吹く荒ぶ風が漆黒のコートの襟や裾をはためかせる。
 見下ろせば眼下に広がるコンクリートジャングル、夜も眠らない街がそこにはあった。その明かりの所為だろうか、この街で最も高いビルの屋上にいるにも関わらず、空には星が見えない。時折見える光は上空を飛ぶジェット機のものだろう。
 地球上でもっとも未来に近い街――誰がそう呼んだのかは知らないが、それは事実なのかも知れない。およそ想像しうる最先端の科学の粋がこの街には溢れているからだ。だが、それは科学と相反するものを遠ざけることと同義である。故にこの街には人工の自然しかない。明らかに矛盾しているのだが、この街で見かける樹木や流れる川、土に至っても天然自然のものではなかった。全てが最先端科学による代物。言ってみれば偽りのものなのだ。
 果たして未来とはこんなに歪なものなのだろうか。
 ふとそんなことを考え、すぐに馬鹿馬鹿しいと頭の中から切り捨てる。例えそこにあるものが天然自然のものであろうが、最先端科学によって人工的に生み出されたものであろうが、どちらでも構わない。それがどう言ったものであろうと、そこで人は生まれ、成長し、そして死んでいく。その事実に揺るぎはない。過去も未来も、そして現在も、それが変わることなど有り得ないだろう。
『……お姉ちゃん、聞こえる?』
 何でこんな事を考えているのか自分でもわからず、ちょっと自嘲めいたものを浮かべていると、耳に声が飛び込んできた。通信機越しなので少しかすれているが、それが誰のものなのか考えるまでもない。自分のことを”お姉ちゃん”と呼ぶ人間など他にはいないのだから。
「聞こえてるよ。見つかったの?」
 出来るだけ短く、そして出来るだけ感情を込めずに問い返す。今からやらなければならないこと、それに集中する為に。冷たい氷のように冷酷に、冷えた鋼で作った刃のように冷徹に。他の感情は必要ない。
『見つかったよ。エリアB−32。そこにいるから』
「……わかった」
 返事をするのに少し間が空いたのは、頭の中で思い浮かべた地図と伝えられた場所の照合をしていた為。だがそれはすぐに終わる。
「すぐに片付ける」
 本当に短く、伝えるべき事だけを伝えて通信を終了させると、一歩前へと踏み出した。だがそこには何もない。自然、身体が宙に投げ出され、落下していく。超高層ビル――地上70階はあろうビルの屋上から、遙か下の地上へと真っ逆様。このまま落ちれば地面にぶつかって血と内臓、肉片と脳漿を無様にぶちまけることになるだろう。
 しかし、そうなるつもりは微塵もなかった。単に階段やエレベーターなどで地上に降りる手間を省いただけのこと。さっと左腕を上げるとコートの袖の下から細長いワイヤーのものが射出される。その先端には鋼鉄製の鏃が取り付けられており、その鏃が隣のビルの壁面へと突き刺さった。そこを支点に大きく振り子のように彼女の身体は空中を旋回し、それから地面へ、飛び降りた超高層ビルと鏃付きのワイヤーを突き刺したビルとの間の路地へと降り立った。
 軽く左手でワイヤーを掴んで引っ張ると、何故かあっさりと鏃がビルの壁面から抜け落ちる。その後、おそらく小型のウインチでもあるのか自動的に巻き戻ってきたワイヤーを回収すると、彼女は近くに止めてあった漆黒のバイクへと歩み寄った。
 一目見ただけでも市販されているものとは違うことがわかる。全てが漆黒一色で染め上げられ、闇の中に溶け込んでしまいそうなボディ。何処のメーカーのものかはまるでわからない。前方のカウルも丸みを帯びた流線型ではなく、風を切り裂く為とでも言わんばかりの鋭角的なものになっており、その厳つさを強調している。そのカウルのもっとも前方の部分、丁度真正面に当たる部分には髑髏の徽章が取り付けられていた。
 そのマシンに跨り、エンジンを始動させる。漆黒のマシンのエンジンはスムーズにかかり、二、三度アクセルを回して空吹かしをした後、ギヤを変えてそのマシンを発進させた。
 低く唸るようなエンジン音を轟かせながら路地から飛び出していく漆黒のマシン。周囲のことなど何も考えていないかのように、あまりにも急激に飛び出してきた為、道路を走っていた車が急ブレーキをかけてスピンする。そのまま歩道に乗り上げてしまったが、幸いにして通行人にぶつかったりすることはなかった。ただ、その車が止まったのはビルの一階に入っているブティックのショーウィンドウをぶち破ってからだった。もうとっくの昔に閉店時間を過ぎていた為、店の中に誰もいなかったが、飛び散ったガラス片と中にまで突っ込んだ車体の為に店の中はぐちゃぐちゃだ。被害額を考えただけでもこの店の人間は卒倒してしまうかも知れない。
 一方、そんな事故が起きていることなどまるで気にすることなく漆黒のマシンは走行する車の間を縫うように進んでいた。周りのことなど一切考えない。いきなり横合いに出現し、追い抜いていく漆黒のマシンとそれを操る彼女の姿を見て運転手がハンドル操作を誤り、隣や後続の車にぶつかる事故を起こしても振り返りもせずに、更にアクセルを回して漆黒のマシンの速度を上げていく。

 光溢れる市街地から少し離れた港湾部。流石に街の光はここまで届かず、全体的に薄暗い。
 そんな港湾部の一角にある倉庫街を一組の男女が必死に走っていた。着ているものはボロボロ、露出している身体も汚れている。その汚れに隠れてわかりにくくなっているが、あちこちに傷跡があった。
 いつからこうして走り続けているのか、二人ともかなり呼吸が乱れている。足下も覚束ない。体力の限界が近いのだろう。少し気を抜けば倒れ込んでしまいそうな程に。それでも二人は立ち止まろうとはしなかった。止まったらもう二度と再び走ることが出来ないと思っているのか。それとも何者かに追われているというのか。二人の後方を見ても、特に追いかけているような人物はいない。
「頑張れ! 後ちょっとだから!」
 前方を走る男が少し遅れてきている女に向かって声をかけた。女の方は息が上がってしまっていて答えるどころではなかったが、それでも必死に頷いてみせる。
 二人が向かっている先には大きな貨物船がある。出航予定日は明日の朝。向かう先は遙か海外。あれに乗り込んでさえしまえば、今のこの地獄から逃れることが出来る。そう信じて、二人は最後の力を振り絞って走った。
 運のいいことにタラップの周りには誰の姿もない。このまま貨物船に乗り込み、何処かの船室にでも隠れてしまえば大丈夫なはずだ。そう思って二人がタラップを昇りかけた時だった。突如二人の背後から白い糸のようなものが飛んできて、後ろにいた女の身体を拘束してしまう。
「きゃあっ!?」
 あまりにも突然で、そして後少しで逃げられると言う安堵から来るほんの少しの気のゆるみをつかれ、女はタラップから転げ落ちてしまう。その悲鳴を聞いて男が足を止めて振り返った。
「どうし……ああっ!?」
 女を気遣う声をかけようとして、男は驚きの声をあげた。女の身体を拘束する白い糸を見て、顔面蒼白になる。
「あ……ああ……あああっ!」
 男が恐怖に怯えた声をあげつつ、一歩ずつ女から遠ざかっていく。ここにいては危ない。早く船の中に逃げ込まなければ。危機感と生存本能が彼の身体を突き動かした。助けを求めるように男を見上げる女をそこに残し、男は逃げるようにタラップを駆け上がっていく。
「うわあああっ!!」
 情けない、無様とも言える声をあげながら男が船の中へと駆け込もうとした。後ちょっとで甲板に辿り着く。そう思って手を伸ばすが、その前にひらりと何かが舞い降りてきた。
「我々の手から逃れることが出来るとでも思ったか、愚か者め」
 男の目の前に降り立ったのは不気味な蜘蛛を思わせる仮面を付けた細身の人影。その声からこの人影が辛うじて女性だと言うことがわかる。かなり低く抑え、更に抑揚のない声だったので、はっきりとした自信は持てなかったが。
「うああ……」
 男の顔が恐怖に歪む。目の前にいる蜘蛛の仮面を被った女は地獄からの死者、罪無き弱き自分たちの命を刈り取る死神だ。その目に魅入られてしまったら、待っているものは死だけ。
「うわあああっ!!」
 再び叫び声を上げ、男がくるりと蜘蛛の仮面の女に背を向けてタラップを駆け下りていく。やっていることは無駄な足掻きだと男もわかっている。だが、それでも足が勝手に動いたのだ。
「……愚かな」
 蜘蛛の仮面の女はそう呟くと身体を屈めて大きくジャンプした。空中で一回転すると逃げる男の頭上へと降り立つ。
「おとなしく……死ね」
 呟くように静かに、しかしやはり低く抑えた抑揚のない声でそう言い、蜘蛛の仮面を付けた女が男の頭上で身体を半回転させる。丁度頭頂部を踏みつけていた足が天に向かって伸ばされ、男の頭上で逆立ちしているような形だ。
 蜘蛛の仮面を付けた女はニヤリと笑うと、男の頭頂部においていた右手をすっと外した。その指先には鋭く、そして長く伸びた爪が生えており、その爪を長い舌でぺろりと舐める。それからその爪を男の首に這わし、一気に引き裂いた。
「ぐはっ……」
 大量の血が男の引き裂かれた首から噴出する。それはさながら噴水のようだ。ただ、噴水と違うのは噴き出しているのが水ではなく男の血だと言うこと。噴き出した血が大きくアーチを描き、下で倒れている女の上にも降りかかる。
「あああ……」
 女は倒れたまま、呆然とした顔で首から大量の血を噴き出し続けている男とその上で逆立ちしている蜘蛛の仮面を付けた女を見上げている。身体を白い糸で拘束されている為に逃げることが出来ない。降りかかる血もそのままにするしかない。顔だけではなく、拘束されている身体中も赤く染まりながら、女はこの先確実に来るであろう自らの運命を思った。
 男が死んだ後は自分の番。あの蜘蛛の仮面を付けた女は絶対に自分を逃がそうとはしないだろう。拘束しているのだから当然だ。むしろ拘束したのは男が死んでいく様を見せつけ、絶望させる為か。もしそうならば、効果は抜群だ。女は今、自分に着実に迫りつつある死に恐怖し、絶望しているのだから。
 女が恐怖の為に、絶望の為に涙を零すのを見ながら蜘蛛の仮面を付けた女は男の頭上から降り立った。もはや噴出する血の量は少なく、男は確実に絶命しているだろう。蜘蛛の仮面を付けた女は男の身体をドンと突き飛ばし、それから女の方を振り返った。その後ろで命を無くした男の身体が海中へと落ちていく。
 蜘蛛の仮面を付けた女は男が海中に没する音を気にすることもなく、右手の爪を舌で舐めながら、男の血で真っ赤に染まった白い糸で拘束されている女の元へと近寄っていく。
「フフフ……いいねぇ、その恐怖と絶望に歪んだ顔……美しいよ」
 何故か口元を嬉しそうに歪め、蜘蛛の仮面を付けた女が赤く血に染まった糸で拘束されている女の側に歩み寄る。女の恐怖で歪む顔をよく見る為に、その側にしゃがみ込んだ。爪のない左手で女の涙の流れている頬を愛おしげに撫でさする。それから鋭い爪のある右手を振り上げた。
 恐怖のあまり女の目が大きく見開かれるのを、半ば恍惚とした表情で見下ろしながら、右手を振り下ろす。鋭い爪が女の胸を、だが決してそれだけで死に至る箇所を外して貫いていく。
 一撃で死に至らしめなかったのは、女の自らが死に至るその恐怖の表情を、その絶望の表情を見たいが為。胸から流れ出る血で女の顔色が青く、そして土気色に変わっていくのを見ていたいが為。
 おそらく、いや、間違いなく蜘蛛の仮面を付けた女はサディストなのだろう。女が死んでいく様を嬉々として見つめているのだから。
 女が着実に死へのカウントダウンを進めているのをニヤニヤしながら見下ろしていた蜘蛛の仮面の女だったが、その耳が何かが風を切るような音を捉え、すぐさまその場を飛び退いた。次の瞬間、蜘蛛の仮面を付けた女のいた場所を黒光りする何かが通り抜けていく。
 それは黒い刀身を持つ両刃のナイフ。投擲したとはとても思えない、有り得ない速度で通過したナイフはつい一瞬前まで蜘蛛の仮面を付けた女のいた空間を切り裂くように通り抜け、そのままコンクリートで固められた地面に突き刺さる。
「……!!」
 地面に突き刺さったナイフの柄の一番後ろに取り付けられている髑髏を模したレリーフを見て、蜘蛛の仮面を付けた女に驚愕と戦慄が走る。そしてすぐさまナイフの飛んできた方向へと振り返った。しかし、その顔面を眩い光が照らし出し、思わず手で顔を押さえてしまう。
「……!?」
 何らかのライトで照らされているのだと言うことは、聞こえてくる低いエンジン音でわかる。そして、何者が自分を照らしているのかも大体わかっていた。
「……流石、悪趣味だ」
 そんな声がエンジン音の聞こえてくる方向から聞こえてきた。感情を込めない、冷たい声。それだけで蜘蛛の仮面を付けた女は相手が何者であるかを判断していた。
「貴様……まだ生きていたか。我らに刃向かう愚かな虫けらの分際で」
 ようやく光に慣れてきたのか、蜘蛛の仮面を付けた女が手を顔の前から下ろす。
 彼女の前にいたのは漆黒のマシンに跨った、黒いコート。マシンのライトが邪魔ではっきりとはわからないが、首もとを白いスカーフで包み、そこにも髑髏の徽章が留められている。そしてその上、頭部には少しくすんだ灰色の髑髏。正確に言うならば、髑髏を模した仮面だ。眼窩にある赤い目が無感情に蜘蛛の仮面を付けた女を見据えている。
「丁度いい。ここで貴様を殺せば……ぐっ!?」
 口元を歪めてニヤリと笑いかけた蜘蛛の仮面を付けた女の左肩に鋭い痛みが走る。見ると、左肩に黒い刀身のナイフが突き刺さっていた。柄の後ろに髑髏のレリーフの取り付けられたものだ。
 一体何時投げたのか。蜘蛛の仮面を付けた女は正面にいる髑髏の仮面をずっと見ていた。その手が動いた様子はない。ナイフを取り出す素振りさえしていなかったはずなのに。
「意外とお喋りなんだ。でも、そんな暇はないと思うよ」
 頭部を覆う髑髏の仮面で唯一剥き出しになっている口元が歪む。笑っているのだ。ナイフの一本すらかわせなかった蜘蛛の仮面を付けた女の事を。
「貴様ぁっ! 虫けらの分際でぇっ!!」
 カッと頭に血が上ったらしい蜘蛛の仮面を付けた女が左肩に刺さるナイフをそのままに髑髏の仮面に向かって飛びかかっていった。だが、それこそが髑髏の仮面の待っていた展開だとすぐに彼女は思い知ることになる。髑髏の仮面がハンドルを持つと同時にアクセルを回し、前輪を跳ね上げながら前へと突進してきたからだ。
 自分の失敗を悟ってももう遅い。蜘蛛の仮面を付けた女は自ら飛び込むような形で漆黒のマシンの前輪にその顔面を叩きつけられてしまう。更に質量的なものでも速度でも圧倒的に漆黒のマシンの方が上だった為に、無様に吹き飛ばされてしまった。
「ぐはっ!」
 一回地面に叩きつけられ、バウンドしてから蜘蛛の仮面を付けた女は立ち上がる。漆黒のバイクの前輪とぶつかった時の衝撃が大きかったのか、その仮面にはひびが入っていた。更に剥き出しになっている口の端、辛うじて仮面に隠れている鼻から血が流れ落ちている。
「おのれ!!」
 さっと左手で流れる血を拭い、蜘蛛の仮面を付けた女は右手を髑髏の仮面に向かって突き出した。その掌から白い糸が飛び出していく。先程、逃亡者の女を拘束したものと同じものだ。
 しかし、髑髏の仮面は右へ左へと漆黒のマシンを動かし、自分を拘束しようと飛んでくる白い糸を次々とかわしていく。わざわざ射出しますよと言わんばかりに掌を向けてくれているのだから、かわすのは造作もない。あっと言う間に距離を詰め、ハンドルから放した左手で蜘蛛の仮面を付けた女を殴り飛ばす。
 黒いコートと同じくその手には黒いグローブがはめられており、更にパンチの威力を増す為のものであろう鋼鉄製のナックルダスターがはめられていた。そこに漆黒のマシンの加速も加わり、そのパンチの威力は物凄いものとなっている。普通の人間がこのパンチを喰らえば鼻骨はおろか顔面すら陥没してしまいかねない程。
 再び吹っ飛ばされ、地面に倒れる蜘蛛の仮面を付けた女。
 彼女を尻目に髑髏の仮面は少し距離を取ってから漆黒のマシンを停止させた。そしてゆっくりと振り返る。そこでは蜘蛛の仮面を付けた女がゆらりと立ち上がろうとしていた。
「この……虫けらがっ!!」
 髑髏の仮面の方を振り返り、そう蜘蛛の仮面を付けた女が吼える。その声に含まれているのは怒り。虫けらと見下していた相手が二度も自分を地面に叩きつけたことに対する屈辱。そして、絶対にこの髑髏の仮面を殺すと言う暗く、激しい決意。
 と、先に受けた一撃の時にひびの入っていた仮面の一部が再びの強烈な一撃の為に砕け落ちた。その為、蜘蛛の仮面を付けた女の顔の半分くらいが露わになる。普通ならば充分美しいと言える顔立ちなのだろう。だが、今は憎悪と激しい怒りにその美貌は歪み、まるで夜叉のようだ。更にその目も普通の人間のものとは違い、昆虫を思わせる複眼になっている。
 まさしく異形――そう言って間違いない。そこにいるのは蜘蛛の仮面を付けた人間の女ではなく、蜘蛛の仮面でその正体を隠していた異形の女。
 蜘蛛の仮面を付けた女は自らの正体の一端を明かしながら、髑髏の仮面を睨み付けた。だが、髑髏の仮面は微動だにしない。
「殺す! 殺す! お前は殺すぅぅっ!!」
 再びそう吼えると、蜘蛛の仮面を付けた女は胸元から小さなペンダントを取り出した。小さなベルの上に天使の羽根がデザインされたもの。そのベルの部分を持ち、一気に引き千切る。すると、その引き千切られたベルの部分からほとんど人には聞こえない音波が流れ、それを受けて蜘蛛の仮面を付けた女の姿が変貌し始めた。
 身体が一回り程大きくなり、その背中から着ている服を突き破って四本の腕が生えてくる。割れた蜘蛛を模した仮面の隙間から覗く額には第三の目が現れ、そして口には鋭い牙が伸び、更に異形の度合いを増していく。その姿はさながら二本の足で直立する蜘蛛。もはや人ではない。
 そんな異形へと変貌した女を髑髏の仮面は、やはり微動だにすることなくじっと見つめていた。驚くこともなく、何の感情も窺うことの出来ない人工の赤い目で、ただじっと女が変貌を遂げる様を見つめている。
「死ぃぃぃぃねぇぇぇぇぇぇっ!!!」
 完全に蜘蛛の化け物へと変貌し終えた女がそう叫びながら髑髏の仮面に向かってジャンプした。身体が大きくなった分、筋肉の量も増加したのだろう。いや、それ以前にその身体能力も蜘蛛のものと近くなったのか、有り得ない程の速さと高さ。一気に真上から髑髏の仮面に向かって襲い掛かろうとする。
 それに対して髑髏の仮面は、何のアクションも起こさなかった。逃げる訳でもなく、反撃する訳でもなく、ただじっとその場に佇み続けている。その姿はまるで観念したかのように。蜘蛛の化け物と化した女に押し潰されてもいいと言わんばかりに。
 だが、そうではない。髑髏の仮面が動かないのには訳があった。いや、動く必要がなかったのだ。
 自由落下を続け、髑髏の仮面を押し潰さんとする蜘蛛女。その左肩で突如爆発が起こった。小さな爆発ではない。かなり大きな爆発だ。その運動エネルギーが蜘蛛女を右方向へと吹っ飛ばす。
 一体何が起こったのか、蜘蛛女には一瞬理解出来なかった。訳がわからないまま、またしても地面に叩きつけられ、更に身体の左側から感じる、想像を絶する激痛にその異形となった顔を歪ませる。
「ぐあああ……」
 痛みに耐えながら何とか身体を起こそうとするが、左腕が何の反応も示さない。恐る恐るそっちを見ると、左腕が三本とも綺麗に吹っ飛ばされてなくなっていた。だが、血は流れていない。よく見ると、そこは既に炭化していた。爆発の、その火力が左腕を吹き飛ばし、そして一気に傷口を炭化させてしまったのだ。
「ギャアアアアッ!!」
 失われた三本の左腕のあった場所を見て蜘蛛女が悲鳴を上げる。右腕だけで何とか立ち上がろうとしたが、今度は左足に力が入らず、その場に倒れてしまう。慌てて左足を見てみると、その太股の肉の大半がそげ落ちており、中の骨が剥き出しになっていた。
「……痛いでしょ?」
 そんな声が聞こえてきたので振り返ってみると、いつの間にか漆黒のマシンから降りた髑髏の仮面がすぐ側まで来てじっと蜘蛛女を見下ろしていた。その声には何もない。哀れみも蔑みも、怒りや憎しみも、何一つ感情のこもらない、まるで機械のような声。わかるのはその声質から髑髏の仮面を被っているのが女だと言うことだけ。
 蜘蛛女は髑髏の仮面がこれほどまで無防備に近付いてきたのは自分にもう戦うだけの力が残っていないと思っているからだと判断した。だが、そうではない。自分にはまだ右腕が残っている。三本とも、その指の先には一撃で髑髏の仮面の女を殺せるだけの威力を秘めた鋭い爪が生えている。この右腕で髑髏の仮面の女を殺し、すぐに戻れば治療して貰えるかも知れない。そう考え、口元が歪んだ。
「……死ねっ!!」
 言うが早いか、蜘蛛女の右腕が髑髏の仮面に向かって動いた。一番上の腕は首筋、二番目の腕は胸元、三番目の腕が腹部を狙い、それぞれ切り裂こうと。だが、実際動いたのは一番上の腕だけ。しかもその一撃は、まるでそうしてくるだろうとわかっていたかのように髑髏の仮面の左腕で受け止められてしまう。
「なっ!?」
 蜘蛛女の口から漏れる驚きの声。右手の先に生えている鋭い爪は、その腕力も相まって鋼鉄すら切り裂くことの出来る、そう言った代物だ。単に腕で受け止めただけなら、その腕の方がずたずたに切り裂かれてしまう。にも関わらず髑髏の仮面は何事もなかったかのように、易々とその爪を受け止めたのだ。驚いて当然だろう。
 髑髏の仮面は驚きの表情を浮かべる蜘蛛女を一瞥すると、右手の裾から一本の、大振りのナイフを取り出した。そのサイズは尋常のものではない。刃渡りは三十センチを超え、その刀身も並のものよりも分厚い。更にその柄にはナックルガードも取り付けられていて、それ自体が鈍器のようになっていた。
 着ているコートや乗っていた漆黒のマシンに合わせたかのように刀身まで黒いそのナイフを一閃し、左腕で受け止めたままの蜘蛛女の腕を斬りつける髑髏の仮面。バターに熱したナイフを入れるかのように、黒光りする刀身は強化されたはずの蜘蛛女の手首をいとも容易く切り裂いた。
「ギャアアアッ!!」
 唯一動いていた右手の手首から先を失い、悲鳴と言うにはあまりにも壮絶な叫び声を上げる蜘蛛女。斬り落とされたその手首から先の部分が地面に落ち、ピクピク痙攣しているのを足で踏みつけ、髑髏の仮面は逆手に持ったナイフを振り上げた。
「闇に帰れ、闇の住人」
 そう言うと、何の容赦も、何の躊躇いも、そして迷いすらも無しに一気にそのナイフを蜘蛛女の額に浮かぶ第三の目へと振り下ろした。黒い刃が蜘蛛女の頭部を覆う仮面を突き破り、額に浮かぶ第三の目を切り裂き、その下の頭蓋を打ち貫き、脳髄へと達する。その瞬間、蜘蛛女の身体が大きく痙攣した。だが、それもすぐに収まり、蜘蛛女の身体がぐったりと地面に横たわる。
 ピクリとも動かなくなった蜘蛛女の頭部からナイフを引き抜き、その刀身についたどす黒い血をさっと振り払うと髑髏の仮面はそのナイフを取りだした右袖の中に収納した。それから左腕をくいっと引っ張り、蜘蛛女の残る二本の腕を絡め取り、そして地面へと縫いつけていたワイヤーを回収する。
 完全に蜘蛛女が息絶えていることを確認すると、髑髏の仮面は徐に一本のナイフを取りだした。蜘蛛女の右手首を奪い、とどめを刺したものとは違う。一番初めに蜘蛛女の注意を引き、更に続いてその左肩に突き刺さった両刃の、柄の後ろに髑髏のレリーフのあるナイフだ。そのナイフをもはや物言わぬ肉塊と化した蜘蛛女の胸に深々と突き刺し、髑髏の仮面は漆黒のマシンへと歩き出した。
 丁度、髑髏の仮面が漆黒のマシンの元に辿り着いた時、突如爆発が起こる。爆発の中心地は蜘蛛女が倒れていた場所。どうやらあのナイフには爆薬が仕込まれていたらしい。しかもかなり高性能且つ高威力の。
 爆発の炎の中で蜘蛛女の死体が焼かれていく。何の感情も窺うことの出来ない赤い目がじっとその様を見つめていたが、やがて遠くから聞こえてきたサイレンの音に髑髏の仮面は漆黒のマシンのエンジンを始動させた。
 目的は果たした。これ以上ここにいる意味はない。
 物凄いスピードで漆黒のマシンを発進させる髑髏の仮面。途中、とある貨物船へと続くタラップの下に血まみれで倒れている女の姿が目に入ったが、一瞥しただけであっさりと通り過ぎていった。あの出血量ではもはや助かる見込みはないだろう。いや、どちらかと言うともう死んでいるかも知れないし、わざわざ助ける義理も意味もない。
 薄暗い港湾部を抜け、漆黒のマシンと共に髑髏の仮面は闇の中へと消えていくのだった。

 地球上でもっとも未来に近い街――日本の領海のギリギリ外側にある小さな島を中心に、その周囲を八つの人工島で囲んだ海上都市を人々はそう呼んでいる。日本のみならずヨーロッパやアメリカなど世界中の大企業が集ってこの島を開発、現状で考え得る最先端の科学を惜しみなく用いて作り上げられたこの島は特別経済区と言うこともあり、一旦完成を見た後も様々な企業や金融機関が参入し拡張が続けられている。今は新たな人工島、九つ目の島が中国に本社を持つ企業が主導となって建設の真っ最中だ。
 しかし、光があれば影も勿論出来る。
 表向きは最先端科学の研究都市、新たな金融と情報の発信地、そして様々な娯楽の集う高級リゾート地。だが、その一方で一攫千金を夢見てこの島に来たもののその夢が破れ、さりとて国に戻ることも出来ずにこの島に住まざるを得なくなった者や建設作業員としてこの島にやってきてそのまま住み着いてしまった者などが貧民層となり、この島の古い区画に勝手に住み着きスラムを為して、そこが犯罪の温床となっている。更にこの島がもたらす巨大な利益を求めて犯罪シンジケートなども何時しか島にやってきて、この島の繁栄の影で暗躍しているのだ。その他にも企業同士の研究や開発の競争、様々な人がこの島に集う為に起こる人種問題や宗教問題。この島は言ってみれば地球の縮図と化していた。
 地球上でもっとも未来に近い街――この街が将来の地球ならば発達するのは科学技術だけで人間そのものはほとんど変わらないと言うことの皮肉なのだろうか。
 地球上でもっとも未来に近い街<セレスティアスシティ>――この島は今日も人々の希望と欲望を受けて成長を続けている。

 東京――とある街角にある喫茶店。店内は全体的に木製のアンティークで統一され、流れている音楽も店主の趣味なのか比較的静かで感じのいい曲。その所為か客層もどことなく落ち着いた人が多い。少なくても、場所をわきまえず騒ぎまくるバカが来るような場所ではない。そう言った雰囲気がこの店には漂っている。
 そんな店の奥の方のテーブルに真鍋 和の姿があった。店内の落ち着いた雰囲気を楽しみながら、店主が厳選した最高級のコーヒーを飲む。この店を知ってから、こうした一時を過ごすのが忙しい毎日を送る中でのある種の息抜きであり楽しみとなっていた。
 しばしコーヒーを味わいながら新聞を読み、静かな雰囲気の中で時間を潰していると、カランカランとドアに取り付けられているカウベルが綺麗な音を立てる。和が顔を上げてみると、大きなギターケースを抱えた女性が中に入ってくるのが見えた。誰かを捜しているのかキョロキョロと店内を見回している女性に向かって和は軽く手を挙げて自分の所在を知らせる。どうやら彼女と待ち合わせていたらしい。
「すいません、お待たせしました」
 和に気付いたらしい女性が少し小走りになってテーブルの側にやってきた。
 彼女が来たのを見ると、和は広げていた新聞を折り畳み、テーブルの上に置く。それから立っている女性に座るよう促した。
「別に構わないわ。急に呼び出したのはこっちだもの。時間、大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です。今日はリハーサルだけですし、それも夕方からの予定ですから」
 椅子に座りながら女性がそう答える。持っていたギターケースは倒れないよう注意しながら脇に置いた。近寄ってきたウェイトレスにミルクティーを頼み、それから自分を呼びだした和の顔を見る。
「それで今日は何の用ですか?」
 いきなり本題を切り出したのは、和が決して暇な人間ではないと言うことを知っているからだ。和の職業は警察官、しかもかなりのエリートだ。二十代前半で既に警部なのだから。本当ならばこうしてのんびりとお茶などしている暇はないはず。
「………」
 質問に和は沈黙で答えた。答える気がないと言うことなのだろうかと、彼女の真正面に座る女性は考える。いや、それならこうしていきなり呼び出したりはしないはずだ。何か切り出しにくい用事なのかも知れない。
「あの、和さん……」
「とりあえずあなたの注文したものが来るまで待ちましょう。いいわよね、梓ちゃん?」
 そう言って微笑む和を見て、女性――中野 梓は頷くしかなかった。

 二人が知り合ったのは高校の頃。だが、その頃はまだそれほど親しかった訳ではない。両者の間にある姉妹がいて、その繋がりで知り合ったようなものだ。あの頃はこうして突然呼び出しを受けたり、相談をするような間柄になるとはどちらも思っていなかった。二人の関係を縮めたのはとある事件が切っ掛けだった。
 それは今から五年前。二人の共通の友人で、二人が知り合う切っ掛けとなった姉妹が突如失踪した。家族にも親しい友人達にも誰にも何も言わず、ある日突然姉妹は雲のように消えてしまったのだ。姉妹が失踪したのと同じ日にとあるレストランで従業員や客が一斉に消えるという不可解な事件が起こっている。
 このレストランにその姉妹がいたという証拠は何処にもなかったが、姉妹が失踪する理由などまるで思いつかなかった事から、この謎の事件に姉妹が巻き込まれたのだと皆考えた。そしてその事件を調査し、失踪した姉妹を見つけだす為に和は警察官になったのだ。
 姉妹が失踪した直後、梓はショックに打ちのめされていた。姉の方は高校時代からの部活の敬愛する先輩、妹はクラスメイトで親友。一気に二人を失ったことに耐えられなかったのだ。そんな彼女を立ち直らせたのが部活の先輩達であり、そして和だった。
 元々姉妹とは幼馴染みだった和も突然の失踪にショックを隠し切れていなかったのだが、彼女はそれに負けず、二人を捜し出すと決意した。そして同じように打ちのめされている梓を叱咤し、時に励まして何とか立ち直らせたのだ。
 あの時のことを思い出して、和がふっと笑みを漏らす。
『そうやって泣いていても二人は帰ってこない。二人は私が必ず見つけ出す。だからあなたは二人が帰ってきた時、笑って出迎えるようになりなさい。二人の帰ってこれる場所になりなさい』
 その言葉を切っ掛けに梓はようやく立ち直った。そして今ではそこそこ売れっ子のアーティストだ。高校時代、軽音楽部に入り、そして大学でもその時の先輩達とバンドを続け、遂にメジャーデビューを果たした。CDもそれなりに売れているようで、明日からは三日間連続のライブの予定だと聞いている。今までに行われたライブなどにも時間の許す限り和は見に行っていたが、どの時も盛況で、中には熱狂的なファンもいるらしい。
「……そう言えば明日からライブだったのよね。ごめんなさいね、こんな大事な時に呼び出したりしちゃって」
「いえ、構いません」
「それじゃ私もあんまりのんびりもしていられないからそろそろ本題にはいるわね」
 引き延ばしたのは自分だとわかっていても、あえて和はそう言った。そう言うことで、心の中で一つの区切りをつけたのだ。
「梓ちゃん、あなたに謝らなければならなくなったの」
「……どうしたんですか?」
 突然そう言われて梓が驚きの表情を浮かべる。和には色々と世話になりっぱなしだ。例の姉妹の失踪に関する情報を秘密裏に貰ったこともある。実際のところ、何もわからないに等しいものだったが、それでも警察官である和が色々と調べてくる情報の中にあの姉妹が死んだとされるようなものはない。まだ姉妹は生きていると、少ない情報の中から推測されるのだ。そんな、かすかな希望ではあるが、それを与えてくれている和に謝られるような理由など梓にはまるで思い当たらなかった。
「しばらく日本を離れることになったの。ICPOに出向って形でね」
「ICPOって……あのICPOですか!?」
 ICPO――国際刑事警察機構、通称インターポールとも呼ばれる国際的な犯罪防止の為に結成された国際的な警察組織のことだ。単なる警視庁の一警部がそのようなところに出向するというのは、和がかなり優秀だと認められているからだろう。しかし、当の本人は浮かない表情をしている。それが梓には気にかかった。
「それって出世……ですよね? どうして、その……」
 聞いていいものかどうか、思わず迷ってしまい、それが言葉を濁してしまう。しかし、梓の気持ちがわかったのか、和はふっと微笑んで見せた。
「まぁ、確かに出世と言えば出世でしょうね。戻ってきた時にはその肩書きもつくから。でも、そっちに行っちゃうと……あの事件、調べることが出来なくなっちゃうでしょ」
 和の返事を聞いて、梓はようやく彼女が今一つこの話に乗り気でない理由を理解した。
 和は幼馴染みの姉妹の失踪事件を調べ、二人を見つけ出す為に警官になった。実際にその事件ばかりを調べる訳には行かなかったのだが、それでも時間が許す限り、たった一人で調査を続けている。だが、ICPOに出向してしまうと日本から離れることになり、姉妹の失踪事件の調査を続けることが出来なくなってしまうのだ。
 梓がふさぎ込んでいたのを立ち直らせる際に、あの姉妹は必ず自分が見つけてみせると言った以上、日本を離れることはあの時の言葉を嘘にしてしまう。何と言っても出向期間は未定、何時帰ってこられるかわからない。それに長く日本を離れている内に姉妹の情報がどんどんなくなってしまうことも懸念された。
 和が何を悩んでいるのかを理解した梓はどうするべきかを考える。確かに和が日本を離れてしまうとあの姉妹が今現在何処にいるのかを探す手がかり、情報は入らなくなってしまうだろう。だが、この話は和自身の人生にとって決して悪くない話だ。むしろプラスに働くだろう。ただでさえ、和はあの姉妹の為に自らの人生を棒に振っている。もう解放してやってもいいのではないだろうか。
「……行ってください」
「え?」
「ICPO、行ってきてください。これは和さんにとってのチャンスです! 棒に振るなんてもったいないです!」
 梓がそう言うのが想定外だったのか、和が目を丸くしていた。
「でも、何時帰ってこれるかもわからないし」
「構いません。唯先輩達のことなら私に任せてください」
 驚き、そして躊躇いがちにそう言う和に梓はぴしゃりと言い放つ。
「で、でも……」
 それでもまあ何か反論しようとする和。この様子から、今回のICPO出向の話を断るつもりだったのだろう。梓をわざわざ呼びだしてこの話をしたのは彼女に引き留めて貰い、自分の決意を固める為だったのかも知れない。だが、予想に反して梓にICPO出向を勧められてしまい、それで戸惑ってしまっているのだ。
「大丈夫です。私がバンドを続けてるのは唯先輩や憂を捜す為でもあるんです。私だけじゃなくって律先輩、澪先輩も同じ気持ちです。私達の音楽が届けばきっと連絡してきてくれるって」
 そう言った梓の目には決意の輝きがあった。ずっと音楽を続けていて、そして遂にメジャーデビューも果たしたその努力の裏にはそう言った事情があったことを、和は初めて知る。それに彼女の言うこともあながち間違ってはいないだろう。あの姉妹が失踪した理由は未だ不明だが、少なくても失踪直前まで姉の方はこの先も音楽に携わっていくつもりだったことを和も知っているからだ。梓達の奏でる音楽を聴けばきっと何らかの連絡をしてくるに違いない。連絡出来るような状況であれば、の話だが。
 正直なところ、和はあの姉妹が自分たちの意思で失踪したとは考えていない。何らかの事件に巻き込まれたのだと思っている。その事件が五年前にあったレストランでの集団消失事件なのかどうかはわからないが。何にせよ、何らかの事件に巻き込まれてその行方を眩ませたのなら、向こうから連絡してこれる可能性は低いだろう。
 しかし、それを梓に言う気はなかった。可能性はあくまで可能性だ。もしかしたら連絡があるかも知れない。どれだけ低くてもその可能性はゼロではないのだから。
「だから和さんは心配しないで行ってきてください! 私も色々と手を尽くして唯先輩達を捜しますから!」
「……ありがとう、梓ちゃん。あなたのお陰で決心が付いたわ」
 そう言って和は微笑む。
「ICPOに行っても何も出来ない訳じゃないし、もしかしたら二人とも海外にいるのかも知れない。私も頑張ってみるわ」
「はいです!」
 梓も満面の笑みを浮かべてそう頷いた。

 都内某所にあるライブハウスに和と別れた梓はやって来ていた。彼女の所属するバンド”A.S.T.T.”のライブが明日から三日間、このライブハウスで行われることになっていて、そのリハーサルを行うことになっているのだ。
「おはようございまーす」
 そう言って控え室にはいると、先に来ていたらしいバンドのメンバーが彼女の方を振り返った。
「おはようございます!」
「おはよう、梓」
 元気よく返事をしたのは梓と同じギターを担当する村上静佳。ショートカットの、如何にも元気一杯と思わせる快活な少女だ。”A.S.T.T.”のメンバーの中では最年少で、一番新入りでもある。
 静佳とは違って落ち着いた印象で挨拶を返したのは秋山 澪。”A.S.T.T.”の最古参メンバーの一人でベースとメインボーカル担当。梓とは高校時代の一年先輩でもあり、公私ともに仲がいい。
「あれ? 律先輩と文は?」
 自分が一番最後だろうと思っていたのだが、どうやらまだ来ていないメンバーがいるようだ。
 ”A.S.T.T.”の最古参メンバーであり、リーダーでもあるドラム担当の田井中律。そして梓の高校時代の後輩であるキーボード担当の錦戸 文。この二人がまだ来ていない。もっとも、リハーサルの開始時間にはまだ充分時間があるのだが。
「律なら事務所の方に行ってるよ。文はちょっと遅れるって連絡があった。多分、律に捕まって運転手させられてるんだろ」
 澪が愛用のベースをチューニングしながら言う。
「律さんって確か自分で免許持っていたッスよね?」
「でも車は持っていないからな。うちのメンバーで車を持ってるのは文だけだし」
 静佳の質問にそう答えながらも、澪は自分のベースのチューニングに余念がない。
「まぁ、まだ時間もあるから別にいいだろ。それに文が一緒にいたら律も寄り道とかしないで真っ直ぐにここに来るだろうしな」
 澪がそう言うのを聞きながら梓も自分のギターをケースから取り出し、チューニングを始める。昔から愛用しているムスタング。”A.S.T.T.”としてデビューを果たした後も、ずっとこれを使い続けているのは行方不明の姉妹に自分の存在をアピールする為だ。これを使い続けていれば、必ず連絡してきてくれると信じて。
 自分のギターのチューニングを終えた後、梓は控え室の隅に置かれているギターケースを振り返った。何も言わずに立ち上がると、そのギターケースに近付き、中から一本のギターを取り出す。ギブソン・レスポール。勿論梓のものではない。
 このギターは、今はここにいない梓の先輩のもの。行方不明となった彼女が大事にし続けていたもの。何時か必ず彼女が帰ってくると信じて、このギターは”A.S.T.T.”のリーダーである律の手によって大切に保管されており、ライブがある度にステージの隅に必ず飾られている。その為に”A.S.T.T.”のファンからは謎のこのギターについてちょっとした論争が起こっているぐらいだ。
 梓は愛おしげにギターのネックを撫でてから、徐にチューニングを開始した。おそらく使うことはないだろう。それでも万が一、億が一の可能性に賭けて、いつでも使えるよう準備だけしておくのだ。
「……澪さん、ちょっといいッスか?」
「何?」
 チューニングしている梓を視界に捉えながら静佳が澪に耳打ちする。
「前から疑問だったんスけど、あのギターって何でいつも飾っておくだけなんスか? 私が触ろうとすると梓さん、物凄い怒るし。飾っておくだけじゃなくって使えばいいと思うんスけど」
「あれは……まぁ、何て言うか、メッセージみたいなもんだよ」
「メッセージッスか?」
「ああ。静佳にも教えてあるだろ。元々私達は高校時代の仲間だって話。その内二人がいなくなって、それから文が入って静佳が入った」
「そうッスね」
「二人がいなくなった詳しい話、覚えてるか?」
「確か……一人は何かの事件に巻き込まれて行方不明、もう一人は家の事情でって」
「ああ。その一人……行方不明になった方の奴が使っていたのがあのギターだよ。いつでも帰ってこい、お前の居場所はまだここにあるって言う私達なりのあいつへのメッセージなんだ」
「それは……私が触ったら怒られる訳ッスね」
「梓はあいつのこと何だかんだで好きだったからな。まぁ、でもあんまり気にするなって。静佳も”A.S.T.T”のメンバーであることに変わりはないんだからさ」
 何となく落ち込んでしまった感じのする静佳に澪は優しくそう言い、微笑んでみせる。その一人が帰ってきたら自分は不必要になるとでも思ったのだろう。
「待たせたなー、野郎共ー!!」
 突然控え室のドアが力一杯開かれ、そんな大声と共に二人の女性が中に入ってきた。一人は前髪を黄色いカチューシャで留めている。もう一人は長い髪を横で留めたサイドポニー。大声を上げたのはカチューシャの女性、田井中律だった。サイドポニーの女性、錦戸 文は少し呆れたよう、それでいて何処か諦めたような笑みを浮かべている。
「誰が野郎共だ、ここには女しかいないだろ」
 完全に呆れ返った表情で入ってきた二人を見る澪。その隣で静佳が苦笑を浮かべているが、律は意に介した素振りもなく空いている椅子にどかりと腰を下ろした。
「いや〜、疲れた疲れた。文、お茶」
「自分で入れてください。それに何が疲れたですか。先輩、何もしてないじゃないですか」
 澪の言っていた通り、律に運転手をさせられていたのだろう。口を尖らせながら文がそう言い、それから梓の側へと寄っていく。
「梓先輩、おはようございます」
「うん、おはよう、文」
 挨拶してくる文に梓はそう答えると、チューニングの終わったギターをケースの中に戻した。その様子を見て、文が悲しげな顔をする。
 彼女は澪や律とは直接の先輩後輩という間柄ではない。彼女が高校時代、もう二人は卒業しており、直接的な部活の先輩と言えば梓だけだったのだ。それでも彼女は梓がしまい込んだギターの持ち主のことをよく知っている。何度も梓から聞かされていたからだ。それにギターの持ち主の妹であり、梓の親友だった少女には文も何度と無く世話になった。だから、その二人が失踪したと聞いて、文も心配しているのだ。
「……梓先輩、その……」
「そう言えば梓〜、和にはもうチケット渡してくれたか〜?」
 文が何か言いかけたのを遮るかのように律が尋ねてきた。何処か脳天気なその声にちょっとだけ文はムッとしてしまう。
「一応渡すだけ渡しておきましたけど、今回は無理かもって言ってましたよ」
「無理〜?」
「何か事件でもあったのか?」
 怪訝な顔をする律と心配そうな顔をする澪。二人とも和とは同級生で、高校時代は彼女の世話に何度もなっている。その恩返しのつもりなのか、”A.S.T.T.”が東京でライブをする時はいつも彼女にそのチケットを渡しているのだ。そして、和の方も時間の許す限りライブに顔を出していた。彼女が来れない時が大抵何かしらの事件が起きていて、それの捜査の担当になっている時だ。澪が心配しているのはその為だろう。
「いえ、今は特にそんな大きな事件とかはないそうですけど。今度、和さん、ICPOに出向することになったんでその準備で忙しいそうです」
「ICPOって、あのICPOッスか!?」
 梓の言葉に敏感に反応したのは何故か静佳だった。一番の新入りとは言え、”A.S.T.T.”にメンバー入りして既に一年以上経つ。プライベートでも仲のいいこの五人は練習後に揃って食事に行ったりする機会も多く、その時、偶々オフだった和も同席したことがあり、静佳も彼女と面識があったのだ。
「かの有名な銭形警部が所属するという……」
「いやいやいや、それ、架空の人物だから」
 何故かうっとりしている静佳に思わず突っ込みを入れてしまう律。
「でも凄いですね」
 驚きを隠せないと言う感じでそう言ったのは文だ。しかし、その側で澪は納得出来るという感じで頷いている。
「和は優秀だからな。当然だろう」
「しっかしな〜……何つーか、凄いとしか言いようがないと言うか」
 律もまた和が如何に優秀であるかをよく知っている為、感慨無量という感じを見せている。
「でもそうなるとちょっと残念ッスね。よく見に来てくれていた人がいなくなるッスから」
「そう言っても仕方ないだろ。和にも色々と都合ってものがあるんだし」
「あ、でも例の花束の君は来てくれるッスよね」
「花束の君!?」
 突然の静佳の発言に他の四人が揃って怪訝そうな表情を浮かべた。あまりにも唐突で、且つまったく聞き覚えのないキーワードだったからだ。
「何の事だ、それ?」
 質問したのは律。すると、静佳は逆に意外そうな顔をして彼女を見返した。
「何の事って……いつもライブの時に花束送ってくれる人がいるじゃないッスか」
「……そう言えばいたな。何処でライブしても絶対に花束送ってくれる人」
 ちょっと考えてから澪が答える。
「でもライブの時に花束くれる人って結構いると思うけど」
「いやいや。文さん、その花束の君は必ずスタッフに直接手渡してくれてるンすよ。前にその瞬間を見た事あるッスから。名前を聞いても教えてくれなかったそうですけど」
「名乗らずに花束だけをくれる人、か。だから花束の君って訳ね」
「私達のファンだって事と女の人だって事ぐらいッスね、わかってるのは」
 何故か自慢げにそう言う静佳に文が苦笑を浮かべた。何でお前がそんなに自慢げなんだという感じだ。
「何ならスタッフの人に確認してみればいいッスよ。きっと覚えている人がいるはずッスから」
「ストーカーとかじゃなければいいんだけどな」
 ニヤニヤ笑いながら律がそう言って澪を見やる。澪がそう言ったものを苦手としている事を知っていてからかっているのだ。案の定、澪は律の言った”ストーカー”という言葉に過剰反応して既に涙目になり、耳を手で押さえてしまっていた。
「そろそろリハーサル、始めませんか? みんな待ってると思いますよ」
 そう言って梓が立ち上がった。このまま話を続けていると、最後には律と澪のケンカになってしまう。そうするといつまで経ってもリハーサルが出来なくなる。ここにいるのは自分たちだけではない。他にも様々な人達が、明日からの”A.S.T.T.”のライブを成功させる為に集まってきているのだ。そんな彼らに迷惑をかけてはいけない。
「それもそうだな。それじゃそろそろ行くか」
「うっす」
「了解です」
 律がそう言うと静佳と文が揃って椅子から立ち上がった。しかし、澪だけは立ち上がらずに、耳を押さえて椅子の上で踞ってしまっている。どうやら梓の声は聞こえていなかったらしい。
「澪さん?」
「あー、澪はあたしが連れて行くから三人は先にステージの方に行っておいてくれ」
 澪に声をかける静佳だが反応はまったく返ってこない。仕方ないと言う風に笑みを浮かべながら律がそう言い、梓がそれに頷いて二人を引き連れて先にステージの方へと向かっていくのだった。

 ”A.S.T.T.”のライブは盛況のうちに終わった。会場となったライブハウスは三日間とも満員御礼、アンコールにも応えて今”A.S.T.T.”のメンバーは控え室に戻って一息ついていた。この後、会場の片付けが終わったら皆で打ち上げの予定だ。
「いや〜、今回もばっちりだったな!」
 タオルで汗を拭いながら律がそう言い、メンバー全員を振り返る。彼女だけではなく、他の面々も汗びっしょりだ。それだけ演奏に熱中し、そして会場の熱気が物凄かったと言う事なのだろう。
「まぁ、律にしてはまともだったな」
 スタッフが用意してくれたミネラルウォーターを飲みながら、少しニヤリと笑いつつ澪がそう言う。律とは子供の頃からの付き合いだ。彼女の癖はよくわかっている。その辺の事をからかっているのだろう。
「何だと、このー」
 笑いながらそう言って澪に飛びかかっていく律。からかわれたのにもかかわらず笑っているのはライブが成功して上機嫌な為だろう。
 じゃれあっている二人を笑いながら静佳と文が見ている。そんな中、梓は自分のものではないギターをケースに仕舞いながら小さくため息をついていた。
 単なる希望に過ぎない事はわかっていた。今までもずっとそうだったのだから。しかし、それでもやはり悲しくなってしまう。今回もまた、自分たちの声は届かなかったのだと。
「そうそう、みんなに言い忘れてた事があったんだ」
 そろそろ澪が怒り出しそうなのを見計らって、素早く彼女から離れた律がそう言い、皆の注目を集める。
「言い忘れた事?」
 あからさまなまでに怪訝そうな顔をして尋ね返す澪。
「ほら、リハーサルの日、事務所に呼び出されたじゃんか。あの時社長から次のライブ、何処でやるか教えて貰ってたんだよ」
「今回のが終わって、またすぐライブですか?」
 少しだけ嫌そうな顔をしたのは文だ。今回のライブは三日間連続。ただでさえその一回一回に全力を投入しているのだから、出来れば少しくらい休養期間が欲しいのだろう。そうでなくても色々と忙しいのだから。
「いや、もうちょっと先になる予定だって話だぞ。とりあえず場所だけ決定しているからって」
 そんな文の不満に気付いたのだろう、苦笑を浮かべながら律がそう言った。彼女だって文と同じ気分だからだ。正直なところ、事務所の社長にその話をされた時、彼女も文とまったく同じ反応をしたのだから。
「それで、場所は何処ッスか?」
 メンバー中最年少であるだけあって静佳はまだ元気が残っているようだ。もっとも他の四人もそんなに歳は変わらない。皆まだ二十代前半なのだから。単に静佳がその口調と同じく体育会系のノリであるから、だろう。そんな彼女は興味津々という風に目を輝かせながら律の方をじっと見つめている。
「ふっふっふ〜……聞いて驚け! 何と!」
「何と!?」
「この地球上でもっとも未来に近い街<セレスティアスシティ>だっ!!」
「おおっ!!」
 律の発言に皆が思わずどよめいた。
「律、それって間違いないのか?」
「疑うんなら社長に直接聞いたらいい」
 驚きを隠せないようでありながらも、何処か疑うように聞いてくる澪にニヤリと笑って律が答える。その自信たっぷりな態度から、冗談とかドッキリとかではないのだろう。
「<セレスティアスシティ>って言えばあれですよね、高級リゾートでもあるんですよねっ!?」
「その通り! 空いた時間は自由にしていいとも言われてるから遊び放題だっ!」
 目をキラキラさせながら文が尋ねてくるのに、やはり律は元気よく答えた。
「まぁ、言ってみればちょっとしたご褒美みたいなもんなんだってさ。結構私達のCD売れてるし、ライブも毎回盛況だし」
「そ、それで、滞在は何日ぐらいなんスか?」
「まだ予定だが、何と一週間ぐらいだ!」
「おおっ!! それじゃマジで遊ぶ時間とれそうッスね!!」
 そう言って静佳が隣にいた文とハイタッチする。
 ライブが終わった直後でただでさえテンションが高いところに、このご褒美とも言える次回ライブの決定。更にテンションが上がったように静佳と文、そして律も混じってワイワイ騒いでいる。
 しかし、そんな中で梓だけが妙に静かだった。
「……梓?」
 一人黙り込んでいる梓に澪が声をかける。
「……あ、すいません澪先輩。ちょっと考え事してて聞いてませんでした」
 声をかけられてようやく我に返ったように梓はそう言い、ワイワイと騒いでいる律達の方を見て目を丸くした。
「えっと、何があったんですか?」
「次のライブをあの<セレスティアスシティ>でやる事になったんだ。半分ぐらいは私達に対するご褒美みたいなものらしいけど」
 苦笑を浮かべつつ澪は話を聞いていなかった梓に説明する。それでようやく梓も律達が何で騒いでいるのか、理解したようだ。
「……何か……みんなで合宿行った時の事を思い出しますね」
 騒いでいる律達を見ながら梓がぽつりと言った。彼女の視線の先にいる三人に、今はこの場にいない人物の姿が重なる。高校の頃の制服を着た、今はこの場にいない二人が幻影のように梓の脳裏に浮かび上がる。
「……そうだな。あの頃はムギがいて、唯もいて、合宿やるぞって言ったらああやって騒いでいた。それで、私と梓の二人でちょっと呆れててな」
 懐かしむように澪が言い、それから梓の肩に手を置く。
「大丈夫だよ。唯も憂ちゃんも絶対に見つかる。ムギだって連絡が付けば何時だってあえる。それに……律も色々と手を尽くして唯達の事を捜して貰ってるんだ」
「そう……だったんですか?」
「ああ。あいつからは言うなって言われてたけどな」
 そう言って苦笑を浮かべる澪。
 バンド活動に夢中でもう行方不明になった仲間の事などすっかり忘れているのではないかと密かに思っていた。だが、律はずぼらそうに見えて、色々と他人を気遣える人間だ。ある日突然失踪し、未だ行方不明の姉妹のことを心配していないはずがない。そもそもメジャーデビューして行方不明の姉妹にメッセージを伝えようと言い出したのは律だったではないか。
「……正直、ちょっと見直しました、律先輩の事」
「忘れるわけないじゃないか。唯もムギも大事な仲間なんだ。勿論憂ちゃんもな」
 梓の言葉に澪は苦笑を維持しつつ、そう答えるしかなかった。そして同時に梓が律の話を何で聞いていなかったのかも理解する。梓が考えていたのは例の姉妹の事。そして、律が姉妹の事を忘れているのだと思い込んでいたからこそ、彼女の事を少し軽んじていたのだろう。
「それに唯のギター、律が大事に保管しているだろ」
「そう言えばそうでした」
 そう言ってようやく梓が笑顔を見せる。
「あ、ちょっとお手洗い行ってきますね」
 澪に断ってから梓が控え室を出ていった。
 小さく頷いて梓を見送った後、澪は何気なく部屋に隅にある花束や差し入れの箱などが置かれているテーブルの方を見やる。ほとんどが彼女達のファンからのものであるが、中には作曲家や作詞家、プロデューサーやテレビ局からのものもあった。一つ一つ確認していると、その中に一際豪華そうな包装の施された箱が目に付く。何となく気になったので手に取ってみると、メッセージカードが挟まれていた。それを読んでみて、澪は慌てて律の方を振り返る。
「り、律! ちょっと来い!」
「何だよ〜、澪」
 未だに文達と騒いでいた律が水を差されたように感じたのか、唇を尖らせながら澪の側へとやって来た。そんな彼女に澪が持っていたメッセージカードを突きつける。その文面を読んだ律の表情が変わった。
「へへっ……何だよ、ムギの奴……」
 嬉しそうに、少し涙ぐみながらそう呟く律。
「澪、梓が戻ってきたらこれ見せてやれ! 絶対にあいつも喜ぶぞ!」
「ああ、もちろんだ!」
 澪も半泣きになりながら律の言葉に同意する。
 後の二人、文と静佳は完全に置いてけぼりにされた感じで、二人で顔を見合わせ、揃って首を傾げているのだった。

 トイレから出て控え室へと戻る途中、梓はスタッフの一人と見慣れない女性が何やら話し込んでいるのを見つけた。そのまま気にせずに控え室に戻ってもよかったのだが、何となく足を止め、二人が何を話しているのか耳を澄ませてしまう。
「別に構いませんから」
「そう言わないでくださいよ。いつも来てくれてるし、”A.S.T.T.”の皆さんもあなたに興味津々だって聞いてますから、きっと喜んでくれますって」
「いえ、私は……」
「それに今回のライブが始まる前に頼まれてたんですよ。あなたが来たらお礼を言いたいから引き留めておいてくれって。だから大丈夫ですって」
「いえ、本当に構わないでください。私が好きでやってる事なんで」
 話している、と言うよりは半ば押し問答になってしまっている感じだ。よく見るとスタッフの方は結構古参のスタッフで”A.S.T.T.”のライブには毎回参加している人だ。勿論、梓も顔を知っているし、言葉を交わした事もある。
 対して女性の方はまったく見た事がない。しかし、スタッフの人の口振りからすると、いつもライブを見に来てくれているらしい。それにわざわざああやって引き留め、お礼を言わなければならないような人。更によく見ると女性の手には大きな花束が握られているではないか。その事から、きっとあの女性が今回の三日間連続ライブの前、リハーサルをした日に静佳が言っていた”花束の君”だろうと推測する。
「……あの」
 しつこいスタッフに困惑気味の女性。助け船を出すように梓が声をかける。
「あ、梓さん! この人ですよ! ライブの度に絶対に花束を持ってきてくれている人!」
 スタッフが振り返って梓を確認すると嬉しそうにそう言った。
「ああ、あなたが噂の”花束の君”なんですね。いつもありがとうございます」
 どうやら自分の推測は当たっていたらしい。精一杯の笑顔を浮かべて丁寧にお辞儀する。しかし、女性はそんな梓を見ても何も言わず、それどころか持っていた花束をスタッフに押しつけると踵を返してさっさと歩き去ってしまった。
「え? ええ?」
 困惑の声を漏らしたのはスタッフだ。日本全国、何処でライブをやっても必ず花束を持ってやって来てくれていた事から”A.S.T.T.”の熱狂的なファンである事は間違いないだろう。なのにどうしてその”A.S.T.T.”のメンバーである梓を見て、更に彼女に丁寧に頭を下げられたのにも関わらず、逃げるように去っていってしまったのか。まったく理解が出来ない。
 しかし、梓はそうではなかったらしい。何を思ったのか、彼女は去っていった女性を追いかけるように走り出してしまったのだ。
「あ、梓さん!?」
「すぐに戻るから!」
 スタッフが驚きの声をあげるのにそう返しながら、梓は走る。まだステージ衣装のままライブハウスを出て、通りに飛び出すとすぐさま左右を見回し、女性の姿を捜す。
(……いたっ!)
 例の女性は結構早足だったが、走って出てきたお陰か、まだ女性はそれほど遠くへは行っていない。充分追いつける範囲だ。だからまた梓は走った。
「ま、待ってください!」
 走りながら大声で女性に呼びかける。しかし、女性は立ち止まらない。仕方なく梓は女性に追いつくまで走り、その腕を掴んだ。
「ま、待って……ください……」
 ハァハァと呼吸を荒くしながら、女性を見上げる梓。
 女性は、おそらくライブハウスを出てからかけたのであろうサングラスの下で困惑の表情を浮かべている。何で梓がわざわざ自分を追いかけてきたのか、理解出来ないようだ。
「……お礼とかそう言ったものならいらないよ。私が好きでやっている事だからね」
 そう言ってから女性は、しまった、と言う風に口を手で押さえた。
 それが一体どうしてなのか梓にはわからない。しかし、何かその口調に懐かしいものを感じたのは確かだ。だから。
「すいません、少しお時間よろしいですか?」
 気がついた時には既に口が勝手に動いていた。

 女性を引き連れて梓が向かったのはライブハウスのある通りから少し離れたところにある公園だった。もう夜も九時を回っているので二人の他に人の姿はないし、繁華街から少し離れている所為で小さな街灯があるだけでかなり薄暗かったのだが、二人は気にすることなく中にあるベンチに並んで座る。
「………」
「………」
 ベンチに並んで腰を下ろしてから、何故か沈黙が続く。女性は何も言わないし、誘った方の梓も何を話せばいいのかわからないでいる。そもそもどうしてこの女性が気になるのか、自分でも今一つわからないのだ。
 しかし、わざわざ時間を取って貰ったのだ。こうして黙っている訳にも行かず、梓は恐る恐る口を開いた。
「あ、あの……いつもいつもライブに来てくださっているそうで、本当にありがとうございます」
「……さっきも言ったけど、私が好きでやっている事だからお礼なんて言わなくてもいいわ。むしろいつも素晴らしい音楽を聴かせて貰っているのだからお礼を言うのはこっちの方よ」
「でも、日本中何処でやっても必ず来てくれてるって話じゃないですか。それって結構大変ですよね」
「だから、それも私が自分で好きでやってるんだって。それに、私以外にもそう言ったファンは多いわよ。あなた、そんな人達の一人一人にお礼を言うつもりなの?」
「あ……いえ、そう言う訳じゃ」
「ごめんなさい、あなたを責めるつもりじゃなかったの。ただ、私だけ特別扱いしたら他のファンの人に悪いわよって話でね」
 諭すように女性に言われて、梓は思わず俯いてしまう。自分たち”A.S.T.T.”のファンは多い。女性の言う通り、彼女以外にも日本のあちこちで行われているライブに全て来てくれているファンも多いだろう。なのに梓がこの女性だけにお礼を言うのは他の多くのファンを蔑ろにしているのではないか。その事に気付かされたのだ。
 落ち込んでしまった梓を見て、女性は小さくため息のようなものを漏らすと、彼女の頭に手を置いて撫で始めた。何の躊躇いもなく、まるでそうするのが当たり前だという風に優しく、何度も梓の頭を撫で続ける。
 その手のぬくもりに懐かしいものを感じた梓が顔を上げ、女性の方を見る。サングラスをかけてはいるが、浮かべているのは優しく、そして愛おしげな表情だ。不意に、彼女の表情に懐かしい誰かの表情が重なった。
「……!」
 瞬間、ビクッと身体が震えてしまう。
 それを感じ取った女性が慌てて梓の頭を撫でていた手を放してしまった。
「あ、ごめん……なさいね。つい……」
 何故か言葉を選ぶようにしながら、女性は少し残念そうな顔をして言う。
「あ、いえ、こっちの方こそ……」
 梓は少し名残惜しいものを感じつつ、何故そう言う風に思うのかを女性に謝りながら考えていた。そして、すぐに結論が出る。
(そうか……この人の手、撫でてくれた感触……唯先輩に似てるんだ……)
 思い起こされるのは高校時代に出会った一人の先輩の事。自分の事をまるでぬいぐるみか小動物のようにいつも抱きついてきて、いい子いい子と頭を撫でてくれたスキンシップ過剰な人。いつもまるで太陽のように満面の笑みを周りに振りまいていた人。梓の事を好きだと言って憚らなかった人。そして、ある日突然妹と共に失踪し、未だ行方不明になっている、梓にとって大好きだった先輩――平沢 唯。
 自分よりも年上なのに何処か子供っぽさを残していた唯。だが、それでいて何故か包容力があった。抱きついてくる身体、頭を撫でたり繋いでくれたりした手。そのぬくもりを忘れた事はない。
 今、梓の隣に座っている女性は梓の思い出の中の唯とは違ってかなり大人っぽい女性だ。長い髪にきっちりとメイクの施された顔。着ている服だって一見して高級品、ブランド品だとわかる。唯が独特のセンスで自ら可愛いと思った服などを選んで着ていた事を考えると、この女性が如何にいいセンスを持っているのかが否応なしにわかってしまった。
 それなのに、まるで逆のタイプであるのに、梓の中で何故か二人が重なってしまう。
「……どうかした?」
 黙り込んでしまった梓を気遣うように女性が声をかけてくる。
「……少し聞いて貰いたい話があるんです。ちょっと長くなりそうですけど、いいですか?」
 気がついた時にはもう口にしていた。ただのファンだと言うこの女性にこの話をしても仕方ないと頭の中の冷静な部分が言っているが、もう止まらない。”A.S.T.T.”のファンは勿論、マネージャーも事務所の社長も知らない”A.S.T.T.”の真実を梓は、この初めて会った女性に全て話していた。

「そう……」
 梓の話を聞き終えた後、女性が静かにそう呟いた。どことなく悲しげな声だ。それが同情から来るものなのか、それとも別のものなのか梓には判断出来なかった。
「……あなたは……その先輩がまだ生きていると思っているの?」
「え?」
 唐突な質問。そして女性の口から出た、一番考えたくない言葉に梓の頭が一瞬、真っ白になる。
「もう五年も経つんでしょう、その先輩と妹さんがいなくなったのは。もし、何かの事件に巻き込まれて行方不明になったのならもう死んでいる可能性は高いと思うんだけど」
 確かに女性の言う通りだろう。だが、行方不明になった姉妹を知っている誰もがその可能性を否定し、頭の中から除外している。二人は絶対に生きている。そう信じて、皆それぞれの手段で彼女達を捜しているのだ。
「もし……その二人が生きているのなら、どうしてあなた達に連絡してこないのかしら。生きているならそれを何とかしてあなた達に伝える努力をするでしょう? それをしてこないって言うのはやっぱり」
「そ、そんな事はありません!」
 女性の言葉を遮るように梓は言葉を荒げていた。そうしなければならなかった。あの二人が生きているのだと信じ続ける為にも。女性の言葉を認める訳にはいかなかった。
「唯先輩も! 憂も! 二人とも生きています! 連絡がないのには何か訳があって! でも、絶対に! 絶対に!! 二人は……生きて……」
 最後まで言い切れない。こぼれ落ちる涙と抑えきれない嗚咽。その二つが邪魔して、梓の伝えたい言葉を遮ってしまう。
 そんな梓を見た女性はすっと手を伸ばして、彼女を抱きしめた。自分の胸元へとかき抱くようにして、片方の手で再び彼女の頭を優しく撫でてやる。
「ごめんね。怒らせたり泣かせたりするつもりはなかったの」
 言いながら梓を抱きしめる手に力込める。まるで、彼女の悲しみを受け止めるかのように。
「でもわかっていて欲しかったの。もしかしたらって可能性の事を。そして……何時までもあなたには、あなた達にはその事に捕らわれていて欲しくないって事を」
 そう言われて梓は女性の腕の中で顔を上げた。サングラスの向こう側、優しい瞳が梓の涙の残る顔を見下ろしている。
「あなた達の曲も歌も素晴らしいと思う。そこに、行方不明になった先輩へのメッセージが込められているってのも素敵だわ。でも、それに捕らわれすぎないで。そうすれば……あなた達は」
 と、不意に携帯電話の着信音らしき音が聞こえてきた。ごめんなさい、と言ってから女性は梓を放し、上着のポケットの中から携帯電話を取り出した。その為に着信メロディがはっきりと聞こえてくる。それを聞いて梓は驚きの表情を浮かべてしまった。”A.S.T.T.”の前身である梓達のバンド”放課後ティータイム”の記念すべき一曲目でもっとも思い入れの深い曲”ふわふわ時間”だったからだ。
 梓達がデビューを果たした時、彼女達のバンド名は”A.S.T.T.”と言う名に変えていた。リーダーである律が”放課後ティータイム”というバンドは律自身と澪、梓、そして行方不明になった唯、そして家の事情で辞める事になった琴吹 紬、その五人が揃って初めて名乗れるのだと言いだし、それに澪も梓も反対しなかったのだ。
 更にその時に”放課後ティータイム”時代の楽曲を全て封印、今市場に出回っている”A.S.T.T.”のアルバムなどにもその頃の楽曲は一つも含まれていない。故にその頃の、”放課後ティータイム”の代名詞と言ってもいい”ふわふわ時間”が着信メロディになって配信されている訳がない。
 では一体どうしてこの女性が何処にも配信されていないはずの”ふわふわ時間”の着信メロディを持っているのか。辛うじてこの曲を着信メロディとして持っているのは”放課後ティータイム”のメンバーとその関係者ぐらいのはずだ。
(……まさか……この人……)
 ぞくっと身体が震えるのが自分でもわかった。この女性が何者であるかはわからない。だが、紬か、行方不明の唯に繋がる人物であるはずだ。そうでなければあの曲の着信メロディを持っているはずがない。いや、もしかすると行方不明である唯本人なのかも知れない。雰囲気が梓の知っている唯とはまるで違うが、彼女がいなくなったのは五年前だ。その五年の間に何かあって、こうした昔とはまるで違う雰囲気を纏うようになったのかも知れない。
(聞いてみないと)
 携帯電話で誰かと話している女性を見ながら、梓は決意を固める。本人でないにしろ、この女性は何かを知っているはずだ。それを聞き出さなければ。
 話が終わるのを待ち、女性が携帯電話をしまうのを待ってから梓が声をかけようとすると、それよりも先に女性の方が梓の方を振り返ってきた。それから梓に向かって手を合わせてくる。
「ごめんなさい、仕事の呼び出しがあったの。もうちょっとあなたのお話聞いていてあげたかったけど、すぐに戻らないと」
 申し訳なさそうに女性がそう言うので梓は頷く事しか出来なかった。
「あなたも早く戻った方がいいわよ。みんな待っているでしょうし。それじゃあね」
 そう言って女性が去っていこうとする。
「あ、あの!」
 遠ざかる背中に思わず梓は声をかけていた。聞きたい事がまだたくさんある。だが、女性にはそれほど時間がないのだ。聞ける事は一つか二つ。
「……何?」
 女性が立ち止まって梓の方を振り返る。優しい笑みを浮かべて、梓が何を言うのかを待っている。
「……また、会えますか?」
「……会えるんじゃないかな。ライブやる時は絶対に見に行くようにしているから」
 おずおずとそう言う梓にちょっと考えてから女性が答えた。それからまたニコッと笑い、まだ何かある?と聞きたげに首を傾げる。
「え、えっと……そうだ! 名前、教えて貰えませんか?」
 必死に考えた末に思いついたのはそれだった。他にも聞かなければならない事があっただろうと思ったのだがもう遅い。
「……”花束の君”じゃダメかな?」
「出来れば本名を」
 笑いながらだったので冗談のつもりだったのだろう。だが、それをばっさりと切り捨て、梓は真剣な目をして女性を見つめる。
「……ごめんね。私はあなたに名乗る程のものじゃないんだ」
 それだけ言うと、女性は梓に背を向けた。歩き出そうとして、すぐに足を止める。しかし、振り返りはしない。
「ねぇ、私からも一つ聞かせて貰ってもいいかな?」
「あ、はい……」
 突然女性にそう言われて梓は戸惑いつつも、そう答える。思わず何を聞かれるのだろうかと身構えてしまう。
「……あなたにとって、この世界は大事?」
「え?」
 あまりにも予想外の質問に梓は思わず聞き返してしまっていた。こんな質問をされるとなどまるで思っていなかったので、どう答えていいのかわからない。それ以前に話が少し大き過ぎはしないか。
「世界、ですか?」
「うん」
 戸惑いながら問い返す梓に女性は頷いてみせる。質問の意味、そして何でこんな質問をしたのかの意図がまるで読めない。だが、女性は真剣なようで、じっと梓の返事を待っている。振り返ろうとはしなかったが。
「……大事、です。少なくても、先輩達が帰ってくるまでは」
「そっか。変な事聞いてごめんね。それじゃ今度こそ。次のライブも、CDも楽しみにしてるよ、あずにゃん」
 梓の答えを聞いて満足したのか、女性はそう言って手を振ってみせた。今度こそ、立ち止まることなく歩き去ってしまう。
 しばらくぼんやりと女性の背を見送っていた梓だが、やがてはっと我に返る。あの女性は最後に自分の事を何と呼んだのか、それに気付いたからだ。
 ”あずにゃん”とは高校時代に唯がつけた、彼女しか呼ばない梓の愛称だ。この愛称も”A.S.T.T.”結成時に梓自身が封印してしまい、知っているのは元々のメンバーである律と澪だけ。ファンの誰一人として知らないこの愛称を、何故あの女性が知っていたのか。
(やっぱりあの人は……)
 胸に次々とわき上がる疑問。あの女性が行方不明になった唯であるならば何故に名乗らなかったのか。いや、そもそもあの女性が本当に唯であるのかどうか。だが、違うのならばどうして”ふわふわ時間”の着信メロディを持っていたのか。そしてどうしてあの愛称を知っているのか。
(……もう一度……あの人と会わないと……)
 あの女性はまた会えると言っていた。ライブをやる時には絶対に見に行くと言っていたではないか。ならば次のライブの時に必ず会えるはずだ。その時に胸の湧き上がった疑問に答えて貰えばいい。いや、必ず答えて貰う。
 そう決意し、梓は皆が待っているライブハウスへ戻るべく歩き出した。

 地球上でもっとも未来に近い街<セレスティアスシティ>――一つの小さな島の周囲を八つの完成したものと一つの建設途中の人工島で取り囲んである海上都市。その中で日本の複数の企業が合同で開発したものが<アイランド1>と呼ばれる人工島である。
 日本の誇る最先端科学を要する企業や大学の研究機関、この地の特別経済区という利点を利用する為にわざわざやってきた金融機関などが主となるビジネス主体の島であるが、沿岸部は他の人工島と違わず高級リゾートとして開発されている。更にこの<セレスティアスシティ>自体が一応日本の領海にほぼ接している為か、他の人工島に先駆けて建設され、そしてもっとも規模が大きい。島の中心に広がるビジネス街とそれを取り囲むように作られた高級マンションなどの住宅街。沿岸部には人工の砂浜が広がり、様々な娯楽施設が並んでいる。
 しかし、島のもっとも内側、唯一の自然の島に続く橋は何故か封鎖されていた。これはこの<アイランド1>だけではなく、他の人工島も同じである。名目上、この<セレスティアスシティ>で唯一の人工島ではない自然の島の環境を守る為と言われているが、それが本当であるかどうかを知る者はほとんどいなかったし、特に知ろうと言う者もいなかった。
 まるで隔離されているかのような自然島。<アイランド1>の中でも屈指の高さを誇る超高層ビルの最上階にあるオフィスからその島を琴吹 紬はじっと見下ろしている。この<セレスティアスシティ>にやってきて四年以上が経つが、あの自然島に足を踏み入れた事はない。何故あの島に人が立ち入ろうとするのを禁じているのか、それがこの海上都市に来てからずっと疑問だった。未だその答えを得る事は出来ていない。
「……お嬢様、あの方がお戻りになったそうです」
 そう言いながらオフィスに入ってきた人物を窓ガラス越しに見て、紬は島から目を離した。それからゆっくりと入ってきた人物の方へと振り返る。
「そう、わかったわ」
 紬はそう言うと、側にある大きなデスクの上のインターホンのボタンを押す。
「今からそっちに行くわ。待っているように言っておいて」
 相手からの返答はなかったが、きっと伝わったはずだ。勝手にそう信じて紬は歩き出す。オフィスを後にして彼女が向かった先にあったのはエレベータだ。このビルの最上階ととある階だけを繋ぐ直通エレベータ。これの存在を知っている者はごくわずか。端的に言うならば紬と先程紬のいたオフィスに入ってきた人物だけだ。ちなみにその人物は執事服を着ている初老の男性で、今も影のように紬の側に付き従っている。紬がエレベータに乗り込むとその男性も当然のようにエレベータに乗り込んできた。
「……お嬢様。お嬢様が何をお考えかは存じませんがあの方とはもう少し距離を置いた方がよろしいかと」
 初老の男性が恐る恐るという感じでそう言うが、紬は何も答えない。それどころか彼の方をじっと睨み付けてきた。
「私はお嬢様の為を思って」
「黙りなさい、斉藤。私のする事に口出ししないで」
 更に何かを言おうとする男性をそう言って黙らせる紬。有無を言わせない迫力がそこには込められていた。親子程にも歳の離れた二人だが、紬は容赦しない。何と言っても彼女の方がこの初老の執事――斉藤の主人なのだから。
 重苦しい沈黙がエレベータ内を支配する。二人が黙り込んでから数秒後、エレベータがようやく停止した。目的の階に到着したらしい。
 エレベータの扉が開くと、その先には薄暗い空間が広がっていた。この高層ビルの途中の階のフロアの半分程を占めるこの空間に紬は躊躇無く踏み込んでいく。照明は最低限で中は向こう側が見渡せない程薄暗い。だがそんな中を、何処へ向かえばいいのかわかっているように彼女は進んでいく。そしてその後ろを斉藤が影のように付き従っていた。
 二人が歩くその周囲には様々な車両が、まるでここが駐車場であるかのように置かれている。ごくありふれた普通の乗用車や市販されているスポーツカー、大型バイクなどの中に紛れ込むようにして明らかに市販されていないであろう車両がいくつも並んでいた。重戦車から砲塔だけを取り除いたようなもの、装甲を施された大型車両の他に一台の黒いマシンがあった。チラリとそのマシンを見やり、紬は更なる奥へと向かう。
 この駐車場の一番奥にはドアが一つだけあった。紬は胸に留めてあったIDカードを手にすると、ドアの横に取り付けられてあるカードリーダーに読み込ませる。程なくしてドアのロックが解除され、ドアが自動的に開いた。
 ドアの先にあったのは、先程までと違って光溢れる空間だ。必要最低限の照明しかなかったあの空間とは違い、こちらは不必要なまでに光が溢れかえっている。
「お待ちしてました、紬さん」
 その光溢れる空間にふっと一人の女性が姿を現した。音も気配もない。何時そこに現れたのかさえわからなかった程。それもそのはず、この女性は単なる立体映像だからだ。時折走るノイズでそれがわかる。
「……昔のようには呼んで貰えないのね」
 少し悲しげに紬が言うが、立体映像の女性は眉一つ動かさない。もっともその顔の半分ぐらいを隠している大型のサングラスのお陰でほとんどわからなかったが。
「もう昔とは違いますから。それで、何の用ですか?」
「……彼女、戻ってきているんでしょう? 少しお話がしたいんだけど」
「……無理ですね。大した用事でもなかったのに、半ば強制的に呼び戻されて、今はふて腐れて寝ちゃってますから」
 そう言った女性の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
「起こしては……貰えないのね」
「はい」
 即答だった。だが、紬もその答えが返って来るであろう事は予測済み。だから気にもかけない。
「とりあえず二人の新しいIDカードを用意してきたわ。明日からはこれを使ってちょうだい」
 紬はそう言うと、ポケットの中から真新しいIDカードを二枚取り出した。そしてそれを立体映像に向かって差し出す。
 立体映像の女性は少しの間そのIDカードを眺めていたが、やがて小さく頷くとすっと紬の方に向かって手を伸ばしてきた。しかし、立体映像であるからその手がIDカードを掴む事はない。その代わりに床から小さなトレイがせり出してきた。そのトレイは紬の胸辺りの高さまで来て、そこで停止する。そこに乗せろと言う事らしい。
「彼女に謝っておいて貰えるかしら? どうしても今日中にこのIDカードを渡しておく必要があったから」
「わかりました。多分起きたら忘れてると思いますけどね」
「だといいんだけど。それじゃこれで失礼するわ」
「はい。お気をつけて」
 立体映像の女性が小さく頭を下げるのを見てから紬はその光溢れる空間を後にした。あまりにも明るいところから再び薄暗い空間へと戻ってみると、その光量の差に一瞬目が眩んでしまう。そんな彼女の後ろでドアが音もなく閉じられた。

 同じ高層ビルの地下にある駐車場から一台の高級車が出てくる。見た感じはごく普通の高級車だが、実際には徹底的な防弾処置が施された、いわば動く要塞のような代物だ。しかしながらその車内はただの高級車、いや相当グレードの高い仕様になっている。座席部分は革張りな上にソファのような弾力を持っており、高級酒の入ったクーラーが備え付けられていた。中の空間もかなり広く、後部座席の前には小さなテーブルすらあった。
 そのテーブルの上に置かれたグラスに自ら取り出したワインを注ぎながら紬はぼんやりとした表情で外を見やった。正直なところ日々の激務やら様々な事象でかなり疲れている。睡眠時間さえもろくにとれない、それこそ徹夜を強いられる日も多い。<アイランド1>の高級住宅地の一角にある屋敷に帰る事が出来るのも実は久し振りだ。
 この<セレスティアスシティ>でも屈指の大企業、琴吹エンタープライズの社長としてはこんな激務は当たり前の事。何と言っても傘下の企業を含めると何万人規模にもなる従業員の生活を支えているのだから。
 だが、紬の心労の理由はそれだけではなかった。多くの社員が決して知る事もないある事柄、それが実は彼女の心をもっとも苦しめ、疲労させている。その事を知っているのは彼女の事を幼い頃からよく知っている執事の斉藤ぐらいだろう。
「……随分とお疲れのようですね、社長」
 ハンドルを握っているのは若い女性。若いながらも確かなドライビングテクニックを持っており、紬の専属の運転手として抜擢された逸材だ。そんな彼女が気軽に声をかけてきたのは、年齢がそう変わらないと言うことと同性である気安さからだろうか。少なくても紬はそんな彼女を咎めた事など無かったし、これからも咎めるつもりはない。
「ええ、そうね……ここ最近忙しい日が続いていたから」
 そう言ってグラスに入ったワインに口を付ける。年代物なのだろうが、味などわからなかった。疲れのあまり舌が馬鹿になっているのかも知れない。つまらなさそうに紬はグラスをテーブルの上に戻し、再び外を見る。
 防弾処理の為されたガラス。外からは中が見えないようになっているが、その逆は可能だ。そんなガラス越しに見えるのは明るい照明に彩られた街並みと行き交う人々。やはりぼんやりとそれを見ながら紬は小さくため息をついた。
「ため息ばかりついていると幸せが逃げていくって言いますよ」
 少しおどけた口調でそう言ってくる女性運転手にほんの一瞬だけ目を向け、紬は苦笑を漏らす。
「もう自分の幸せなんか諦めたわ。今の私はみんなの幸せを支えてあげるので手が一杯だもの」
「どっちかと言うとそっちの方が立派だと思いますよ」
「そう言って貰えると嬉しいわ」
「ですけど、やっぱり自分の幸せも諦めちゃダメだと思いますよ、社長。まだ若いんですし、これからいい出会いがあるかも知れません。そんな辛気くさい顔してたらやってくる幸せも何処かへ行っちゃいますよ」
 女性運転手にそう言われて紬はまた苦笑する。どうやら彼女の言う通り、相当辛気くさい顔をしていたようだ。これも寝不足と疲れから来るもので、彼女は彼女なりに心配してくれているのだろう。雇い主だと言うこともあるのだろうが。
 とりあえず屋敷に帰ったらゆっくりとお風呂に入って、それから久し振りにゆっくりとベッドで休もう。何かトラブルでもない限り明日は完全なオフだ。この疲れた身体を少しでも休めないと、何時か倒れてしまう。
 そんな事を考えながら紬は再びグラスに手を伸ばす。さっきと同じく味などまるでわからなかったが、折角注いだのだからもったいない。そう思ってグラスに口を付けながら外を見ていると、とあるショーウィンドウに貼られている一枚のポスターに目がついた。
「……! 停めて!」
 突然紬が大きい声でそう言ってきたので女性運転手が慌ててブレーキを踏んだ。幸いにも交通量が少なかったので後続の自動車に追突される事はなかったが、それでも突然に急停止に後ろの車から抗議のクラクションが鳴らされる。
 しかし、紬はそんな事などまったくお構いなしに高級車から飛び降りると、ショーウィンドウに駆け寄っていった。彼女の目の前にあるのは一枚のポスター。それはとあるアーティストグループがこの島に来てライブを開催するという告知の為のもの。勿論、それにはグループ名とそのグループのメンバーの写真が印刷されている。
 紬はそっと手を伸ばしてポスターに印刷されているアーティストの顔を順番に手でなぞっていく。
「……りっちゃん、澪ちゃん、梓ちゃん……」
 泣き出しそうになりながら彼女は小さく呟いた。
 そのポスターに記載されているアーティストグループの名は”A.S.T.T.”、彼女が指でなぞったのはかつて一緒にバンド活動をしていた仲間達。
「……どうして……」
 ポスターの横に手をつき、紬は俯いてしまう。その目から涙が一粒こぼれ落ちた。それが懐かしさ故なのか、それともそれ以外の理由からなのかは彼女自身もわからない。
「……どうして……ここに来ちゃうの?」
 この島には来て欲しくなかった。会いたくないのかと言えばそれは否なのだが、会うべきではないと思っている。自分は彼女達を裏切ったのだから。この島に彼女達が来て、自分もこの島にいると知れたら、必ず彼女達は接触を求めてくるだろう。それを断る理由など無い。無いのだが、彼女達に合わせる顔が今の自分にはない。だからこの島にだけは来て欲しくなかったし、自分が何処にいてどう言う生活をしているかを一切知らせていなかったのだ。
 この<セレスティアスシティ>において紬はそれなりの有名人だ。琴吹エンタープライズの社長として、慈善家として、この島有数のセレブとして。おそらくこの島に来れば紬の事を何処かで耳にするに違いない。しない訳がない。
 立ち尽くす紬を後ろから女性運転手が心配そうに見つめている。更にその後方、対向車線を隔てた向こう側の歩道からもう一人、サングラスをかけた女性がじっと紬の様子を見つめていた。

To be continued...

THE Lady S
Prologue Episode The END

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