地球上でもっとも未来に近い街<セレスティアスシティ>は日本の領海ギリギリの公海上に存在している一つの小さな自然島と建設中のものを含む九つの人工島からなる海上都市である。
 九つの人工島はそれぞれ<アイランド1><アイランド2>などと呼ばれ、その一つ一つは出資した国や企業などの特色が色濃く現れている。例を挙げれば<アイランド1>は日本の企業が共同出資している為、非常に日本っぽく、<アイランド2>はアメリカの企業が共同出資している為に非常にアメリカナイズされた街となっているのだ。その為にこの島では警察権が非常にややこしいものとなっていた。
 <セレスティアスシティ>が出来た当時はそれぞれの島のメイン出資国の警察が出張っていたのだが、それだとある島で犯罪が起き、その犯人が別の島に逃亡した場合手が出せなくなってしまうと言う事が多々あった。その為各島の警察で話し合いがもたれ、今はこの<セレスティアスシティ>だけを担当する特別の警察機関が誕生した。セレスティアスシティポリスと言う名のその警察機関にはそれぞれの国から派遣された警察官が所属し、その総括をICPOから派遣された職員が行っている。
 しかし各国の警察権の寄せ集めである為、仲間意識があまり高くなく、互いに捜査の妨害までは行かないが捜査情報の共有などが上手く行かない事が多い。それでもこの警察機関が出来るまでよりは遙かにマシで、犯罪発生率は徐々に下がり、その検挙率も徐々に上がってきていた。

 <セレスティアスシティ>は海上都市と言うことからそれぞれの<アイランド>には必ず港がある。様々な船舶の補給や輸出入の拠点となっているだけではなく、観光客の玄関口をも担っている重要な場所だ。勿論、それ以外にもこの島には三つの空港があり、そこもまた様々な物資の搬出や搬入、観光客の重要な玄関口となっていた。
 三つある空港の中でも一番規模の大きいものが<アイランド5>にあった。
 <アイランド5>はヨーロッパ、特にフランスやドイツを中心とする地域の企業が中心になって出資している人工島で、ここにある空港もヨーロッパ方面からの航空路線が主体になっている。その空港に今、フランスからのジェット機が到着していた。滑走路から駐機場へと入り、タラップが接続される。作業員による燃料の補給、貨物の積み卸しなどが始まる中、そのタラップから続々と乗客が降りてきた。
 降りてくる客のほとんどがヨーロッパ系の人種だ。だが、その中に一人、アジア系、もっと言うならば日本人の女性がいた。コートを片手に持ち、もう片方の手にはちょっと大きめのアタッシュケース。赤い縁の眼鏡をかけたその女性は、日本の警視庁からICPOへと出向になったはずの真鍋 和だった。
 タラップをおり、他の乗客と同じように近くに停まっているバスに向かって歩き出す彼女に一人の若い男が声をかけてきた。
「真鍋 和警部ですね?」
 いきなり声をかけられた上にわざわざ階級まで口にしてきた相手を少し驚いたように和は見る。その男はニコリと微笑むと上着のポケットから身分証を取り出した。それはこの<セレスティアスシティ>専門の警察機関、セレスティアスシティポリス所属を証明するIDカードだった。
「あなたの出迎えを命じられました。セレスティアスシティポリスのウィリアム=ノートン巡査部長です」
 流暢な日本語でそう言ってウィリアム=ノートン巡査部長はIDカードをポケットに戻した。
「お荷物は後で届けさせます。とりあえず本部長のところまで案内するように言われてますので」
「了解しました」
 ノートンに向かってわざわざ和は英語で答える。ICPOに出向を命じられるだけあって彼女は英語のみならずフランス語やイタリア語など幾つかの言語に精通しているのだ。
 もっともこの<セレスティアスシティ>は日本が最も近いため、この海上都市で暮らす大半の市民が日本語を通常言語として使用としている。日本人が何げにこの海上都市の人口の六割以上を占めているのだからそれも仕方ない事なのだろう。
「ではこちらにどうぞ」
 ノートンがそう言って和をバスとは違う場所に停めてある一台の車へと案内した。一見するとごく普通のスポーツカーだったが、よく見てみると中には無線機が搭載されており、更に赤いパトライトもそれとなく助手席の上に置かれている。覆面パトカーなのだろう。もしかしたら彼の個人所有のものを改造したものなのかも知れないが。
 助手席側のドアを開けたノートンはシートの上に無造作に置かれているパトライトや新聞などを見ると、苦笑しながらそれを片付ける。それから和に座るよう促した。
「すいません、散らかってて」
「いえ、別に気にしませんから」
 今度は日本語ではなくフランス語でノートンが言ったので、和もわざわざフランス語で答えてみせる。ちょっと意外そうな顔をするノートンだったが、すぐに笑顔になると運転席側へと回っていった。
 和が助手席に座り、シートベルトをきちんとつけた後、ノートンが徐にエンジンをスタートさせた。自身はシートベルトをしようと言う気はないらしい。和も特に口うるさく注意するつもりはなかったのだが、とりあえず抗議の視線だけを向けておく。だが、ノートンは気付いていないのか、それともあえて無視しているのか、何も言わずにアクセルを踏み、車を発進させた。

 道中特に会話をする事もなく、ノートンの運転する車は<アイランド5>にあるセレスティアスシティポリスの本部に辿り着いた。そこはこの海上都市にある中ではそれほど大きいビルでもなかったのだが、それでも和は思わず見上げてしまう。少なくても東京都庁ぐらいはあったからだ。
「まぁ、オフィス街に行ったらこんなもんざらにありますよ」
 口元に笑みを浮かべつつノートンがそう言い、そのまま車を本部ビルの地下駐車場へと進めていく。おそらく駐車場所は決まっているのだろう、何の迷いもなくノートンは奥へと進み、ある一角に車を駐車させた。
「さて、それじゃ本部長のところに案内しますね」
 相変わらずニコニコしながらノートンは和を先導して中へと進んでいく。エレベータに乗り、ビルの最上階にある本部長室へと向かった。
 エレベータホールから真っ直ぐ進んだ先にあるやたらと重厚な作りのドアの向こう、そこがセレスティアスシティポリスの本部長室である。ノートンがドアをノックし、中から少しくぐもった声が返ってきた。
「どなたかな?」
「ウィリアム=ノートン巡査部長です。真鍋警部をお連れしました」
「うむ、入りたまえ」
 入室の許可がでたところでノートンがドアを開ける。そのままの姿勢を維持し、和に先に入るよう促した。
 そんな彼に軽く頷いてから和は本部長室に入室し、奥の方、ブランドの下ろされた大きな窓の手前にあるデスクに近寄っていった。そのデスクの向こう側に座っているのは如何にも温和っぽい黒人の男性。だが、着ているスーツはなかなか高級品のようだ。
「ようこそ<セレスティアスシティ>へ、真鍋 和警部。私がセレスティアスシティポリスの本部長をやっているジョンソン=マードックだ」
「始めまして、マードック本部長」
 和が挨拶をするよりも先に黒人男性が笑みを浮かべながら立ち上がり、すっと右手を差し出してくる。その右手を握り返し、和に微笑みを浮かべた。
「君は日本の優秀な警官の中でもすこぶる優秀な警官と聞いている。君の活躍に期待させて貰うよ」
「ありがとうございます。その期待に応えられるよう頑張らせて頂きます」
 ジョンソン=マードック本部長は笑みを崩さない。だが、和の方は真剣な表情をして答えた。根が真面目なだけにこの辺は仕方ないのだろう。
「今日は疲れているだろうからゆっくりと休みたまえ。君の鞄が届き次第誰かに宿舎まで案内させよう」
「お気遣いありがとうございます。ノートン巡査部長もありがとう」
 一回マードックに向かって頭を下げてから、続いてドアの側に控えていたノートンにも頭を下げる和。ノートンが軽く手を振って答えようとするが、それよりも先に顔を上げた和が笑顔で口を開いた。
「ですけどシートベルトをしてないのはいけないわね。運転も荒っぽかったし、次からは注意して貰いたいわ」
 上げかけた手を止め、ノートンが引きつった笑みを浮かべる。それを見たマードックが大きい声で笑い出した。
「ノートン巡査部長、今回は真鍋警部に免じて見逃すが次はないぞ」
「了解です、本部長」
 笑いながらそう言うマードックにノートンが敬礼を返した。それから彼は和の方を見る。
「それではマドモワゼル、この本部ビルをご案内致しましょう」
 少し芝居がかった感じでそう言うとノートンは和を連れて本部長室を後にするのであった。

 東京、某テレビ局――控え室の中で緊張のあまり身体をガタガタ震わせているのは実力派アーティストグループとしてそこそこ名前の売れている”A.S.T.T.”のベース兼メインボーカル担当の秋山 澪。基本的に恥ずかしがり屋の彼女はテレビ出演やライブの直前はいつもこんな感じだ。
「もういい加減慣れろよなー」
 そんな彼女を少し離れたところで苦笑しつつ眺めているのは”A.S.T.T.”のリーダー、ドラム担当の田井中律だ。澪とは幼馴染みであり、付き合いが長い分いい意味でも悪い意味でも遠慮がない。だからか、緊張しまくっている澪を前にしても特にフォローなどをしようとはしないし、する気も毛頭無い。
「だ、大丈夫ッスか、澪さん?」
 少々素っ気ないと言うか突き放し気味のリーダーに替わって澪に声をかけたのは”A.S.T.T.”のメンバーの中では最年少にしてもっとも新参者の村上静佳だった。しかしながら彼女も少なからず緊張しているようで、その手が少し震えている。
「大丈夫大丈夫。何だかんだで収録が始まったら持ち直すさ。なぁ、梓?」
 本人でもないのに無責任にそう言い放って律が更に別のメンバーに視線を向ける。その先にいたのは一人静かにギターのチューニングを行っていた中野 梓。小柄な彼女にしては大きく感じられるギターのチューニングを丁寧にやりながら、声をかけられたので顔を上げる。
「えっと……何ですか?」
「聞いてなかったのかよ」
 どうやらギターのチューニングに夢中で律達の話を聞いていなかったようだ。キョトンとした顔で聞き返してくる梓に律が苦笑を浮かべてみせる。
「夢中になり過ぎだろ、お前。いくらそれが大事なものだからって言ってもさ」
「あー……そうですね。ちょっと緊張をほぐす為にやっていたんですけど」
「澪も自分のベースのチューニングでもやったらどうだ? 手を動かしていた方が気分もマシになるだろ」
「ダメだ……今のこの状態じゃかえって壊しそうな気がする……」
 律の提案にやはり身体をガタガタ震わせながら澪が答える。確かに今の澪だとチューニングどころか、下手をすればベース自体を落としたりして壊してしまいかねないだろう。
「今日は収録だけなんだからもっと落ち着けよなー。一回や二回ぐらい失敗したって問題ないだろ」
「そう言う考え方だから律先輩はダメなんですよ。私達が失敗したらその分スタッフの人が大変なことになっちゃうんですよ。その辺の事、ちゃんと考えないと」
 嗜めるようにそう言ったのは”A.S.T.T.”の最後のメンバー、キーボード担当の錦戸 文だ。彼女は妙に落ち着いている感じで、一人先程からスケジュール帳のチェックを行っていた。
「へいへい。相変わらず文は真面目だなー」
「律先輩がいい加減なだけですよ」
 さらりと文がそう言うが、律は特に気にした様子もなくテーブルの上に置いてあった紙コップを手に取った。中身は既に空っぽだ。それをちゃんと確認してから何か悪戯を思いついたかのようにニヤリと笑う。
「生意気な後輩にはこうだー!」
 そう言って手に持った紙コップを文に向かって投げつける律。だが、それを予期していたのだろう、文は持っていたスケジュール帳を素早く閉じるとそれで飛んでくる紙コップを律に向かって打ち返した。
「うおっ!?」
 打ち返された紙コップは一直線に跳び、律の額に命中した。前髪をカチューシャで上げて留めているので彼女の額は剥き出しになっている。そこに紙コップの直撃を受け、そのまま律は椅子ごと後ろにひっくり返ってしまった。
「や、やってくれたな、文……」
 そう言いながら起き上がる律。その顔には何故か不敵な笑みが浮かんでいた。
「ふっふっふ……何時までも私がやられっぱなしだと思って貰っては困りますからね」
 律と同じく何故かやる気満々という風に文も椅子から立ち上がっている。その手には既に未使用の紙コップが握られていた。それを見て律も同じように未使用の紙コップを手にする。
「下克上って奴か……いいだろう、その挑戦、受けて立ってやる!」
「それでは遠慮無くやらせてもらいます、律先輩!!」
 そう言って二人が同時に手に持った紙コップを相手に向かって投げつけた。二人の丁度中間点で二つの紙コップがぶつかり合い、弾かれて床の上に落ちていく。それを見て先に動いたのは律の方だ。素早くテーブルの上にあった未使用の紙コップの束に手を伸ばし、それを自分用にと抱え込む。
「あ、ずるい!」
「勝負ってもんは勝てばいいんだよ、勝てば!」
 律が大量の紙コップを抱え込んだのを見て文が抗議の声をあげるが、律はまるで取り合わなかった上に容赦のない一言を彼女に浴びせかける。おまけに持っていた紙コップの束から次々と紙コップを出してはそれを文に向かって投げつけた。
 これに対して文はすぐさまテーブルの上に置かれていた空のペットボトルを取り、それをバットに見立てて律が投げつけてくる紙コップを打ち返していった。
 梓はそんな二人を少し呆れたように見ながらも、自分は被害を受けないよう控え室の隅の方へと移動していく。持っているこのギターに傷を付けられる訳には行かないからだ。何と言ってもこのギターは自分のものではないのだから。
 しかしながらそろそろ注意した方がいいかも知れない。律が投げ、文が打ち返している紙コップが控え室のあちこちに散らばってきたからだ。未使用だからいいものの、これに中身が入っているものが混じっていたらと考えるとぞっとする。もっとも未使用の紙コップをこうして部屋中に散乱させてしまったのだから、もったいない事この上ないのだが。何にせよ、後で掃除しなければならないだろう。そんな事を考えながら梓が口を開こうとすると、それよりも先に大きな声が挙がった。
「いい加減にしろ、律! 文もだ!」
 声のした方を見ると、先程まで緊張でガタガタ震えていたはずの澪が如何にも怒ってますと言う風に頬を膨らませながら仁王立ちしていた。
「場所をわきまえろ! ここは私達だけの部屋じゃないんだぞ!」
 そう言うと、澪は律の側まで歩いていき、彼女の頭に拳骨を落とす。それから文の方を振り返り、彼女に向かってビシッと人差し指を突きつけた。その迫力に思わず文はビシッと背筋を正し、直立不動の姿勢を取ってしまう。
「律と文は今すぐここを片付けるんだ! 収録が始まるまでにな!」
「えー」
「文句があるのか、律?」
「……了解しました」
 不服そうな声を漏らす律をギロリと睨み付ける事で黙らせ、澪はため息をつきながら椅子に腰を下ろした。ブツブツ何かを呟いている彼女の様子からは先程までの緊張が感じられない。
 それを見て律は文の方をチラリと見やった。文も同じように澪を見てから律に頷き返す。どうやら二人して子供のようにはしゃいでいたのは澪の緊張を解きほぐす為だったらしい。もっとも当の澪がそれをわかっているのかどうかはわからなかったが。
(やっぱり律先輩はよく見てるな……)
 小さく笑みを漏らしつつ、梓は昔の事を思い出す。まだ梓達が高校生だった頃を。
(ああ言う風に澪先輩ががちがちになっちゃった時は律先輩が馬鹿な事やって澪先輩の緊張をほぐしてあげて……それをムギ先輩がニコニコと無駄にいい笑顔で見てて)
 律と澪の二人が夫婦漫才でもしているかのようないつものやりとりをしているのを、ここにはいないかつての仲間が何故か嬉しそうに見つめていた事を思い出す。そしてもう一人、律と一緒に馬鹿な事をやっていた人物の事も。
(唯先輩も一緒に怒られてたっけ)
 不意に脳裏に思い浮かぶ一人の先輩の姿。いつも明るくて、ちょっとお馬鹿で天然が入っていて、そしてとても暖かい日溜まりのような先輩。彼女の事を思いだして、梓は泣き出したくなるのを堪えるようにギターをギュッと抱きしめた。
「すいませ〜ん、”A.S.T.T.”の皆さん、スタジオ入ってくださ〜い!」
 控え室のドアがノックされ、それからADが顔を覗かせる。そろそろ出番らしい。
「よっしゃ! それじゃ今日も頑張っていくか!」
 床に散乱している紙コップを片付けていた律が身体を大きく伸ばしながらそう言い、”A.S.T.T.”のメンバーを振り返った。すっかり緊張の解けた様子の澪が頷き、椅子から立ち上がる。静佳はまだちょっと緊張しているようで、その顔が少し強張っていた。文も律と同じように大きく体を伸ばしながら立ち上がり、そして控え室の隅の方にいた梓の方を見る。梓はそんな彼女に小さく頷くと、ギターを抱きしめたまま立ち上がった。

 多くのファンが知っている事なのだが、”A.S.T.T.”の演奏にはかなりのむらがある。一般に売られているCDの曲をライブでやると同じ曲であるはずなのに、何処か違って聞こえるというのだ。彼女達のライブに連続で行ってみると、同じ演奏内容でもやはり微妙に違っていると言うのが定番だ。
「はーい、おっけいで〜す!」
 毎度毎度微妙に違ってしまう”A.S.T.T.”の曲だが、今回は比較的CD音源に近い演奏が出来たようだ。リテイクすることなく一発でOKが出てメンバー一同揃ってちょっと安心する。
「お疲れさまでした〜」
 笑顔でそう言いながらスタジオを後にする律達。何回かリテイクがあるものだと考えていただけに一発でOKが貰えて皆機嫌がいい。おまけにこの後は全くのフリーなのだから尚更だろう。
「何処かでご飯食べて帰りませんか?」
「そうだな〜……文が家まで送ってくれるならいいぞ」
 文の提案に律がニヤリと笑ってそう答える。
「律先輩、そろそろ自分の車買いましょうよ。免許持ってるんだから」
「あ〜、いや〜、面倒臭いって言うか」
「で、何処行くッスか?」
 すっかり乗り気の静佳がそう尋ねると、澪がちょっと視線を上に挙げて考え込む。
「そうだな……この間はみんなで中華に行ったから中華はパス」
「ならイタリアンなんかどうですか? この間テレビで美味しそうな店見たんですよ」
 皆がワイワイ姦しく話しているのを少し後ろを歩いていた梓が何も言わずに見つめていた。会話に参加出来ない訳ではない。あえて参加しようとしていないだけだ。
「……どうした、梓?」
 先程から何も言わない梓に気がついたらしい律が振り返ってそう尋ねてくる。こう言った事にすぐに気付き、更に気遣うように声をかけてくる。だからこそがさつでいい加減と評される事の多い律が”A.S.T.T.”のリーダーを任されているのだ。
「あ……すいません。ちょっと考え事してました」
 これは嘘だ。梓はただ、ワイワイと騒いでいる仲間に昔のメンバーを重ねていただけ。ここにはいない、二人の先輩の姿を重ねていただけ。一人は実家の仕事の為にバンドを抜け、もう一人は謎の失踪を遂げて行方不明。本当ならばその二人がこの場にいたはずだと思わないでもない。しかし、それだとその先輩達の穴を埋めるように加入してくれた二人に少し申し訳ないのだが。
「……ま、別にいいけどさ。この間のライブからずっと何か考えてるって言うか悩んでるみたいだからな。何だったら相談に乗ってやってもいいぞ」
「その代わりにご飯でも奢れって言うんじゃないでしょうね?」
「へへっ、ご名答」
 折角いい事を言っていたのにこれじゃ台無しだ、と思いながらも梓は笑みを浮かべる。律の気遣いが少し嬉しかったからと言うのと、梓が悩んでいると言う事をちゃんと気付いてくれていたからだ。やはりと言うか流石と言うか、”A.S.T.T.”のリーダー様は伊達ではないらしい。
「だったら澪先輩にでもしますよ。澪先輩ならそう言うの無しで普通に相談乗ってくれそうですし」
「そりゃそうだ。でも恋愛相談とかはやめとけよ〜。あいつは未だにそう言うのに夢を抱いているタイプだからな〜」
 小生意気な口を叩く後輩にニンマリと笑いかけながら軽口を叩く律。これだけ生意気な口が叩けるのなら多分大丈夫だろうと判断したのか、いつの間にか先行している三人に小走りで駆け寄っていく。
「それじゃあ着替えたら文の車でそのイタリアンの店にレッツゴーだな!」
 元気よくそう言いながら律は文と静佳に抱きついていった。二人の肩に手を回し、ギュッと自分の方に抱きしめるようにしてから梓の方を振り返る。
 ニマッと笑った律に一つ頷いてから梓も追いかけるように歩き出した。

「あら、早かったわね」
 控え室に戻った一行を出迎えたのはそんな声だった。
「誰だと思えば芹沢さんじゃん」
 ドアを開けたところでその人物を見つけた律が目を丸くする。そこにいたのは”A.S.T.T.”のマネージャーである芹沢京香だった。その彼女を見て律が目を丸くしたのは彼女がマネージャーでありながら滅多に”A.S.T.T.”のメンバーの前に姿を現さないからだ。
 ”A.S.T.T.”が所属している芸能事務所はそれほど大きいものではない。その為に人員もかなりギリギリであり、所属しているアーティストや芸人にそれぞれ一人ずつマネージャーをつけると言うことが出来ないでいる。芹沢も”A.S.T.T.”以外にも何人かのマネージャーを担当しており、かなり多忙な日々を送っているのだ。偶々”A.S.T.T.”には澪や文と言うしっかり者が存在しており、彼女達が多忙な芹沢に替わって”A.S.T.T.”のスケジュールの確認などマネージャーのような仕事を任されていた。
「その様子だと今日は珍しく一発OKだったみたいね」
「珍しくって何だよ、珍しくって。私達は何時だって完璧だっての」
 ニヤニヤと笑っている芹沢に向かって律が口を尖らせる。
「よく言うよ」
 律をジロリと睨み付けるようにしてから澪が芹沢に向かって頭を下げた。
「お疲れさまです、芹沢さん」
「それはこっちのセリフよ。いつもいつもあなたや文ちゃんに任せっぱなしで本当に申し訳なく思っているわ」
 芹沢はそう言うと軽く手を振ってみせる。
「それで今日は何の用? まさか顔を見せに来ただけって訳じゃないよね?」
「その通りだって言ったらどうする?」
「今すぐ帰れ」
「冗談よ。今日は次のライブの日程が決まった事を教えに来たの」
 何か懐かしいやりとりだな、と思いながら梓は律と芹沢を眺めている。その一方で文と静佳ははらはらしながら二人のやりとりを見守っていた。自分たちよりも年上の芹沢に律が普通にため口を叩いているからだ。
「次のライブって確かあれですよね。<セレスティアスシティ>でやるって言う」
「そうそう。ちょっと先になるんだけどね。11月の27日になる予定よ」
 澪の言葉に頷いて芹沢が口にした日付を聞いて、梓の顔色が変わった。いや、梓だけではない。律と澪も同じように驚きの表情を浮かべている。
「ン? 何か都合悪かったっけ?」
 三人の顔色が変わったのを見て芹沢が少し驚いたように尋ねてくる。彼女が自分で確認している限り、その日の前後には何も予定は入っていなかったはずだ。もしかしたらプライベートで何か予定を入れていたのかも知れない。
「もし都合が悪いんだったら何とかして別の日にして貰うようお願いしてみるけど」
 ”A.S.T.T.”のメンバーはみんなまだ若い。一応普段は仕事最優先でやってもらっているが、プライベートで何か重大なこと、例えば彼氏とのデートとかがあるのならそっちを優先させてやろうと芹沢は考えている。スキャンダルになると少々困った事態になるのだが、それでも若い彼女達の恋路ぐらいは自由にさせてやりたいと個人的に思っているのだ。
「あ、いえ……別に予定とかは」
 慌てて梓がそう言う。
「そ、その日でいいよ。その前後一週間向こうにいていいんだろ?」
「うん、まぁ……あなた達はうちの事務所でも稼ぎ頭だしね。前にも言ったけど、ご褒美のようなものだから」
 梓に続いて律がそう言うので、芹沢は少し戸惑いながらもそう答えた。心の中では11月27日という日付に一体どう言う意味があるのか後で調べてみようと思いながら。
(もしかしたら……あのギターに関する事なのかも知れないしね……)
 律が常に保管していて、梓がとても大事にしている謎のギター。ライブがある時は必ず舞台の片隅におかれてあり、それ以外の時も必ず彼女達の側に存在している。前に理由を聞いてみようとしたが、律も梓も、そして澪も何も教えてはくれなかった。いつか話してくれるだろうと思っているが、気になって仕方ないのだ。
「いや〜、楽しみッスね〜」
「とりあえず水着新調しなきゃ」
 静佳と文がニコニコと話をしているが、他の三人は何やら複雑そうな顔をしている。だが、これ以上詮索しても仕方ないと思ったのか芹沢は何も言わずに立ち上がった。
「それじゃ今日はこれで。りっちゃん、明日もテレビの仕事あるから忘れないようにね」
「何で私にだけ言うんだよ」
「遅刻の常習犯は文句言わないの。澪ちゃんとか文ちゃんがどれだけ謝ってるか知らない訳じゃないんでしょ?」
「……了解〜」
「ふふ、それじゃあね」
 芹沢はそれだけ言うと、ウインク一つを残して控え室から出ていった。
(11月27日……か……)
 芹沢を見送った後、梓は椅子に腰を下ろしながら思いを馳せる。その日は行方不明になった先輩の誕生日だ。勿論芹沢はそんな事知る由もないのだろうが、何か運命的なものを感じてしまう。
(もしかしたら唯先輩に会えるかも知れない……)
 突然の失踪から早五年。その間何の連絡もなく、出来うる限りの伝手を使って捜索したが未だ見つかっていない。絶対に死んでいないと言う希望だけを持って今も彼女の捜索を続けているが、果たして本当に見つかるのかどうか不安だけが募っていく。
 しかし、彼女の誕生日にライブが出来れば、もしかしたらそれを見にやってくるかも知れない。儚い希望だが、今はそれに縋りたかった。

 琴吹 紬の日常は多忙を極めている。
 日本のみならず世界でもその名を馳せている大企業琴吹グループの次期総帥と目されているだけではなく、琴吹エンタープライズという総合商社の社長を今現在務めており、更にそれだけではなく個人的に慈善事業に参加したりととにかく毎日忙しい。だが、それでも彼女は滅多に琴吹エンタープライズ本社のある<セレスティアスシティ>を離れようとはしなかった。実家のある日本にも滅多に帰ろうとはしない。余程の重大事がない限り彼女はこの海上都市を離れようとはしないのだ。
 この日も紬は朝から琴吹エンタープライズの重役会議に参加し、お昼は<アイランド1>の様々な企業の社長達と会食、午後からは彼女が独自で運営している児童福祉施設への慰問などを行い、そしてようやく本社ビルの最上階にある社長室へと帰ってきたところだった。
「お疲れさまです、社長」
 帰ってくるなり、社長室にある如何にも豪華そうなソファにぐったりと腰を下ろし背中を預ける紬を労うようにそう言ったのは彼女の秘書を勤める女性だ。そう言いながら淹れたばかりの紅茶を彼女の前にすっと差し出す。
「どうぞ。社長程上手く淹れられたかどうかはわかりませんが」
 ニコリと笑みを浮かべながらそう言う女性秘書に紬も笑みを返す。
 以前紬はこの女性秘書に自分で紅茶を淹れて振る舞った事があった。その腕前がプロ級だった事に驚き、続いて飲んだ紅茶もかなり美味しかったので、それ以来彼女は紬に負けないくらい美味しい紅茶を淹れられるよう暇を見ては研究しているのだ。
 その事を知っている紬は笑顔のまま、カップを手に取り、口を付ける。紅茶を少し味わってから、紬は女性秘書の方に顔を向けた。
「八十点」
「……もっと精進します」
「でも美味しいわ。秘書を辞めたら店でも持つ?」
 少し落ち込んだ様子の女性秘書に紬は笑顔のまま冗談めかしてそう言い、再びカップに口を付けた。温かい紅茶が喉を潤していく。同時に疲れてささくれ気味だった心も潤いを取り戻していく。
「ありがとうございます。もしその時が来れば考えておきます」
 そう言って紬に一礼し、女性秘書が社長室から出ていく。社長室のすぐ隣に秘書専門の部屋があるのだ。普段彼女はそこに詰めている。
 一人になった紬は再び背中をソファの背もたれに預け、天井を振り仰いだ。思い出すのは先日街中で見かけたとあるポスターの事。学生時代、共にバンドを組んでいた仲間達がメジャーデビューを果たした事は知っていた。それとなくだが、所属事務所の支援などもしていたりする。だが、それは罪悪感から来るものだ。
 本当ならば一緒にメジャーデビューするはずだった。そう皆で約束した。だが、紬はその約束を捨て、琴吹家を継ぐ事を選んだ。仲間達を裏切ったのだ。きっと皆怒っているだろう。今でも恨んでいるかも知れない。
 実際のところあの時の仲間を抜けたのは紬一人ではなかったのだが、もう一人は失踪という形で仲間を抜けている。本人の意思によるものか、それとも何かの事件に巻き込まれてなのかは今もわからない。実はその彼女を捜す為、紬は琴吹家を継ぐ為を決めたのだ。日本だけでなく世界にもその名を馳せる琴吹グループ、そのネットワークを駆使して行方不明の彼女を見つけ出す為に、心ならずも他の仲間を切り捨ていたのだ。
 その事を彼女はかつての仲間達には言っていない。言えばきっと許してくれるだろうが、言うつもりは毛頭無い。これは彼女が自分で勝手にやると決めてやっている事だ。誰にも相談せず、一人で決めた事だ。だから恨まれても構わない。何を言われても構わない。行方不明の彼女を仲間の元に帰すまでは謝罪も言い訳もしないと決めたのだ。
 それでも募る罪悪感を、かつての仲間達に知られないよう密かに彼女達を支援する事で何とか解消している。それだってただの自己満足に過ぎないのだと理解しながら。
 そんなかつての仲間達がこの島にやってくる。何時かはまだ未定だが、この島にライブをしにやってくる事が決定した事をあのポスターを知らせていた。
 この海上都市に来ればきっと彼女達は紬の存在を知るだろう。この街では紬は有名人だ。簡単に紬がこの街にいる事を彼女達は知る事が出来るはずだ。もし、彼女達が会いたいと言ってくればそれを断る事はおそらく出来ない。いくらでも口実を作って追い返す事は出来るだろうが、きっと紬自身がそれをしないだろう。自分でもそれがわかってしまう。
「どうすればいいのかな……?」
 誰にともなく呟く紬。どうすればいいのか自分でもわからない。琴吹エンタープライズ社長としての様々な決断は容易に下せるようになったというのに、この問題に対する決断だけは未だどうすればいいのかまるでわからない。
「……会わなければいいんですよ。口実なんかいくらでも作れるはずです。何なら何か理由をこじつけてこの島に上陸させなければいい」
 不意に聞こえてきたその声に紬ははっとなったように身を起こした。すぐさま周囲を見回してみると、いつの間にか大きなデスクの上に一人の女性が座っている。大きなサングラスで顔を隠した女性だ。
 一体何時この場に現れたのか。この社長室に入る為には隣にある秘書室を通り抜けなければならない。一応そこを通らなくてもこの部屋に出入りする事は出来るよう別にドアがあるのだが、それを知っている者はごく少数だ。先程紬に紅茶を振る舞った女性秘書ですらその事は知らない。
「……珍しいわね。あなたの方から会いに来てくれるなんて」
 突然声をかけてきた相手を見て、紬は小さくため息をつきながら立ち上がった。そして彼女の座っているデスクの方に向かっていく。
「ちょっとお行儀が悪いわね。机の上に座るなんて」
 そう言いながら紬は笑みを浮かべ、デスクの向こう側、如何にも座り心地の良さそうな椅子に改めて腰を下ろした。そしてそこから今は自分の背を向けている女性をじっと見やる。
「それで、何の用かしら?」
「別に。何かお悩みのようでしたからちょっとだけ助言をしようかと思いまして」
 そう言ったサングラスの女性の姿が一瞬にして紬の目の前から消える。だが、次の瞬間、彼女はデスクの前にちゃんと紬に正対するように出現した。それはさながら瞬間移動。だが実際にはそのようなものではない事を紬は知っている。
「助言、ね……まぁ、私も同じ事を考えないでもなかったけど」
「多分ですがあなたにはそんな事は出来ないでしょうね」
 相手の少し毒を含んだ言い方に紬はムッとなるが、それを顔に出す事はない。ここ何年かの社長としての生活の中でそう言う事を身につけた、と言うよりは身につけざるを得なかったからだ。向こうも当然それをわかってやっている訳で、むしろその取り繕った仮面の下にある紬の素の表情を見たいと思っているのかも知れない。
「ちょっと調べてみたんですけど、あの人達がライブをやるのは11月の27日だそうです」
「11月……27日……」
 サングラスの女性が口にした日付を聞いて紬が少し驚いたような表情を見せた。
「驚きですよね。まさかこんなタイミングでやるなんて思いも寄らなかったし。さて、どうします?」
 何か面白がっているようにサングラスの女性が問いかけてくる。実際に面白がっているのだろう。紬がこの日がどう言う日であるか知らない訳がない。だからこそだ。
「……どうもこうもないわ。みんながこの島に来るのならそれでいいじゃない」
「成る程。それがあなたの答えですか」
「何か不満があるみたいね」
「11月27日は私にとってかけがえのない日ですからね。出来れば何事もなく穏やかに過ごしたいだけですよ。だから……ああ言う騒がしいものにはちょっとご遠慮願いたいかなって」
 そう言いながらサングラスの女性が何やら含みのありそうな笑みを浮かべてみせた。
 何かよからぬ事をするつもりなのかも知れない。その矛先がこの島にやってくるであろうかつての仲間達に向けられるならば。紬が珍しく怒りの感情を露わにしてサングラスの女性を睨み付ける。
「……冗談ですよ。それに私はここから出る事が出来ませんし。ただ……本当に何事もないようにして欲しいだけです」
 サングラスの女性が初めてごく普通の、温和な笑みを口元に浮かべた。紬にとっては昔懐かしい笑みだ。だが、それを口に出しはしない。そうすれば彼女の機嫌がたちまち悪くなるだろう事が容易に想像出来たからだ。
「わかったわ。私の方でも色々と気をつけるから」
「よろしくお願いします」
 ようやく自分の望む返答を得られたのだろう、サングラスの女性が白々しく頭を下げてみせる。それから何かを思い出したかのように顔を上げた。
「そう言えば、なんですけど」
「まだ何か?」
 話がもうおしまいだと思っていただけにサングラスの女性がまた口を開いた事が紬としては少々意外だった。この女性が紬に対して取る態度はあまり好意的なものではない。事実先程も紬が何を悩んでいるのかをわかっていながら彼女を試すような事をしていたではないか。それに普段から二人が交わす会話は極めて事務的なものだけで、そもそも会話として成り立っているかどうかも怪しいものだ。そんな彼女がまだ紬との会話を続けようとしていることが予想外だったのだ。
「セレスティアスシティポリスに日本から新しい警官がやってきたそうですよ。一応ICPO経由らしいんですけどね」
 サングラスの女性の口から出てきたのはそれほど目新しくもない情報だった。
 紬もセレスティアスシティポリスの事はよく知っている。日本のみならず世界中から派遣された警察官で構成されていると言う事は結構有名な話だ。その上層部がICPOに所属するもので固められていると言う事も周知の事実。だからそこに新たに日本からICPOを経由して新たに警察官が一人やって来たところで物珍しい話でもない。それこそそのやって来た警察官が自分たちの関係者でもない限り。
「……誰なのかしら?」
 わざわざ自分に教えるのだ、きっと関係者の誰かに違いない。意地の悪い彼女がそう簡単に教えてくれるとは思えなかったが、それでもダメ元で尋ねてみる。
「聞いてどうするの? わざわざ会いに行くの?」
 やっぱりか、と思いながら紬はサングラスの女性の意地の悪そうな笑みの浮かんだ顔をじっと見やる。
「まぁ、別にどうでもいいけど」
 自分の予想とは違ったのか、紬の態度を見てつまらなさそうにサングラスの女性が言い捨てた。そして現れた時と同じようにその姿が一瞬にして消えてしまう。
 やれやれ、と思いながら紬は小さくため息をつく。昔はああじゃなかった、もっと素直でいい子だったのにな、などと考えながらサングラスの女性が立っていた場所をぼんやりと見つめていると、消えた時と同じように突然サングラスの女性が現れた。
「すいません、言い忘れていました」
 少しも悪びれた様子もなく、悪戯っぽくサングラスの女性が舌を出す。
 今度は一体何だと言う風に紬は太い眉を寄せた。今日はもうこの後特に予定はない。出来る事ならさっさと屋敷に帰ってゆっくりと休みたい。彼女の相手をするのは精神的に非常に疲れるのだ。
「今度来た警官の名前、真鍋 和って言うそうです」
 それだけ言って今度こそ彼女は消えてしまう。ただ、消える直前、極めて邪悪そうな、それでいて楽しそうな笑みを口元に浮かべていたのを紬は見逃さなかった。
 今度という今度こそ一人になり、紬は大きく息を吐く。しかし、胸の中には何かモヤモヤしたものが広がっていた。
(よりにもよって和ちゃんとはね……)
 真鍋 和。紬とは高校時代同じ学校。そして紬が入っていたバンドの事にも詳しい人物。更に、紬が家業を継ぐ理由となった少女の幼馴染みにして親友。いずれこの海上都市に来るであろう、かつての仲間達よりも厄介な相手かも知れない。

 紬がサングラスの女性から和の来島を教えられていた頃、当の和は<アイランド5>にあるとあるレストランにいた。セレスティアスシティポリス本部ビルの中を案内された後、空港から届けられた鞄を手に宿舎に行き、そこでノートンから食事の誘いを受けたのだ。特に断る理由もなかったし、ノートンには空港から本部へと送ってもらい、その上本部ビルの中を詳しく案内して貰ったのだ。そのお礼も兼ねて彼の誘いを受けたのだが、今はそれを少々後悔し始めていた。
「いや〜、ですからね、俺は思うんですよ。もっとね、みんな協力してやっていけないもんかって」
 もうすっかりノートンは酔っぱらってしまっていた。このレストランに来てまだ一時間も経っていないのに、完全に出来上がってしまっている。それほど酒類には強くないのだろう。にも関わらず和の前でいい格好でもしようと思ったのか、ワインを頼んでは飲み干し、また注文してすぐさま飲み干すと言う行為を繰り返してこうなってしまったのだ。おまけに酔いに任せて今のセレスティアスシティポリスに対する不満をグチグチと語り出す始末。
 和はいい加減帰りたくなってきていたのだが、さりとてこの様に完全に酔っぱらってしまっているノートンを一人置き去りにする訳にもいかず、仕方なしに彼の話に付き合っているという感じだった。
「大体どいつもこいつも変にプライドを持ちすぎなんですよ。みんな仲良くやりゃあもっと検挙率だって上がるし、犯罪の防止にだってなるだろうに」
 ちびちびとワイングラスに口を付け、少量ずつ注がれたワインを飲みながら和は適当に相づちを打つ。ノートンの話は半分ぐらい右から左へと聞き流しながら。何と言っても和はまだセレスティアスシティポリスに来たばかり、あまり変な先入観を持ちたくはない。
 だがノートンはまるで和の様子には気付いていないようで、ひたすら愚痴り続けていた。
「……あの時もそうだったんですよ。<アイランド1>の港湾ブロックで何かよくわからない爆発があったって通報を受けて出張ってみたらもうそこには<アイランド1>の分駐署の連中が来てて、捜査を始めてたんですよ。それだけならいいんですけどね、あそこのいかすけない禿親父がこっちに捜査資料をなかなか出しやがらない。で、こっちで色々と調べてみたらそこで二人程死人が出てるってわかって、しかもどっちも爆発で死んだんじゃなくて。おまけにその日には最近噂の骸骨の怪人が街中に出たって話まであって、もう大混乱ですよ」
「骸骨の怪人?」
 ノートンの漏らす愚痴の中に想定外のキーワードが出てきたので和は思わず聞き返してしまっていた。ずっとセレスティアスシティポリスの抱える問題に対する愚痴を言っていたはずなのに、突然現れた”骸骨の怪人”なる意味不明のキーワード。しかも最近噂になっているとまで言う。思わず聞き返してしまっても仕方ないだろう。
「ええ、そうですよ。いわゆる都市伝説って奴なんですかね。全身真っ黒のくせに頭だけが白い骸骨。そんなのが時々この<セレスティアスシティ>に現れて不幸を撒き散らしてるってそんな噂がね、あるんですよ。突然現れて、そしていつの間にかいなくなってるらしいんですけどね。目撃情報がネットとかで流れるんですけど本当にいるのかどうか。少なくても我々セレスティアスシティポリスはそんな怪人がいるなんて思ってはおりません。仮にいたとしても何処かの自己顕示欲の強い馬鹿がコスプレでもやってるんでしょうって事で」
 馬鹿馬鹿しい話だとノートンは笑う。それには和も同意せざるを得なかった。しかし、火のないところに煙は立たないと言うことわざもある。きっとその噂には元となる何かがあるのだろう。
 この時、彼女はその程度にしか思わなかった。まさかこの先その骸骨の怪人と大きく関わる事になるとは夢にも思わなかったのだ。

 すっかり酔いつぶれてしまったノートンに肩を貸しながら和は宿舎に向かって歩いていた。自分よりも体格の大きい彼を運ぶのはかなりの重労働であったが、それでもやはり置き去りにしておく訳にもいかず、とりあえずタクシーを見かけたら必ず捕まえようと思いながら彼を運んでいるのだ。
「まったく……弱いのならこんなに飲まなければいいのに」
 ブツブツ呟きながら和は頑張って歩いている。とりあえず次からは二人きりで食事などは止めておこうと決意しながら。
 しかし、なかなかタクシーが通りかからない。今彼女が歩いている通りはそれなりに大きい道が走っているのだが、交通量は決して多くはない。時間帯や位置的なものもあるのだろう。だが、このまま酔いつぶれたノートンに肩を貸しながら歩くのもかなり億劫な話だ。まだこの島に来たばかりでタクシー会社の電話番号もわからない以上、このまま行くしか方法がないのだが。
「参ったわね」
 そう呟き、ずり落ちそうになったノートンを支え直すと、前方に自動販売機があるのに気がついた。あそこで何か飲み物を買ってノートンに飲ませ、酔いを醒まさせよう。すぐさまそう決めた和はノートンをその場に座らせ、自動販売機に駆け寄っていった。
 その自動販売機で売られているジュースなどの銘柄にまったく見覚えが無かったが、とりあえずスポーツ飲料っぽいものを選び、それを購入する。よく冷えたその缶を片手にノートンの方へと戻るべく、足を踏み出した時だった。どこからか野獣の吼えるような声が聞こえてくるではないか。思わずびくりと身体を震わせてしまう和だったが、すぐさま周囲を確認するように見回した。
 この<セレスティアスシティ>はそのほとんどが人工島だ。それ故に野獣の類など動物園を除いては存在しない。だが、先程聞こえてきたのは明らかに野獣の吼える声だった。もしそんなものが野放しになっているのならば、放置しておく事は出来ない。何時一般市民がその野獣に襲われるかわからないからだ。
 和はすぐさま決意すると携帯電話を取り出した。連絡する先はセレスティアスシティポリス本部。一人で立ち向かうのは無謀なだけだ。相手の正体もわからないし、下手に一人で向かって怪我をしたら目も当てられない。
「……わかりました。それではお願いします。私は先に現状を確認しておきますので」
 それだけ言うと和は通話を切り、持っていたハンドバックを開ける。いつもならそこに護身用の拳銃が入っているのだが、生憎と今日はまだセレスティアスシティポリスに赴任して初日。まだ拳銃などは支給されていない。それを思い出して和は思わず舌打ちしてしまう。
「こんな事なら先に銃だけでも貰っておくべきだったわね」
 まさかこの<セレスティアスシティ>に来て一日目だというのに、何か妙な事に巻き込まれる事になるとは思っていなかったから、それはある意味仕方ないのだろう。しかし、相手が野獣の類ならば銃を持っていないと不安だし危険だ。様子を見に行くにしても、まず自分の身だけでも守れるようにしておかなければならないし、もし誰かが襲われていたら助けなければならない。その為にも銃は必要だった。
 短い時間で色々と考えたあげく、和はチラリとノートンの方を見やった。完全に酔いつぶれてしまっている彼は今歩道の上で大の字になって眠ってしまっている。あのままだと他の人の通行の邪魔になるだろう。放置しておく訳にはいかないが、先程から断続的に聞こえてくる野獣の吼える声を確認しにいくには、ここにおいていかざるを得ない。
「……そうだ!」
 和はノートンの側に歩み寄ると彼の身体を抱え上げて歩道の端へと座らせた。これで通行の邪魔にはならないはずだ。それから彼の上着をはだけ、ショルダーホルスターに収められている拳銃を取り出した。日本にいた頃、和が使用していたものよりも大きめの拳銃だったが、とりあえずそれをハンドバックの中に詰め込み、立ち上がる。
「ちょっと借りるわね」
 それだけ言い残すと和は野獣の吼える声が聞こえてくる方に向かって走り出す。応援がくるまでに場所の特定と、出来れば正体を見極めておきたい。人の悲鳴などは聞こえてこないから、まだ人的被害は出ていないようだが、それもいつまでの事かわからないのだからとにかく急ぐ。
 聞こえてくる野獣の吼える声を頼りに和が走り、辿り着いた先は薄暗い立体駐車場だった。薄暗いのは照明設備が整っていないからか。
 ハンドバックの中から拳銃を取りだし、それを手に周囲を警戒しながら和は立体駐車場の敷地内へと入っていく。駐車場の入り口にある管理人室を覗いてみるが、そこには誰もいなかった。
(まさか……?)
 電気がついている事から誰かいたのだろうと言う事はわかる。もしかした謎の野獣によって危害を加えられたのかも知れない。単なる危害で済めばいいのだが。最悪の予感が和の頭の中をよぎった。
 急ぎ足で、しかし慎重に立体駐車場の中へと入っていく和。少し大きめの拳銃を手に、周囲に気を配りながら野獣の声が聞こえる方へと向かう。
(……問題は、この声が本物の野獣とかだった場合ね……この銃だけじゃ押さえ込めないでしょうし)
 今彼女が持っている拳銃は以前日本で使用していたものよりも大きめと言っても、その口径はほとんど変わらない。違うのは装弾数ぐらいで威力もそう変わらないはずだ。この銃では、もしも野獣が大型のものだとその動きを止める事すら難しいだろう。
 とりあえずやるべき事は駐車場の管理人の安否の確認と野獣の所在の確認。余程の事がない限り自分だけで何とかするのは止めておくべきだ。改めて自分で確認し直し、和は上の階へと続く階段を上っていく。
 二階、三階と昇っていくが特に異常は見られない。続けて四階に足を踏み入れた時だった。階段室からすぐのところに一人の男性が倒れているのを見つけ、和は慌てて彼に駆け寄っていった。
「大丈夫ですか?」
 そう言いながら男性の側にしゃがみ込み、片手を口元に近づける。男性がちゃんと呼吸している事を確認すると、すぐに周囲を見回した。
 この場に男性が倒れていると言う事は、例の野獣もこの階にいる可能性が高い。今まで以上に警戒しながら和はゆっくりと立ち上がり、緊張のあまりゴクリと唾を飲み込んでから歩き出す。
 所々にある太い柱に身を隠しながら奥へと進んでいく。しかし、先程まで断続的に聞こえてきていた野獣の声が今は全然聞こえない。先程の男性は無傷でただ気絶しているだけだったから、彼を気絶させた後別の階へと逃げたのかも知れない。
(果たしてまだこの立体駐車場の中にいるのかしら……?)
 もしも本物の野獣だとしたら余程飢えていない限り人間を襲うような真似はしないだろう。こんなコンクリートで出来た場所を縄張りにするなどと言う事は考えづらいから、きっと何処かからか迷い込んできただけのはずだ。
 推測するに、何処かの好事家がハンティングの為かそれともペットにでもする為か、そう言った野獣の類を密輸したのだろう。だが管理が甘かったからそれが逃げ出して、ここに迷い込んだ。きっとそんなところに違いない。
 立体駐車場四階のフロアのほとんどを回ってみたが、結局野獣を見つける事は出来なかった。落胆半分安心半分と言ったところで和は階段の方へと戻っていく。一応念のために更に上の階もチェックしておくべきだろうと思ったからだ。
 階段室の近くまで来て、和はおかしな事に気付く。そこに倒れていた男性の姿がなかったのだ。特に怪我をした様子もなく、ただ気を失っていただけのようだったから意識を取り戻して逃げていったのかも知れない。だが、普通いきなり野獣に襲われてか何かして気を失ったのなら、目を覚ましてもパニックに陥るのではないだろうか。一つの声もあげず冷静にこの場を去る事など出来るのだろうか。
 男性が倒れていたはずの場所を見つめながら和がそんな事を考えていると、不意に後ろの方で何かが動く気配がした。すぐさま振り返り、同時に拳銃の銃口をそちらへと向けるがそこには何もいない。
(気の所為……違う……!)
 和は拳銃を構えたまま、少しずつ後ろへと下がり始めた。静かな、物音一つ聞こえないこの空間に明確に感じられる視線と殺気。何処かからかじっと和を、まるで肉食獣が獲物を見つけ、狙いを定めているかのような感じの視線が見つめている。
「……誰? 誰かいるのなら出てきなさい!」
 周辺に気を配りながら和が叫ぶ。相手が本当に野獣ならこれで逃げてもおかしくはないはずだ。そうでないのなら厄介だが。
 ゆっくり、ゆっくりと後退しながら和は緊張で喉が渇くのを感じていた。日本にいた頃にも何度か危険な目にあった事があるが、今はその時の比ではない。感じられるのは明確且つ濃密な殺意。こんなものを向けられた事など今まで一度もない。
(一体何なの……?)
 何でこんな殺意を向けられなければならないのか。私は今日この海上都市にやってきたばかりで、まだ何も知らないし、何処かの誰にも恨みなど買った覚えはないはずなのに。そう思いながらも和は自分を奮い立たせる。こんなところで死ぬ訳には行かないと。ある日突然失踪し、そして行方不明となった幼馴染みの姉妹を見つけ出すまでは絶対に死ぬ訳には行かないと。
 階段室までは後少しだ。そこまで行けば何とかなるような気がする。だが、相手に背を向ける訳には行かない。何時襲い掛かってくるかわからないからだ。だから一歩一歩、ゆっくりと後ろに下がるしかない。
 ジリジリと後ろに下がる和。と、何かが柱の影から柱の影へと物凄い速さで横切った。位置的には丁度彼女の真正面。
 迷うことなく和は引き金を引いた。パァンという破裂音が静かすぎるフロアに響き渡る。その音が消えきらないうちに何かが彼女の目の前に現れた。
 驚く彼女の手から持っていた拳銃を弾き飛ばすと、ドンと彼女を思いきり突き飛ばす。その力はかなり強烈で和の身体は易々と宙を舞った。後ろにあった壁に思い切り背中を打ち付け、そのままずるずると崩れ落ちそうになる彼女の首を何者かが掴み取る。
「ぐ……はっ!」
 万力のような力で首を掴まれ、和は苦悶の声を漏らした。背中を壁にぶつけた際に一瞬飛びかけた意識が首に掛かる圧迫感で何とか繋ぎ止められ、彼女は自分を襲ったものの正体を見極めようと目を開ける。
 そこにいたのは和がこのフロアに入ってきた時に見つけた男性だった。気を失って倒れていたはずのこの男性が、今和を殺そうとしている。
「あ……なたは……」
 一体何者なのか。それを問おうとするが、喉を圧迫されて声が出ない。このままだと窒息するか首の骨を折られてしまうだろう。何とか男性の手を引き剥がそうとするが、それなりに鍛えてあるとは言え、やはり女性の和の腕では敵わなかった。
「く……」
 首を押さえつけられている為、呼吸が出来ない。更に欠陥も圧迫されているのか頭に血が回らなくなってきている。段々遠のきかける和の意識。
(……唯と憂……見つける事が出来ないまま……死ぬなんて……)
 悔しさのあまり、和の目から涙が一筋こぼれ落ちた時だった。銀の閃光が走り、続いて和の首を押さえつけている男性の腕から大量の血が噴き出していく。
「グアアアアッ!!」
 その激痛に男性が大声を上げる。続けてすぐに和の首から手を放し、大きく後ろへと飛び退いた。
 男性の手から解放された和はそのまま壁づたいに腰を落とし、大きく咳き込んでしまう。先程まで呼吸が出来なくなっていたから仕方ないのだろう。
 そんな彼女の前に何者かが立ちはだかった。和を守るようにして、男性と正対する。
「貴様ァァァァァッ!!」
 和の前に立つ何者かを見て男性が吼えた。その咆吼の中に込められているのは先程腕を切り裂かれた事に対する怒りだけでは無さそうだ。まるで不倶戴天の敵を見つけたかのような、そんなニュアンスが込められている。
 まだ咳き込みながら和は何とか顔を上げる。涙混じりの目で自分の前に立っているのが何者であるかを確認する為だ。
 そこにいたのは全身を黒いコートで包み込んだ人間。手には黒いグローブ、足はプロテクター付きの黒いブーツ。その頭部だけはヘルメットでも被っているのかややくすんだ灰色っぽい。そして右手には一本の剣があった。
 普通の剣ではない。いわゆるジャマダハルと呼ばれる形の剣のだ。握りの部分がやたらと大きめになっているが、刀身はまるで腕の延長のように真っ直ぐと伸びている。
「死ねぇぇぇぇぇぇっ!!」
 再び男性が憎しみの籠もった叫びを上げる。
 その声に和が前を見ると、男性が近くにあった車からそのバンパーを引き千切って、こちらに向かって投げつけているのが見えた。そこそこ重量があるはずのバンパーをまるでキャッチボールでもするかのように容易く、そして尋常ではない速度で投げつけてくる。一体あの男性は何者なんだ。いや、そんな事よりも早くここから逃げなければあのバンパーで串刺しにされてしまう。
「……動かないで」
 ぼそりと聞こえてきた声に腰を浮かしかけていた和はその動きを止める。同時に目の前に立つ黒いコートの人物を見上げた。
 相変わらずの仁王立ち。ただその右手を振り上げ、飛んでくるバンパーに向かって一気に振り下ろす。その手に握られた剣が有り得ない速さで飛んできたバンパーを両断した。ほぼ真ん中の部分を切断されたバンパーが左右に分かれて、そのまま後ろの壁に突き刺さる。もし和が逃げようとしていれば、それが刺さっていたかも知れない。黒いコートの人物はそこまでわかっていて動くなと言ったのだろう。
「今度はこっちの番……!!」
 そう言って黒いコートの人物が右手を前に突き出し、その手を支えるように左手を添えながら走り出した。剣を前に突き出しながら男性に向かって突っ込んでいく。
 自分に向かって明確な殺意を持って突っ込んでくる黒いコートの人物を見た男性は先程バンパーを引き千切った車を両手で掴むとその車体を持ち上げる。ただの人間が車を持ち上げる事など出来ないだろう。鍛えに鍛え抜いた筋骨隆々の大男ならば不可能ではないかも知れないが、今車を持ち上げているのはその辺の何処にでもいそうなごく普通の体格の男性だ。はっきり言って有り得ない光景だ。
 一トンはあるであろう車体を持ち上げた男性は、それを黒いコートの人物に向かって投げつけた。物凄い勢いで車が宙を飛び、黒いコートの人物に迫っていく。
 自分に向かって迫り来る車をじっと見据えながら走り続けていた黒いコートの人物がタッと地を蹴ってジャンプする。そして飛んで来る車のボンネットを思い切り踏みつけた。
 有り得ない事に、たったそれだけの行為で飛んでいた車の、その進行方向のベクトルが変化した。車が前のめりになり、その後部が天井を向く。次の瞬間、黒いコートの人物の右腕が一閃した。その手に持たれた剣が床と垂直になった車を真っ二つに切り裂いていく。
「な、何ぃっ!?」
 驚きの声をあげたのは車を投げた男性だ。尋常ならざる力で車を投げつけたにも関わらず、相手はその車を踏みつけただけで停止させ、更には真っ二つに切り裂いてしまった。正直言って信じられない光景だ。
 それは後方でただ見ていることしかできていない和もまた同様。そもそも男性が車を持ち上げ、こちらに向かって投げつけてきた事自体信じられないし有り得ない光景だったのに、黒いコートの人物はその上を行くような事をやってのけたのだから。もはや驚きすぎて声も出てこない。
 呆然としている和と男性のほぼ真ん中、二つに分かたれた車が爆発を起こす。その爆発を背にしながら黒いコートの人物が男性へと突っ込んできた。爆風の勢いをかり、身体を回転させながら男性へと一直線。その右手にある剣が爆発の炎を受けてキラリと光る。
「くっ!!」
 このままここにいてはやられる。そう思うや否や、男性の身体は後方へと飛んでいた。直後、黒いコートの人物の持つ剣の切っ先が男性のいた場所を縦に切り裂いていた。後方へと飛び退くがもうちょっとでも遅ければ男性の身体も先程の車と同じように真っ二つにされていた事だろう。
「貴様ぁぁぁぁっ!!」
 剣を振り下ろした姿勢で着地した黒いコートの人物を睨み付け、男性が吼える。吼えながら首もとにかけられていたペンダントを取り出した。天使の羽根の下に小さなベルの取り付けられたペンダント。そのベルを男性は躊躇無く引き千切る。するとそのベルから超音波が発せられ、男性の身体に変化を与え始めた。
 全身の筋肉が盛り上がり、体格そのものが大きくなっていく。更に着ている服が破れ、その下から覗く肌にはふさふさとした体毛が生えてくる。その顔も人間のものから段々と猫科の猛獣を思わせる容貌へと変わり、その口からは鋭い牙が覗いている。
「グルルルル……」
 低い唸り声をあげるその姿は半身半獣の怪物だ。上半身を多う体毛が黒と黄色っぽいストライプ柄になっている事から、おそらくは虎の獣人なのだろう。
「グワァァァァァッ!!」
 虎男は大きく吼えると黒いコートの人物に向かって飛びかかった。先程までとは違い、今の彼には様々な武器がある。口の牙、手の先には鋭い爪、それに加えて全身を覆う筋肉の量も半端なものではない。先程車を持ち上げ、投げ飛ばした時以上の力をこの変化した肉体は持っているのだ。その肉体を持って黒いコートの人物に向かって弾丸のように一気に襲い掛かる。
 初めの一撃はその両手を組み、それをハンマーのように上から一気に振り下ろす。しかし、それは黒いコートの人物には当たらない。物凄い勢い且つ速さではあったが、黒いコートの人物はそれを予測していたらしく、素早く後ろへと跳び下がっていたからだ。だが、虎男の振り下ろした両手は床面のコンクリートを軽々と粉砕していた。車を持ち上げ、ぶん投げる事が出来るのだからこれ位出来て当然なのだろう。
 飛び散るコンクリート片をカモフラージュに再び虎男が床を蹴った。その右腕を大きく振り回し、黒いコートの人物の頭部を吹っ飛ばさんと横に薙ぐ。だが、それも黒いコートの人物には当たらない。まるで見ているかのように上体を後ろに反らして、ほんの数センチの距離でかわしてしまう。
 どうやらこの黒いコートの人物は尋常ならざる相手らしいと虎男が再確認すると同時に、その腹部に衝撃が走る。突っ込んでいった自分へカウンターのように黒いコートの人物が回し蹴りを叩き込んできたのだ。それがわかったのは思い切り吹っ飛ばされ、後方にあったコンクリートの柱に背中を強烈に叩きつけられてからだったが。
「グルルルル……!」
 威嚇するように低く唸りながら虎男は改めて黒いコートの人物を見やった。何者なのかはわからない。だが、一際異彩を放っているのはその頭部。髑髏を思わせる印象の仮面が頭部をすっぽり覆い、露出しているのは口元だけ。喉元を白いマフラーで隠し、肌が見えているのはそこだけだ。
「……闇の住人は」
 その口が開き、聞こえてきたのは明らかに女性のものだとわかる声だった。しかもまだ若い。おそらくは十代後半から二十代半ばぐらいだろうと推測される。しかし、そんな年齢の女性が変身し、体重も百キロを超えるような巨体となった自分を蹴り一発で吹っ飛ばす事が出来るのだろうか。
「闇に帰れ」
 虎男が髑髏の仮面を被った女の正体を考えていると、その髑髏の仮面が右手の剣を前に突き出しながら真っ直ぐに自分に突っ込んできた。そこに込められているのは必殺の決意。虎男を必ず殺すと言う恐ろしいまでの覚悟。
 真っ直ぐに突っ込んでくる髑髏の仮面に虎男はすぐ側に止めてあった軽自動車を持ち上げ、そして彼女に向かって放り投げる。先程も同じ事をやったが、あの時はあっさりと自動車を真っ二つにされ、何のダメージも与える事が出来なかった。今回もきっとダメージを与える事は出来ないだろうが、やる事の意味が違う。先程は殺す為、しかし今度は時間を稼ぐ為。髑髏の仮面の突進を妨げさえすればいいのだ。
 再び自分に向かって飛んでくる軽自動車を髑髏の仮面は右手の剣で叩き伏せるように真っ二つにした。しかし、その足は止まらない。真っ二つにした軽自動車の間を擦り抜けるように虎男へと向かってくる。
「グルァッ!?」
 自分の思惑とは違い、髑髏の仮面が止まらずに突っ込んでくるのを見て虎男が焦ったような声を漏らす。
「ハァァァァッ!」
 鋭い気合いの声と共に髑髏仮面の右手が一閃した。間一髪、ギリギリのところでかわす虎男だったが、その切っ先が彼の胸板を浅く切り裂き、血が噴出する。もう少し遅ければもっと深々と、下手をすれば心臓にも達していたかも知れない。かわせたのはひとえに動物的勘とこの肉体の持つ反射神経のお陰だ。
 髑髏仮面は目の前、今ならば捕まえる事が出来る。そう思い虎男が手を伸ばそうとするが、それよりも先に髑髏仮面のつま先が虎男の顎を打ち貫いていた。信じられない程重い衝撃が虎男の脳を揺さぶり、その巨体を持ち上げる。その次の瞬間、更なる衝撃が虎男の腹を襲った。思い切り吹っ飛ばされ、転落防止用のフェンスに叩きつけられる。
「グブハッ!」
 口から唾と息を吐き出しながら虎男は前のめりに倒れた。
 それを見た髑髏仮面が一歩一歩ゆっくりと虎男に向かって歩き出す。とどめを刺すつもりなのだろう。明らかな、そして無慈悲な殺意を倒れている虎男に向け、右手の剣を構え直す。
「……何故だ……?」
 虎男が倒れ伏したまま、髑髏仮面を見上げて問いかける。何故自分を殺そうとするのかわからないと言った風だ。
「何故? あなたがしてきた事を考えれば当然の報いじゃない?」
 さも当然という風に髑髏仮面が言ってのけた。髑髏の目の部分にある赤い目が無感情、無表情に虎男を見下ろしている。そこから感じられるのは殺意以外の何物でもなかった。
「当然の報いだと? 何を言う! 愚かで脆弱な者どもは我らが足下に平伏すべき者! 我ら選ばれし者が……」
「もう話す事なんか無い」
 虎男がまだ何か言おうとするのを遮りながら髑髏仮面は右腕を振り上げた。その先にある剣が虎男の頭蓋を砕く寸前、虎男は床に手をつき、まるでバネのように身体を跳ね上げ、髑髏仮面の振り下ろした剣をかわしてしまう。
「こんなところで殺されてたまるか!」
 髑髏仮面から大きく離れたところで着地した虎男はそう言い放つと、すぐさま転落防止用のフェンスをその怪力で引き千切り、そこに出来た穴から外へと飛び出していく。
 それを見た髑髏仮面もすぐさま近くのフェンスを右手の剣で切り裂き、そこから外へと飛び出していった。

 一人残された和は未だ呆然としたまま座り込んでいた。つい先程まで目の前で起こっていた事が理解出来ない。自分を襲った男性が突然虎のような姿に変貌し、自分を助けてくれた黒いコートの人物と戦っている。
 一体あの男性は何者なのか。いわゆるシェイプチェンジャー、ライカンスロープ、獣憑きの一種なのだろうか。そんなものがこの現実に存在するとはとてもじゃないが思えなかった。だが、実際にあの男性は目の前ではっきりとその身体を変化させたのだ。その一点だけでも頭の中で理解が追いつかない。
 それに黒いコートの人物もそうだ。聞こえてきた声からおそらくは女性だと言うことがわかったが、飛んできた車を足で踏み落とし、且つ一刀両断にしてしまうなどと言う有り得ない事をしてのけた。更には彼女よりも遙かに体格の大きい男性を蹴り一発で軽々と吹っ飛ばしてしまうなど、とてもではないが普通の女性では成し得ない事もやってみせたのだ。
 信じられないとばっさり切り捨てる事も出来る。これは夢なのだと逃避する事も出来る。しかし、目の前で起きていた事、起こっていた事は事実に他ならない。事実である以上、目を背ける事など和には出来なかった。
 フラフラと立ち上がると少し離れたところに落ちていた拳銃を拾い上げた。ノートンから勝手に借りてきたものだし、こんなところに拳銃を放り出したままにしていると後で何があるかわかったものではない。拾った拳銃を手に、和はフラフラと階段室へと向かった。
 虎に変化した男性と黒いコートの女性は共に転落防止用のフェンスに穴を開け、そこから外へと飛び出していった。だとすれば両者は地上にいるはずだ。先程までいたのは地上四階でそこそこの高さだったが、あの二人ならば地上に落ちたとしてもおそらく無事だろう。それだけの身体能力をあの二人は持っていると何故か確信出来ていた。
 未だふらつく足で何とか一階にまで下りてきた和は拳銃を構えながら立体駐車場の外へと出てきた。素早く周囲を見回すが何処にも虎男と黒いコートの女性の姿はない。少なくても彼女の視界の中にその二人の姿を見つける事は出来なかった。
「……もしかして……二人とも何処かに……」
 虎男も黒いコートの女性ももう何処かへと行ってしまったのかも知れない。四階から地上にまでふらつく足を何とか踏ん張って下りてきたのだから、結構時間がかかっている。だからもうこの場にあの二人がいなくてもおかしくはない。そう思って、和がため息をつき拳銃を下ろした時だった。
「ギャアアアッ!!」
 突然聞こえてきた絶叫、そしてそれに続いて爆発音。顔を上げると、立体駐車場の屋上で爆発が起こっているのが見えた。
「なっ!?」
 爆発によって起こる炎に二つの影が浮かび上がる。一つは虎男、もう一つは黒いコートの女性。
 あの二人がどうして立体駐車場の屋上にいるのか和には理解出来なかった。二人とも四階のフェンスを破って表に飛び出したのだ。常識的に考えれば重力に従って地上へと落ちるはず。にも関わらずあの二人は四階よりも更に上の屋上にいる。
 訳がわからない。この海上都市は地球上でもっとも未来に近い街と呼ばれているのに、最先端科学の粋を集めた街だと言われているのに、何であのような、人間から虎に変化するような男性がいたり、それと互角以上に戦えてしまう女性がいたりするのか。ここは人外魔境か。もはや完全に和の理解の範疇を越えてしまっている。
 ただただ呆然と見上げていると、屋上で動きがあった。黒いコートの女性が虎男に向かっていき、その右手を一閃させたのだ。銀の光が走り、直後虎男の前に突き出していた腕が消え失せる。直後、空に浮かぶ月の中に斬り飛ばされたのであろう虎男の腕のシルエットが浮かび上がった。それは回転しながら地上へ、和の前へと落ちてくる。
「ひぃっ!」
 目の前に落ちてきた腕を見て、和が短く悲鳴を上げる。今まで何度と無く陰惨な死体などを見てきた事があるが、それとこれとはやはり別だ。たった今斬り落とされ、まだ生きているようにピクピクと痙攣する腕。何とも言えない光景だ。
 ピクピク震えている腕から目を離すように和は再び屋上を見上げた。既に爆発は収まっている。だが、彼女の目にははっきりと見えた。黒いコートの女性が虎男の腹を蹴り飛ばし、軽く吹っ飛ばしたところに右手を突き出すところを。その右手に持たれている剣が虎男の腹部を貫き、その背中へと突き抜けていく瞬間を。
「グフワァッ!!」
 再び聞こえてくる虎男の絶叫。今度は先程よりも短く、そして更に絶望的なものだった。おそらくは今の一撃は致命傷になったに違いない。和の位置から見ても黒いコートの女性の右手から真っ直ぐに伸びている剣は虎男の心臓を確実に貫いている。どれだけ虎男がタフだったとしても心臓を貫かれてはもうどうしようもないはずだ。
 黒いコートの女性がゆっくりと右手の剣を虎男の身体から引き抜いていく。その傷口から迸る血を浴びながらも、彼女はじっと虎男を見据えていた。まさかあの虎男があそこから反撃出来るはずがない。しかし、彼女はそれを警戒しているのか。
 地上にいる和が固唾を呑んで見守っていると、黒いコートの女性が右手の剣の刀身を折り畳んだ。丁度刀身が腕の下の来るよう形にすると、今度はそのまま右手を虎男へと向ける。次の瞬間、彼女の右手から何かが発射され、虎男に命中すると今までとは比較にならない爆発が起きた。
「きゃあっ!」
 思わず悲鳴を上げて踞ってしまう和。彼女が次に顔を上げた時、立体駐車場の屋上にはもう誰の姿もなかった。虎男の姿も、黒いコートの女性の姿も、何もかも。あるのは爆発により上がる炎と黒煙だけ。
「……あれは……」
 夢ではない。だが、夢だと思いたかった。あまりにも荒唐無稽で信じられなさ過ぎる。この話を誰かにしてもきっと信じて貰えないに違いない。虎のような姿に変身する男、それと互角に戦う黒いコートの女性。何処のファンタジーだ。
 ふと和は足下に落ちている腕に気付いた。虎男が黒いコートの女性に斬り飛ばされた腕だ。先程まではピクピクと痙攣していたのだが、今はそれも収まりぐったりとしている。更に落ちてきた時は毛むくじゃらで筋肉質だったのが、今は毛もなくほっそりとした腕に変わっていた。
「……一体……何だったのかしら?」
 そっとしゃがみ込み、和は腕に手を伸ばす。ごく普通の腕としか思えない。だが、この腕は先程までは別物と言ってもいいものだったのだ。
 しゃがんだ姿勢のまま、再び和が顔を上げると立体駐車場の屋上、その一番角のところに黒いコートの人物が立っているのが見えた。彼女はそこからじっと和の方を見下ろしているようだ。そしてこの時になって初めて和は黒いコートの女性が髑髏のようなフルフェイスの仮面を被っている事に気がついた。
「……!!」
 ノートンがレストランで言っていた骸骨の怪人とは彼女の事なのだろうか。だがその特徴はノートンの話とぴったり当てはまる。全身を黒いコートで包み、その頭部は白い骸骨。彼女がこの<セレスティアスシティ>に不幸を撒き散らしているという都市伝説の正体なのだろうか。
 黒いコートに髑髏の仮面を被った女性の赤い目と和の視線が交錯する。距離的に遠かったので目のあまりよくない和にはわからなかったが、この時髑髏の仮面の女性の唯一露出している口元が笑みを形作った。そして、彼女はすっと消えてしまう。おそらくは和からは見えない位置へと移動したのだろう。
 和はただ、ぼんやりと黒いコートの女性が立っていた場所を見続けていた。

To be continued...

THE Lady S
1st Episode:Dancing in the Dark―闇と踊れ―
The END

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