぎ出す。

 最寄り駅の前にある銀行に寄ってある程度まとまったお金をおろした後、律はそこから更に自転車で二駅程先の繁華街へと向かう。そこにある小さな喫茶店に入ると、窓際の席に腰を下ろした。背負っていたギターは邪魔にならないように奥の椅子の上に載せて、だ。
 注文を取りに来たウェイトレスにアイスコーヒーを頼んで、デイパックの中から読みかけの雑誌を取りだしてテーブルの上に開いた。ぺらぺらとページをめくりながら読むともなしに雑誌を読んでいると、新たに喫茶店に入ってきたスーツ姿の男が律の座っているテーブルのすぐ側にまでやって来た。
「すいません、お待たせしましたか?」
 男はそう言うと、律の許可も取らずに彼女の正面の椅子に腰を下ろす。それを見ていた律は何も言わずに広げていた雑誌を閉じ、真剣な顔をして男と向き合った。
「いえ。それよりも」
「ああ、そうですね。これが今回の調査報告書になります」
 そう言って男が持っていた鞄から数枚のレポートを取り出し、律に手渡した。受け取ったレポートに素早く目を通す律。その表情が期待に満ちたものからすぐに落胆したものへと変わる。
「申し訳ありません、今回もご期待には添えませんでした」
 心底申し訳なさそうに男がそう言うので律はレポートから顔を上げて、笑みを浮かべてみせる。
「ああ、いや、別に構いませんよ。そう簡単に見つかるとは思ってないし……」
 そう言って力無く律は笑う。
 今、彼女の正面に座っているスーツ姿の男は探偵だ。実は親友の姉妹が行方不明になってから律は様々な伝手を使ってずっと姉妹を捜し続けているのだ。この探偵もその内の一つで、人伝いにかなり優秀と聞いて例の姉妹に関する情報をずっと調べて貰っている。それにかかる費用も馬鹿にならない為、律は”A.S.T.T.”の活動などで入ったギャラの大半を注ぎ込んでいるのだ。そのお陰で彼女は”A.S.T.T.”が売れているにも関わらず貧相な生活を強いられている。もっともそれは半分以上彼女自身が望んでやっている事なので、あまり気にしていないのだが。
「あ、これ。今回の調査料です」
 そう言って律はデイパックの中から先程銀行でおろしたお金の入った封筒を取り出し、それを男の方に差し出した。
「ありがとうございます。それで……継続しますか?」
 封筒と受け取った男がそう尋ねてきたので、律は何も言わずに頷く。例えどれだけ可能性が低くても、彼女に出来る事は他にはない。それに彼女自身、そこそこ忙しい為自分で動く事が出来ないのだから。
「わかりました。これからも鋭意努力させて頂きます」
 男は律に向かって一礼すると、すぐに立ち上がって喫茶店から出ていった。二人が会っていた時間はわずか十分程。律が注文したアイスコーヒーもまだ来ていない。とりあえず律はさっきの男が置いていったレポートを読みながらコーヒーが来るのを待つのであった。

 時刻は午後十二時を少し回ったぐらい。先程までいた喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ後、少し早いと思ったが軽くサンドイッチなどを注文した為、お腹はそれほど減っていない。さりとてアパートに帰っても特にやる事もなかったので律は自転車を気ままに走らせていた。
 気分転換も兼ねて何も考えずに自転車を走らせていると、いつの間にか見た事のある住宅街へとやって来ていた。
「……随分遠くにまで来ちゃったな……」
 そう呟いてから律は一旦自転車を止める。ここから何処へ向かうべきか、それを少し考えてから再び自転車をこぎ出した。まず彼女が向かったのは少し離れたところにある女子校。
 校門の前で自転車を止め、懐かしそうに校舎を見上げる。この高校は律達”A.S.T.T.”の前身であるバンド”放課後ティータイム”のメンバーが初めて出会った場所だ。ここで過ごしていた頃が一番輝いていた、楽しかったのだと思わないでもない。大学に進学しても同じメンバーでバンド活動を続けていたものの、そこで二人のメンバーを失ってしまったのだから。
 今のメンバーが悪い訳でもあの頃のメンバーと比べて劣っているという訳でもない。だが、何かが違うという気がしてならないのだ。”A.S.T.T.”としてメジャーデビューを果たした今でもそれは変わらない。
「やれやれ、だな」
 小さくため息をつき、律は自転車をこぎ出した。学校を離れ、次に向かったのは住宅街の真っ只中。その内の一軒の家が目的地だった。
 目的の家は高校からさほど遠くはない。歩いて充分通える範囲にあるから自転車ならすぐだ。平日のお昼過ぎという、あまり人のいない時間帯なので律のこぐ自転車は警戒に住宅街の中を駆け抜けていく。五分程で目的の家が見えてきた。同時にその家の前でぼんやりと立ち尽くしている一人の女性の姿も目にはいる。
「よっ! 何やってるんだ?」
 自転車を女性のすぐ後ろに止め、気軽そうに声をかける律。相手の方は気がついていなかったようで、突然声をかけられ驚いたように振り返ってきた。そして声をかけてきたのが律だと知ると安心したかのように胸を撫で下ろしている。
「誰かと思ったら……律先輩ですか。こんなところで何やってるんですか?」
「それはこっちのセリフだよ、梓。まぁ、私は見てのとおり自転車で散歩中」
 ニコリと笑ってそう言い、律は自転車のハンドルをポンと手で叩いてみせた。それに対して声をかけられた方の女性――中野 梓は訝しげな表情を返してみせる。
「散歩ですか? わざわざこんなところまで? それに……ギー太まで背負って?」
 矢継ぎ早の質問に律は苦笑を浮かべてしまう。
「まぁ、散歩ってのはあれだな。ここに来たのは偶々だったし。ギー太については出掛ける時はいつも一緒だよ」
 とりあえず梓の質問に全て答えてから、律は自転車から降りた。スタンドを立てて、倒れないようにしてから梓の方へと向き直る。
「それで、梓の方こそここで何やってたんだ?」
「私は……」
 律の問いに梓は答えようとして、すっと目の前にある家の方へと目を向けた。同じく律もその家の方へと目を向ける。
 誰も住んでいないのだろう、その家の窓は全て閉め切られていて雨戸もちゃんと閉まっている。全体的に人の住んでいない寒々しさを感じさせるのだが、それでも誰かが定期的に手入れでもしているのか、予想外に綺麗であった。庭の方を覗いてみても雑草一つ生えていない。
「……律先輩、ここ、売りに出されていたの知ってますか?」
 少し互いに沈黙した後、不意に梓がそんな事を言ってきたので律は彼女の顔を見た。
「それがいつの間にか誰かが買い取って管理しているらしいんです。前にここに来た時に管理しているっぽい人に会いました」
「……ふうん」
 梓が何を言いたいのかイマイチわからず、律はあまり興味なさそうに相づちを打つ。それからまた家の方に目を向けた。
 梓の話が本当ならば、この家が誰も住んでいないにもかかわらず妙な程綺麗な理由が理解出来る。だが、わからないこともあった。一体何処の誰が何の為そんな事をやっているのか、まるでわからないと言う事だ。誰もいない家、住んでいる様子はないのに掃除などの管理だけはしっかりと為されている。その行為に一体何の得があると言うのだろうか。
「話は聞けませんでしたが……多分ムギ先輩の差し金なんじゃないかって気がします」
 梓の口から出た名前に律はああ、そうかと納得した。かつて”放課後ティータイム”としてバンド活動をしていた頃の仲間の一人、琴吹 紬。通称ムギ。世界的大企業の社長を父親に持つお嬢様の彼女ならそれくらい出来てもおかしくはない。それに彼女にはそれをするだけの意味も理由も考えられるからだ。
「……いつでも唯と憂ちゃんが帰ってきてもいいように、か」
 かつてこの家に住んでいた姉妹はある日突然失踪した。今も行方不明で、その生死もわからない。だが、必ず生きていると律も梓も、そしてここにはいない紬もそう信じているのだ。姉妹が帰ってきた時に住む場所がないと困るだろうから、紬が私財を投じてこの家を維持管理し続けているのだろう。
「ムギ先輩も唯先輩と憂の事を今も気にし続けてくれているんですよ」
「わかってるよ、そんな事は」
 少し苛立たしげにそう言って律は顔を背ける。
 紬もまた律達と同じように行方不明になった姉妹の姉、平沢 唯の親友だ。心配していないはずがないし、実際に彼女が姉妹を捜す為に何かやっていると言う事も知っている。だが、それでも少し許せない事が律にはあった。
 唯が妹の憂と共に失踪、行方不明になってから三ヶ月ぐらいが過ぎた頃、突然紬は”放課後ティータイム”を脱退したのだ。誰に相談する訳でもなく、たった一枚の手紙だけを残して。その手紙には実家の家業を継ぐ為に”放課後ティータイム”を脱退するとだけ書かれてあった。謝罪の言葉の一つもない。その事が律の逆鱗に触れたのだ。
 相談がなかったのはまだいい。しかし、せめて一言でも直接言ってくれれば良かった。そして謝罪の言葉もなかったのが、普段の紬を知っているだけに信じられなかったのだ。
 以来律にとって紬の話題は鬼門となっている。同じ”放課後ティータイム”のメンバーで今も”A.S.T.T.”のメンバーとして律を支えている澪や梓もあえて紬の事を話題にはしないでいる。たまに今日のように例外的に話題に上る時もあるのだが。
「この前のライブの時、話しただろ。ムギが唯について何か有力な情報を得たみたいだって」
「……そう言えばそうでしたね」
 律に言われて梓はちょっと前にあったライブの事を思い出す。あの時は三日間連続ライブでその最終日にある女性と出会ったのだ。見た目も着ている服も、雰囲気ですらもまったく違うのに何故か唯を思い出させる女性。その事を梓は他の誰にも話していない。あの女性が何者であるのかを自らの手で突き止めるまで話すつもりもない。そんな事ばかりをあの時は考えていたので律と澪が嬉しそうにそれを話していたのを余りよく覚えていなかった。
「ま、次にムギと何時何処で会えるかなんてわからないけどな。携帯も番号変えちまったみたいだしメールも届かないし」
 そう言うからにはずっと律の携帯の中には紬の携帯の番号が残されていたのだろう。もしかしたら今も残してあるのかも知れない。あれだけいなくなった時には怒っていたのだが、それでも心の何処かでまだ紬の事を信じているのだと梓は思った。
「……今日はオフでしたからね。家にいても暇だったからこうして散歩ついでに様子を見に来たんです」
 突然、話題を変えるかのように梓がそう言ってきたので、一瞬律は何事かと思ってしまったが、すぐに自分が梓にした質問だったと言う事を思い出した。今頃答えるのかよ、と苦笑を浮かべてしまう。
「この後何かあるのか?」
「いえ、別に。ここまで来たから久し振りにさわ子先生の顔でも見に行こうかなと思ってるんですけど」
「ああ、それはやめておいた方がいいぞ。前に澪と一緒に顔出したら『たくさん稼いでるんだから奢りなさい、いやむしろ奢れ』とか言われて、日が変わるまで付き合わされたからな」
 笑いながらそう言う律を見て、梓は何となく想像がついてしまい、思わず苦笑を浮かべてしまった。
「それはやめておいた方が良さそうですね」
「ならこの後何にもないな。ちょっと付き合えよ」
 そう言うと律は梓の返事も聞かずに自転車を押して歩き始めた。
 この後、学校に行って恩師にでも顔を見せようと思っていたが、それをやめてしまうと何もする事がないので梓は仕方なく律の後ろについて歩き出す。
 会話もなく二人して歩いていった先は住宅街の中にある小さな公園だった。中に入った律はベンチの側に自転車を止めると梓を振り返って背負っていたギターケースを下ろし、それを梓に手渡す。
「一曲弾いてくれないか?」
「はい?」
 あまりにも唐突にそう言われ、梓は目を丸くする。付き合えと言うからには何か話でもあるのだろうかと思っていたが、まさかギターで演奏しろなどと言われるとは考えてもいなかった。しかもギターはよりにも寄って行方不明になっている唯の愛用のものだ。律が何を考えているのかまったくわからない。
「あー、いや、いつも梓がこいつをチューニングしたりしていつでも使えるようにしてるのは知ってるんだけどな。たまには弾いてやらないとダメな気がしてさ」
 律がそう言ってばつが悪そうに笑った。
 確かに彼女の言う通り、このギターを唯が返ってきた時にいつでも使えるように梓が丁寧に調整している。だが、調整しているだけで実際に弾いた事は一度もない。何となくだが、これは唯のものだという意識が梓の中で強く存在しており、その為に遠慮してしまっているのだろう。
 その一方で律が続けて言ったようにたまには弾いてやらなければいけないのだろうとも思う。楽器と言うものはそんなものだ。
 受け取ったギターケースの中からギターを取り出す。ギブソン・レスポール。小柄な梓からすれば大きく、そして重い。使っていた張本人の唯ですらもこのギターを重いと言っていたのだから、彼女よりも小さい梓にとってこのギターを持って演奏する事は容易い事ではない。
 ベンチに腰を下ろした律の隣に座り、梓は軽くチューニングを始めた。チューナーを持ってきていなかったので完璧な調整は出来ない。そもそもこのギターの持ち主である唯が絶対音感の持ち主でチューナーいらずだった事からギターケースの中にもそう言ったものは入っていないのだ。
「それで、何を弾きましょうか?」
 リクエストがあるなら聞きますよ、と言う風に梓が尋ねるが、律は空を見上げたまま何も答えなかった。これが好きに弾いていいと言う事なのだろうと勝手に解釈し、梓は二、三度弦を弾いて音を出してから、ある曲を弾き始めた。
「君を見てると♪」
 律は相変わらず空を見上げたまま、何も言わない。無言のまま、隣で梓の弾いている曲を聴いていた。普段はコーラスしかしない梓が珍しく歌っている。その事も特に指摘しない。
 梓が歌いながら弾いているのは”放課後ティータイム”の代表曲である”ふわふわ時間”だ。”A.S.T.T.”結成時に”放課後ティータイム”の名前と共に封印した曲。何故梓がこの曲を選んだのかはわからなかったが、おそらく昔を懐かしんでの事だろう。唯の家の前で会ったのも、そこで紬の話題が出たのもそれに拍車をかけているのかも知れない。
 やがて一曲歌い終わった梓は小さく息を吐き出してから律の方を見た。やはり彼女はじっと空を見上げている。
「……なぁ、梓」
「何ですか?」
 何処かしんみりとした口調の律に違和感を感じ、梓が彼女の顔を覗き込む。
「唯も憂ちゃんもさ……きっとこの空の下の何処かで生きてるよな」
 梓には何故律がいきなりこんな事を言い出したのかわからなかった。まさかこの日の朝に律が見た夢に起因するとは思いも寄らない事で、そんな事想像のしようもない。だが、律が唯達平沢姉妹の事を非常に気にかけているのだと言うことはわかる。
「生きてますよ。唯先輩も憂も。絶対に」
 力強く頷きながら梓は言う。それは律の言葉に同意していると言うよりも、むしろ自分に言い聞かせているという風でもあった。事実、梓は自分に言い聞かせているのだろう。
 平沢姉妹が行方不明になってからもう五年が経つ。その間、二人からの連絡は勿論一度もない。生きているのか死んでいるのか、一切不明。姉妹の両親ですらその生存と帰還を諦めかけている中、姉妹と親しかった梓や律は勿論、ここにはいない澪や紬も二人が生きている事、必ず帰ってくると言う事を信じている。
「……梓、もう一曲」
「わかりました」
 梓が再びギターを弾き始める。今度は律は目を閉じて、その曲に聞き入った。

 地球上でもっとも未来に近い街<セレスティアスシティ>の人工島の一つ<アイランド5>にあるセレスティアスシティポリス本部ビル。四十階建てのそのビルの三十六階にある小さなオフィスの中に真鍋 和の姿があった。
 彼女は日本の警視庁からICPOに出向になり、そこから更にこのセレスティアスシティポリスへと配属されたのだ。今、彼女がいるのは彼女に与えられたオフィスである。おそらく今まで誰も使っていなかったのだろうこのオフィスに真新しい机が運び込まれており、その上には和の私物であるノートパソコンが置かれている。
「骸骨の怪人……ねぇ」
 和はそのパソコンを使ってある事を調べていた。この海上都市にやってきた日の晩に見た髑髏の仮面を被った謎の女性の事を、だ。その女性を目撃する直前に同じこのセレスティアスシティポリスに勤めるウィリアム=ノートン巡査部長からそんな都市伝説を聞かされていたので、気になって検索しているのだ。
「どれもこれも同じ様なものばかりね……当たり前だろうけど」
 ネットを使って検索してみても出てくるのはノートンから聞いたのと同じ様な話ばかり。特に目新しいものは出てこない。中には画像や映像などもあったが、どれもあまり信憑性の高そうなものではないと和には思えた。
「これって何処かの馬鹿が面白がってコスプレした奴よね……」
 新たに画面に現れた画像を見て、和は呆れたようにため息をついた。
「見たら不幸になるって言うのに何でこんな事してるのかしら?」
 ノートンから聞いた話でもネットで検索した話でも、この骸骨の怪人を見たものは不幸になると言う点は共通している。にも関わらず、わざわざ自分からその格好をするという考えを和は理解出来ない。
 とりあえずこれ以上ネットで検索してみてもあの骸骨の仮面の女性の正体について何の情報も得られそうにない。むしろ時間の無駄だろう。
 椅子の背もたれにもたれかかり、小さくため息をつくと和は机の上に置いてあった缶コーヒーを手に取った。中はもうすっかり冷めてしまっていたが、それに構わず口を付ける。ほとんど甘みのない液体を喉の奥に流し込み、再びノートパソコンに向かう。
 今度検索したのはあの髑髏の仮面を被った女性と戦い、そして殺された虎男の方だ。こちらは骸骨の怪人と違って都市伝説などにはなっていないらしく、先程検索して出てきた<セレスティアスシティ>の都市伝説が載っているサイトでは何も見つからなかった。その為それっぽい言葉――シェイプチェンジャーやライカンスロープ、もしくは獣憑きなど――を色々と並べて検索してみたのだがやはり何も出てこない。出てくるのは小説やゲーム、もしくは映画などのファンタジーものばかりだった。
「こっちも、か……」
 何か見つかるとは正直思っていない。大体あの夜立体駐車場であった事件自体がいつの間にかなかった事にされているのだ。結構規模の大きい爆発が起こったはずなのに、そんなものは何もなかったという風に処理されてしまっている。
「一体どう言う事なのかしら?」
 和が覚えているだけでも爆発は三回起こっている。髑髏の仮面を被った女性が虎男の投げてきた自動車を真っ二つにした時と屋上で戦っている時に二回。周囲には民家などもあったはずなのに誰一人としてその爆発音を聞いてないし、何も知らないと言う。一応事件のあった立体駐車場に行ってみた和だったが、そこは既に取り壊されていて何の痕跡も見つける事が出来なかった。
(一体何だったのかしら、あれは……夢だとはどう考えても思えないんだけど)
 実際にあの事件、髑髏の仮面を被った女性と虎に変化した男の戦いを見ていたのは和だけだ。他に目撃者はいない。いるとすれば当事者である髑髏の仮面を被った女性だけだろう。虎に変化した男は死んでしまってもういないのだから。
 目撃者である和自身も信じられないと思っている事を目撃もしてない他の誰が信じるというのか。故に和はこの事を誰にも話していない。もっともこのセレスティアスシティポリスに来たばかりの彼女にはそう言った事を相談するような相手もいないのだが。
(とりあえずこうやって情報収集していても手詰まりね。またあの女の人と会う事が出来れば何かわかると思うんだけど)
 再びため息をつき、缶コーヒーを手に取るが、中はもう空っぽだった。缶を軽く振ってみて何も聞こえてこないのを確認すると和はその缶を部屋の隅にあるゴミ箱へと放り投げる。綺麗な放物線を描いて缶はゴミ箱の中へと吸い込まれていった。
「ナイスシュート」
 パチパチパチと拍手する音と共にそんな声が聞こえてきたので、和が振り返ってみるとドアのところにノートンが笑みを浮かべながら立っていた。
「何かお暇そうですね、真鍋警部殿」
「まぁね。来たばかりだし、まだ勝手もわからないからこんなものじゃないのかしら?」
 少しからかうようにそう言ってくるノートンに和も軽口でもって答える。確かに彼の言う通り和は暇を持て余していた。とりあえずのオフィスを与えられたものの所属部署がまだ決まっていないからだ。それが如何なる理由によるものなのかは和自身も知らされていないのだが、特に彼女は気にしていなかった。
「噂によると何か新設の部署になるとか言う話ですよ。真鍋警部と後もう一人、ここに配属されるって話で」
「新設の部署ねぇ……まぁ、何でもいいけど。それで、そのもう一人って言うのは何処の誰なの? まさかあなたじゃないわよね?」
 一体何処からそんな話を聞いてくるのやら、と少々呆れながら和はノートンの話に乗った。骸骨の怪人にしろ虎に変化した男にしろ、ネットではもう調べきれないだろう。ならば暇つぶしに彼の話に付き合うのもいいだろうと判断したからだ。
「ああ、いや……生憎と自分は今の仕事で手が一杯でして」
 そう言って苦笑するノートン。
「そう言えばあなたは何処に所属しているのかしら? 私をわざわざ迎えに来てくれたぐらいだし、それに今もここに来ているからさぞかし暇な部署なんでしょうね」
 少し嫌味だったかしら、などと考えながら和がそう言うとノートンは更に苦笑してみせる。
「まぁ、暇って言えば暇ですね。最近大きな事件もありませんので」
 少し誤魔化すように笑いながらそう言うノートンに和も笑みを浮かべてみせた。
「何事もないのが一番ね。私達みたいな職業はこうして暇な方がいいと思うわ」
「まったくです」
 ノートンが肩を竦めながら同意したところで携帯電話の着信音が聞こえてきた。それが”A.S.T.T.”の曲だったので和が目を丸くするが、ノートンはそれには気付かなかったようだ。ポケットの中から携帯電話を取り出し、通話ボタンを押す。
「はい、ノートン……ああ、わかった。すぐにそっちに向かう」
 それだけ言うとノートンは通話を終了させ、携帯電話をポケットに戻した。
「事件のようね?」
「ええ。<アイランド3>で殺人事件だそうです」
 肩を竦めながらノートンはそう言い、和に背を向ける。事件が発生したならばすぐさまその現場に向かわなければならない。刑事の鉄則だ。
「申し訳ありません。これで失礼します」
 そう言って歩き出そうとすると、何故かその隣に和がやってきた。どうしたのだろうと彼女の方に目を向けると、彼女は軽くウインクして見せた。
「手伝うわよ、捜査」
「あ、いや、そう言う訳には」
「別にいいじゃない。どうせ暇なんだし」
 戸惑いの表情を見せるノートンに有無を言わせず、和は彼と共に駐車場に行き、そして彼の車に乗り込んでいく。やれやれと再び肩を竦め、苦笑しつつもノートンは何も言わずに自らも車に乗り込んだ。
 この間注意されたからだろうか、今回はしっかりとシートベルトをし、比較的安全運転でノートンは事件現場のある<アイランド3>へと向かう。走行時間は約二十五分程。それぞれの人工島を結ぶ高速道路を使用し、その上でパトランプとサイレンまで鳴らしたのだから、こんなものなのだろう。その間、車内の二人に会話はなかった。

 <アイランド3>はロシアがメインの出資国となっており、その街並みもどことなくロシアっぽい感じを醸し出している。高速道路を降りた後、そんな街並みを走り抜けて辿り着いた先はひっそりとした倉庫街だった。
 もう少し行けば港が見えてくる、そんな位置にある倉庫街。普段はそれほど人通りもなく静かなこの倉庫街が、今は多くの人で賑わっている。警察関係者以外はほとんどが何か事件があったと言う事を知った野次馬達だったが。
 そんな野次馬達から少し離れたところに車を止め、ノートンと和は現場へと向かって歩き出した。野次馬達を掻き分け、現場保存用のロープの前で立っている警官に身分証を提示してから中に入る。遺体を一般人に見せないよう周囲に張られたブルーのシートをくぐり抜け、中に入っていくとすぐに白い布を被せられた死体が目に入ってきた。
「大丈夫ですか、真鍋警部。結構ひどいって話ですよ」
「こう見えても日本で結構な数の死体を見てきてるわ。心配ご無用よ」
 和を気遣ってだろう、ノートンが声をかけてくるが、当の和はまったく気にせずに白い布をめくり上げる。その下から現れたのは見るも無惨な死体であった。右腕と左足が力任せにねじ切られており、残る左腕、右足も有り得ない方向に何カ所も折れ曲がっている。首に至っては無理矢理何回か回転させられたように物凄くねじ曲げられていた。
「こいつは……何と言うか」
 言葉に表すなら明らかなまでに異妖で異常だ。普通の人間の力でこんな事が出来るとは到底思えない。ゴリラか、それに類する類人猿でかなり大型のものでもなければ無理だろう。いや、それだって可能かどうかは微妙なところだ。
「人間業じゃないな」
 そう言って顔を背けるノートン。
 一方、和はと言えばかなり冷静に死体の観察を行っていた。顔を背けたいのは同じだが、そうしてばかりでは何も得られない。ここはぐっと我慢して、少しでも犯人の手がかりを探そうとする。
(確かに人間の力でこんな事をするのは不可能に近い……でも……あの夜に見たあの獣人なら)
 この海上都市に来たその日の晩、立体駐車場で見かけた虎に変化した男。彼は自動車を軽々と持ち上げ、それを投げつけてみせた。あれだけの力があればこの様な死体を作る事は決して不可能ではないだろう。
 しかし、和は思いついた事を話す気にはなれなかった。一体誰が信じるというのだ、こんな話を。都市伝説にすらなっていない、謎の獣人がこの事件の犯人などと言っても笑われるだけだ。それだけならいいが、下手をすれば頭のおかしい奴だと思われてしまうだろう。
 そんな事を考えながら死体を見ていると、ふとその手が何かを握りしめている事に気がついた。死後硬直で固く握りしめられている指を何とかほどくと、その手の中にあったのは黒い何らかの体毛のようなもの。その何本かを持っていたハンカチに中にそっと挟み込むと同時に背後から野太い怒鳴り声が聞こえてきた。
「コラッ!! 勝手に死体に触るんじゃねぇっ!!」
 怒鳴り声に和がビクッと肩を震わせてから振り返ると、そこには強面の男性が青筋を立てながらじっとこちらを睨み付けているのが目に入ってきた。
「ここは俺たち<アイランド3>分駐署のシマだ! 本店が勝手に出しゃばったりするんじゃねぇっ!!」
 青筋を立てている強面の男がすぐ側にいるノートンに向かって怒鳴り散らしている。その内容からこの男は<アイランド3>にあるセレスティアスティポリスの分駐署の刑事らしい事がわかった。
「まぁまぁ、落ち着きましょうよ、グリシンさん」
「何言ってやがる! お前らがしゃしゃり出て来なきゃあいいだけだろうがよっ!」
 必死に宥めようとするノートンだが、強面の男の怒りは収まらないらしい。より一層ヒートアップしたようにノートンに詰め寄っていく。
 今にもノートンの胸ぐらを掴み上げようとしている強面の男を見て、和は小さくため息をついた。以前ノートンが酒の席で愚痴っていたのはこう言う事なのだろう。”縄張り意識が強く非協力的”。これでは捜査も上手く行かない事が容易に想像出来る。
「申し訳ありませんが、私達は勝手に出しゃばってきた訳ではありません」
 とりあえず本格的にケンカになってしまう前に事を収めようと和は強面の男に声をかけた。
「ああ?」
 ギロリと強面の男が和の方を睨み付ける。
 まるでヤクザだな、などと心の中で思いながらも、和は少しも怯まない。日本にいた頃からこんな事は幾度と無くあったからだ。若い女性だと言うことだけで、少し脅せば言う事を聞くだろうと勝手に思っているような連中を相手にしてきたのだから、今更どうと言う事はない。それに何より相手は国こそ違うが同じ警察官なのだ。本気でこちらに危害を加えようとは思っていないだろう。
「我々は連絡を受けてこの場に来ています。本店だろうと分駐署であろうとそんな事は関係ありません。我々がすべき事はこの事件の一刻も早い解決。縄張りがどうとか言っている暇こそないと思いますが?」
 じっと相手の目を見返しながら和がはっきりと言う。この真っ直ぐな視線に強面の男の方が少し怯んでしまったらしい。うっと押し黙ると、苛立たしげにそっぽを向いてしまう。
「……えっと……一応紹介しておくと、こちらの方が<アイランド3>分駐署のイワン=グリシン巡査長です」
「真鍋 和です。よろしく、グリシン巡査長」
 ちょっと戸惑い気味だったが、ノートンがそう言って強面の男を紹介してくれたので和も自己紹介し、さっと右手を差し出した。だが、グリシンはチラリとその手を見ただけで、舌打ちするだけだった。どうやら印象は初めから最悪だったようで、仲良くする気は更々無いらしい。仕方なく和は出した手を引っ込めた。
「いいか、俺たちの邪魔はするんじゃねぇぞ、お嬢ちゃん。本店の連中はプライドばかり高くてまるで役にたたねぇ奴ばかりだ。捜査は俺たちがやるから黙って見てろ」
 脅すようにそう言い、グリシンはずかずかと大股で去っていく。それを見送りながら和はため息をついた。
「この調子だと大変ね」
「あー、まぁ、そうですね」
 力無く笑いながらノートンも和に同意するのであった。

 その後、追い出されるようにして現場を後にした二人は倉庫街から離れ、港の方へとやってきていた。勿論、この付近にも<アイランド3>分駐署の人間が目撃者探しや聞き込みに来ているが、ノートンはともかくこの海上都市に来たばかりの和の事など誰も知らないので特に止められたりする事もない。
「いやはや、申し訳ありませんね。グリシンさんは自分を特に嫌っているみたいでして……真鍋警部も気分を害されたでしょう?」
 申し訳なさそうにノートンが言うのを聞き流しながら和は無言で歩いている。目的地がある訳でもないので、ただブラブラと歩いているだけだ。
「とりあえず合同捜査本部がすぐに組まれると思うんですが……えっと、聞いてますか?」
「……ああ、ごめんなさい。合同捜査本部か。そこまでは立ち入れないわね、私は」
 殺人事件の捜査はセレスティアスシティポリスの刑事部捜査課の仕事になる。現時点で所属未定の和が勝手に参加する事は出来ないだろう。
「そうですね。申し訳ありませんが」
「それはあなたが謝るような事じゃないわ。今日だって私が勝手についてきただけだし」
 そう言って微笑む和。色々と彼が自分に気を遣ってくれていると言う事がわかっているからだ。例えその根底に下心のようなものが見え隠れしていたとしても、とりあえずは気遣ってくれているのだから、笑顔ぐらいはサービスしてあげるべきだろう。
「でも確かにあの様子じゃ難しそうね」
「まぁ、ここだけじゃなくて他の島でも同じなんですけどね」
 そう言って苦笑するノートン。
 この<セレスティアスシティ>の警察機関セレスティアスシティポリスは<アイランド5>にある本部の他に各<アイランド>に分駐署と呼ばれる出先機関を設けている。そこに勤めている多くがそれぞれの<アイランド>の出資国の出身者だ。その為に未だセレスティアスシティポリス設立以前の悪習が根強く残っている。
 それぞれ自分たちの<アイランド>を縄張りとして、他の<アイランド>で起きた犯罪はほとんど相手にしない。複数の<アイランド>に渡って起きた事件ですら、一応の合同捜査本部が置かれるだけでほとんど協力しあおうとはしないのだ。全ての分駐署を統轄する為のセレスティアスシティポリスの本部なのだが、実際のところやっている事はそれぞれの<アイランド>分駐署の折衝役みたいなものだった。
 更に今回のように事件が起き、本部の者が事件現場のある<アイランド>に捜査の為に向かっても、現地の分駐署は本部の者を厄介者扱いするだけでその捜査に協力しようとはなかなかしないのだ。流石にグリシンのようにあそこまで露骨な態度を取る人間はそう多くはないのだが、やはり本部の人間と分駐署の人間では何処か隔たりがあってしまう。
「苦労しているのね」
「まぁ……真鍋警部もすぐにわかると思いますよ」
 酒の席で愚痴ってしまう程だ、ノートンもかなり苦労しているに違いない。そう思って声をかける和だが、彼は肩を竦めて逆に和の心配をしてきた。
 この海上都市に来たばかりの若い女性警部。ここに根強く蔓延る軋轢の先例をこのエリート警部が耐えられるのか彼には心配なのだろう。
「その時が来たら期待しているわ」
 そう言って再び和は微笑んだ。
 そんな二人の前を一人の船員が通り過ぎていく。体つきはそれほど大きくないが、露出している肌はかなり毛深かった。彼はジロリと和とノートンの方を一瞥すると、そのまま歩き去ってしまう。
「……何なんだ、今のは?」
「さぁ……もしかしてこの<アイランド3>ってよそ者には厳しいのかしら?」
「いえ、そんな事は。まぁ、グリシンさんみたいな人もいるにはいますが、ほとんどの人はそんな事ないですよ」
 何と言ってもここは周りを海に囲まれた海上都市だ。そこまで閉鎖的であってはいざ何かあった時に色々とやっていけないだろう。
 と、そんなところで携帯電話の着信音が聞こえてくる。少し前にも聞いた、和にとっては馴染み深い曲だ。
「はい、ノートンです……はい、わかりました。これから向かいます」
 かけてきた相手にそれだけ言うと、ノートンは和の方を申し訳なさそうに向いた。
「すいません。これから<アイランド3>分駐署で捜査会議があるそうなんで、行かなきゃならなくなりました」
「そう。それじゃ行ってらっしゃい。頑張ってね」
 和から返ってきた返答が予想外にあっさりしたものだったのでノートンは少し拍子抜けしてしまう。わざわざここまでついてきたのだから捜査会議に自分も参加させろと言い出すのではないかと思っていたのだ。もっとも本部所属とは言え、正式な部署にはまだ配属されていない彼女にそんな権利はない。もしついてくる、捜査会議に参加すると言われたらどう断るかを思いついていなかったので、これはある意味彼にとって良かったと言うべき事なのだが、何故か少しがっかりしてしまう。
「どうしたの?」
 何故か戸惑い気味の表情を浮かべているノートンを訝しげに見る和。神様でも何でもない彼女にノートンが何を考えているかなどわかる訳もない。
「ああ、いえ……その、真鍋警部は自分の車で一緒に来ましたよね? 帰りはどうします? 捜査会議がどれくらいかかるかわからないんですけど」
「それなら気にしないで。流石に歩いては帰れないけど、電車なりタクシーなりで戻るから」
 あっさりとそう言う和にノートンは呆然とした表情を浮かべてしまう。彼からすれば和が何を考えているのかわからなかったからだ。
 この<アイランド3>で起きた事件に興味があるのならば捜査会議に参加して何らかの情報を得たいと思うはずだ。にも関わらず彼女は捜査会議に行くつもりはまるで無さそうで、それならば一体どうしてここにやってきたのだろうか。単なる暇つぶしならばいささか趣味が悪すぎる。それに死体を見ていた彼女の目は真剣そのものだった。単に暇つぶしでここに来たのならば、あそこまで真剣な目はしないだろう。
「行かなくていいの? 遅刻したらきっとあのグリシンさんがうるさいわよ」
「あ、そ、そうですね! それでは自分はこれで」
 和に微笑みながらそう言われ、ノートンは慌てて走り出した。確かに彼女の言う通り、ただでさえ自分の事を嫌っているグリシンだ。もし捜査会議に遅刻しようものなら何を言われるかわかったものではない。それを思い出したのだ。
 走り去っていくノートンを見送った後、和は一度周囲をぐるりと見回した。何となくだが、先程から自分を見ている視線を感じているのだ。一体何処の誰がこうして自分を見張っているのか。まだこの海上都市に来て間もない自分が見張られなければならない理由など思いつかない。
(あるとすれば……この間の髑髏仮面と虎男の戦いを見た事ぐらいね)
 唯一思いついたのは<セレスティアスシティ>に来た日の晩に目撃した髑髏仮面と虎男の戦いを見た事ぐらい。しかもあの事件そのものがなかった事にされているのだ。もしかしたらあの一件をなかった事にしたい誰かが唯一の目撃者である和が下手な事を口走らないように見張っているのかも知れない。
(まさかここに来てそうそう、こんな厄介な事に巻き込まれるなんてね……あの髑髏仮面を見たものは不幸になるって言ってたけど、本当にそうなのかも)
 小さくため息をつきながら和は歩き出した。
 その後ろ姿をじっと物陰から見つめている人影があった事に彼女は気付いていない。巧妙に気配を隠し、じっと歩いていく和の背中を見つめ続けている。
「やれやれ、見つからなかったとは言えこっちの気配に気付くなんて……なかなかやるじゃない」
 何故か嬉しそうにそう呟いたのは、一体何者なのだろうか。

 <アイランド1>にある高級住宅街、その中でも超高級と呼ばれる一角にその屋敷はあった。広大な敷地にビルのような大きな邸宅。住んでいるのがただの金持ちではない事がその外見からも伺える。
 その屋敷の門を一台の高級車が通り抜け、中に入っていく。そのまま車は屋敷の玄関口まで来て、ようやく停車する。するとすぐに女性の運転手が降りてきて、後部座席のドアを開けた。
「ご苦労様」
 女性運転手に向かってそう言いながら降りてきたのは<アイランド1>のみならずこの<セレスティアスシティ>でも有数の大企業、琴吹エンタープライズの若き女社長・琴吹 紬だった。彼女は女性運転手が頭を下げるのを見ると、そのまま屋敷の玄関へと向かう。
 彼女が如何にも重厚そうな大きい扉の前まで来ると、その扉が内側から開いた。まるで見ていたかのような絶妙なタイミング。おそらくは偶々なのだろうが、それでも見事過ぎるタイミングで扉が開き、その内側では扉を開けたであろう初老の人物が深々と紬に向かって頭を垂れていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「……斉藤、もうお嬢様って言うのは止めてって言ったでしょ」
「……私にとってお嬢様はあくまでお嬢様でございます」
 少し口を尖らせながら紬がそう言うが、初老の人物は止める気はないらしい。それはそうだろう。何と言っても彼は紬が幼い頃から琴吹家の、ある程度紬が育ってからは彼女専属の執事をずっとしてきたのだから。彼からすれば紬がどれだけ大きくなっても、その地位がどれだけ上がってもあくまで”お嬢様”なのだ。それに幼い頃から彼女を見守ってきており、彼女の事を娘のようにも思っている。でなければわざわざこの海上都市にまでついてきたりはしない。
「まったく」
 小さく呟くようにそう言う紬だが、その顔にはそれほどの不快感は出ていない。半ば諦めつつも、未だ自分の事をそう呼んでくれている彼に多少の感謝も込められているのかも知れない。琴吹グループという世界的大企業の重要な部分を占める琴吹エンタープライズを任されている彼女を”社長”と呼ばずに昔と変わらず”お嬢様”と呼ぶのはもう彼だけなのだから。もっともこの海上都市にある屋敷で働いている者で紬が日本にいた頃から同じく琴吹家に仕えている者はこの初老の執事、斉藤ただ一人だけなのだが。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
 玄関ホールにずらりと並んだメイド達が入ってきた紬を出迎える。正直なところ、こう言った形式張った光景には飽き飽きしているのだが、それでも特に止めさせようとはしないのはずっと昔からこう言った事をされるのに慣れており、それが日常と化している所為だろう。
 並んで頭を下げているメイド達に笑顔を見せながら紬は玄関ホールを抜けて、奥へと向かった。その後ろを影のように執事の斉藤が付き従い、彼女が私室に入っていくのを見届ける。
「斉藤さん、ご主人様は御在室ですか?」
 自分の仕事に戻ろうと歩き出しかけた斉藤を呼び止めるような声。振り返ってみるとメイドの一人がトレイ片手に紬の部屋の前に立っていた。
「ええ、今お入りになったばかりです。だから中にいらっしゃるでしょう」
 彼女に向かって笑みを浮かべてそう答えると、そのメイドも同じように笑みを斉藤に返し、それからぺこりと頭を下げた。それからトントンと紬の部屋のドアをノックする。
「ご主人様、よろしいでしょうか?」
 声をかけてから数秒の間が空く。普段から多忙を極めている紬だ。部屋に入るなりベッドに倒れ込むようにして眠ってしまっているのかも知れない。メイドがもう一度ノックしようかと手を挙げた頃に、ようやく中から紬の声が聞こえてきた。
「構わないわ。入って」
「ありがとうございます」
 そう言ってからメイドがドアを開けた。
「失礼します」
 中に入ってからそう言い、頭を下げる。それから彼女は紬の方へと顔を上げた。
「どうかしたの?」
 ベッドの上に腰掛けつつ、紬は入ってきたメイドに問いかけた。この部屋は完全な紬のプライベートルームだ。掃除など以外には余程の用がない限りメイドは勿論、執事の斉藤ですら立ち入る事を許されてはいない。中に入れるのは紬の方から何か用を申しつける為に呼び出される時ぐらい。それを知らない訳がないのにこうしてやってきたのだから、余程の用事があるのだろう。そう思って入ってきたメイドに尋ねたのだ。
「はい。今日の午後、ご主人様の出資しているあすなろ園の子供達が訪ねてきて、これをご主人様にと」
 メイドはそう言うと持っていたトレイの上にかけられていた白い布を取り去った。その下にあったのは、形が不揃いなクッキーの山。
「日頃からお世話になっているお礼だと言っておりました」
「そう……」
 トレイの上、お皿に盛られたクッキーは形も大きさも不揃い。それに所々焦げ目も付いていたりする。だが、それはきっと子供達がみんなで手作りしてくれたもの。だから文句など言う訳がない。
 紬は個人的に”あすなろ園”という児童福祉施設を運営している。この海上都市で孤児になった子供などを保護し、その生活を支援しているのだ。口さがない者はこれを偽善と言ったり、単なるイメージアップの為だと言っているが、紬はそれでも時間のある限りそこを訪れては子供達と触れ合ったりするようにしている。だから”あすなろ園”の子供達は紬にかなりよく懐いているのだ。今回のこのクッキーの差し入れも、日頃忙しい紬に対する子供達からのお礼と応援なのだろう。
「ありがとう。後で頂くからそこに置いておいてちょうだい」
 紬は笑みを浮かべると、ベッドサイドにあるテーブルを指で指し示した。メイドがそこにトレイから皿を移し替えるのを見ながら、また何か子供達にお礼をしなければならないなと思う。もっともそれをすればまた子供達が何かお礼として持ってくる事は容易に考えられた。これだといつまで経っても終わらない堂々巡りになるだけなのだが、それでもいいと紬は思っていた。
「失礼しました」
 そう言って出ていくメイドを見送った後、紬はベッドから立ち上がると近くにあるテーブルへと向かう。その上に置いてあったノートパソコンを開くと、すぐに電源を入れた。パソコンが起動すると同時にモニターに大きなサングラスをかけた女性の顔が映し出される。
「……悪趣味ね」
 モニターを見るなりぼそりと呟く紬。それが聞こえたのか、モニターに映っている女性があからさまなまでに顔を顰めてみせた。
『ひどいですね。こっちはずっと連絡しようと待っていたのに』
「……何かあったの?」
 目元を手で押さえながら紬は尋ねる。相手の文句はとりあえず聞き流した。下手な事を言えば何時までも文句を言ってくるとわかっているからだ。
『……<アイランド3>で事件があったようです。殺されたのはホームレスのようですけど、その殺され方はひどいものでしたよ。後でその辺の詳細をメールで送っておきますね』
 何故かニコニコと笑いながらサングラスの女性がそう言ったのを見て、紬は小さくため息をついた。彼女がメールで送ると言った詳細にはきっとそのホームレスの死体の画像も添付されているに違いない。一体どんなグロ画像なのか、送られてきたメールを見る時は覚悟を決めておかなければならないだろう。
(本当に……昔はこんな子じゃなかったのに……)
 サングラスの女性の過去は紬はよく知っている。彼女に何があって、こうもその性格が変貌したのかも。実はその一因が紬にもあり、その為に彼女に対してあまり強く出れないでいるのだ。
「それで、わざわざそんな事を報告してくるって事は……また奴らなのね?」
『おそらくは、ですが。とりあえずこっちの方でも調査は始めてますけど、いいですよね?』
「構わないわ。どうせいつもの通り、私が何も言わなくても勝手にやってるんでしょ」
『まぁ、それは確かにそうですけど。一応ですよ、一応』
 モニターの中でサングラスの女性が微笑んだ。一見すると何の邪心も無さそうな笑みだが、その笑みの下で何を考えているかわかったものではない。紬は表には出さないまでも警戒心を新たにする。
『それと、新しい装備に関して色々と文句……じゃなかった、意見があるって言ってました。明日でいいから来てくださいね』
「わかったわ。ちゃんと明日は会えるのね?」
『実際に使うのは私じゃありませんし。邪魔しませんよ、明日は』
 少しだけ不服そうに頬を膨らませるサングラスの女性。それが果たして演技なのか、それとも素なのか、紬には判断がつかなかった。出来れば素であって欲しいとは思ったが。
「ならいいんだけど。それで、連絡はこれでおしまい?」
『……えーっと、一応後一つだけ。ちょっと胡散臭いってだけなんですけどね』
「何かしら?」
 珍しく躊躇いがちに言う彼女に、逆に紬は興味を覚えてしまう。
『倉田重工って知ってますよね? あそこが何か妙なものを開発したとかで……もしかしたら奴らと何か繋がりがあるかもって言うだけの話です』
「……わかったわ。そっちは私の方で調べてみるから」
 すぐさま紬はテーブルの上に置いてあったペンを手に取り、その近くにあった紙に”倉田重工”と言う文字を書き込んだ。その会社の事を知らない訳ではない。本社は日本にあり、琴吹グループと並ぶ大企業の一つだ。勿論この<セレスティアスシティ>の<アイランド1>にも出資しており、支社も置いている。
(確か社長が最近替わったって聞いたけど……)
 少し前に新聞にそんな記事が載っていたはずだ。後で確認してみようと思いつつ、再びモニターに目を落とすといつの間にか画面からサングラスの女性の姿は消えていた。伝える事を伝え終わり、さっさと接続を切ってしまったのだろう。相変わらず勝手だな、と思いながら紬はまたため息をつくのだった。

 薄暗い部屋の中、明かりと言えば大量にあるモニターからもたらされるだけ。一つ一つのモニターに映し出されている光景は全て違う。人気の少ない街角だったり、繁華街のものだったり。それらが数秒ごとに別の光景へと切り替わっていく。おそらくこれは街中にある監視カメラの映像なのだろう。
 それらの映像をモニターから少し離れたところにあるデスクに肘をつきながら見ている姿があった。つい先程まで紬とパソコン越しに会話していたサングラスの女性だ。今も変わらずサングラスをかけたまま、ぼんやりとした様子で次々と切り替わるモニターを眺めている。
 その顔には先程まで紬に対して見せていたどことなく不敵な笑みはない。どちらかと言うとひどく疲れたような表情だ。いや、事実彼女はかなり疲れている。紬に連絡する直前まで<アイランド3>で起きた事件の捜査具合を知る為にセレスティアスシティポリスのデータバンクにハッキングをしかけていたのだから。
 流石に<セレスティアスシティ>の警察機関だけあってそのセキュリティを突破するのは決して容易な事ではなかったが、それでも彼女の手にかかれば決して不可能な事ではない。むしろこの海上都市において彼女がハッキング出来ないところなどないに等しいのだ。それだけの情報解析技術を彼女は持ち合わせている。
 だが、それと平行して海上都市のありとあらゆる情報網にも手を伸ばしていたので、なかなかに手こずってしまっていたのだ。どちらか一本に絞っていればこうも苦労はしなかったのだろうが。
「……疲れてる?」
 不意に後ろから聞こえてきた声に彼女が振り返ると、そこには全裸の女性が立っていた。全身びしょ濡れで、髪の先や身体のあちこちから水の雫が垂れ落ちている。お風呂にでも入っていたか、それともシャワーを浴びてそのまま出てきたのか。だが、当の本人はそれをまったく気にしている様子はなかった。
「疲れているなら休んだ方がいい……よ」
 少しだけ心配そうな感じで全裸の女性がそう言うと、サングラスの女性は口元に優しげな笑みを浮かべてみせる。紬に向かって見せたものとは違う、本当に優しげな笑み。
「私なら大丈夫だよ。お姉ちゃんこそちゃんと身体拭かなきゃダメだよ。風邪引いちゃうから」
「……うん、わかった」
 そう返事をすると全裸の女性はくるりとサングラスの女性に背を向けて歩き出した。その後ろ姿を見送った後、サングラスの女性は大きなため息をつく。
「お姉ちゃん……」
 サングラスの女性のその小さな呟きは誰に届く事もなく、そのまま闇の中へと消えていった。

To be continued...
 
THE Lady S
2nd Episode:Urban legend―都市伝説―
The END

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